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エッセー

オージーのお坊ちゃまライフ(最終回)

2008年05月10日

毎年、4月の入学式シーズンになると、大学の学長や総長の祝辞が話題になります。

 
今年の祝辞の中で一番話題になったのは、

「子は親離れを、親は子離れを」という建築家の安藤忠雄が東大の入学式で檄を飛ばした発言でした。

 
新入生の人数よりも、その付き添いの人数のほうがずっと多かった東大の入学式でのことです。

 
「中学生じゃないんだから」との声が聞こえてきそうですが、最近の日本の親子関係を象徴しているようです。
小学校から塾通いの送り迎え、受験成功のためには、しつけなどは無視して、子供にサービス。

 

その途中でモンスターペアレントにもなることでしょう。

そして最終目標の東大入学式

。入学した本人より親の方が晴れがましい気分になるのは仕方ないことなのかもしれません。

 
でも、もうそろそろ大人の仲間入り、という年齢まで子離れ、親離れができていない…。

そんなんで日本の将来大丈夫?とも思ってしまうのです。

 

 

息子の親友リチャードは私好み(?)のハンサムボーイ。

背が高くて頭もよく、その上、親は大金持ち。

 

自宅には立派なテニスコートがあり、門からは家がまったく見えないような大きな邸宅に住んでいます。
そんなお坊ちゃまリチャードに対する母親の態度、しつけの方法には何度も感心させられました。

 
最初は、まだ小学生だったとき。

息子の同級生何人かとその母親たちが私の家に遊びに来ました。
リチャードは弟と一緒に来ていたのですが、途中で激しい兄弟げんかを始めました。

 

そして、学校の帽子をぐちゃぐちゃにして投げ合うというけんかに発展したのです。
そんな事は子供ですからよくあることで、私は気にもとめず、その後も母親たちとのおしゃべりに夢中になっていました。

 
お開きの時間になり、玄関で皆を見送っていると、リチャード兄弟が近づいてきて、「さっきは、大変見苦しいところをお見せしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」と謝ったのです。

 
おそらく母親がそう言わせたのだと思いますが、そのしつけの良さと、言葉の丁寧さに、小さなジェントルマンを連想し、感心してしまいました。

 
リチャード家の言葉遣いに関する激しいしつけは、オージーの中でも特別なのかもしれません。
中学生になってからも、先生に対する要望や謝罪の時には「リチャードに、先生にうまく言ってもらおうよ」と意見が一致するほどクラスメートに信頼されていましたし、息子も課題の延期の交渉や、先生へクレームをつける時など、まずリチャードに聞いて、丁寧な言葉を使い先生に良い印象を与えつつ、自分の意見をはっきり述べる方法をアドバイスしてもらっていました。

 
リチャード家の厳しいしつけは、言葉だけではありません。

 
息子たちの年代にはなくてはならないネットに関しては、「毎日7時から9時はテレビもインターネットも禁止にしているわ。3人の子供たちは部屋でそれ以外の自分の好きなことをするように言ってあるの。

 
私としては、その時間に本をたくさん読んで欲しいと思っているのだけれど」と母の弁。

 
ネット好きのリチャードですが、その時間は学校のチャットにも参加してないので、隠れてやっているわけでもないようです。
またある時息子が「リチャードは今大変なんだ。

夕食のことに文句を言ったら、お母さんが怒って1週間夕食を作ってくれないんだって。

だから自分でご飯を作っているらしいよ」と。

 
弟たちの分はちゃんと作ってもらっているそうなので、そんな話を聞くたびに「なんてオージーのお母さんたちは強いのだろう。

私だったらとてもそこまで子供たちに強い態度を見せられないし、ましてやそのような罰をそんなに長くは続けられない」と思ってしまいます。
もちろん、オージーの子供たちにとっては、親の手伝いも当然のことです。

 
先日も共働きの友人が冷蔵庫に張ってある家の食事の当番表を見せてくれました。

3人の息子とご主人、自分の4人でローテーションを組んで、夕食作り、洗濯などを分担しているので、とても楽だと。

 
「3人の息子たちも家族の一員なのだから、夕食の準備をするのは当たり前でしょ」と涼しい顔で友人は言います。
オーストラリアではいつまでも自分の子供を子ども扱いしないで、一日も早く自立して欲しいという意識が日本以上に強く(子離れ!)、またそれを子ども自身も強く望んでいる(親離れ!)ようです。

 
そしてそれは、親にとっても子供にとっても良いことなのかもしれません。
土曜の夜になると、リチャードのご両親は、必ず子供3人をお手伝いさんに任せて、映画やコンサートに出かけ、夜は二人で外食します。

 
子供が3人もいると普段はなかなかゆっくり夫婦の会話を楽しむ余裕がないので、週に一度は夫婦だけで過ごす時間を作る。子供たちは子供たちで、その時間を楽しみにしていて、普段見れないテレビやDVDなどを思う存分見ているそうです。

リチャードもその時はお兄さんぶりを発揮して良いベビーシッターになっているとか。

そして、日曜日は「家族の日」として、家のテニスコートやプールで家族みんなでスポーツを楽しみ、料理が得意なお父さんがBBQや夕食を作ります。

 
2人の息子たちは社交ダンスを習っているので、お母さんをパートナーにダンスをすることもあるとか。ハンサムな息子にリードされている彼女の満足そうな笑顔が目に浮かびます。

 

 
子離れ、親離れをしていても、ちゃんと家族の絆は強く結ばれ、それぞれをリスペクトしている。
「確かにリチャードの家は他の家より厳しいけど、家族は仲がいいよね。

 
彼は『お坊ちゃん』という雰囲気だけど、オージーらしく結構やんちゃなところもあるし、バランスは取れていると思うよ」とは息子の弁。
リチャードのお母さんは、「高校を卒業したら、子供は家から出ることが絶対必要よ。

 

自分の事はなんでも自分で出来るようにならなければね。
家を出て初めて、親がどれほど自分をサポートしてくれているかが分かるのだから。

 

そうなれば親に対する感謝の気持ちが自然に湧いてくるでしょう?」と強い信念を語ります。
同じような発言は他のオージーママたちからも聞かれます。

 
私自身は結婚するまで親と同居していましたし、今も子供たちと同居しているので、「家から出るべき」と強く主張はできませんが、振り返ってみると、結婚するまで何でも親任せで、結果的に自立が遅く、結婚後にいろいろ苦労しました。

 
自分自身の反省を込めて言うと、子供たちに「いつ、何が起こっても自分の足で立てるように教育する」ことが大切なのかもしれません。

ちょっと我が家の場合遅すぎましたが・・・。
 
 

 
長い間、「おしゃべりクッキング」を読んで頂きまして、ありがとうございました。

 
今回の記事をもって、一旦連載をお休みさせて頂きます。

また違った形でお会いできる日もあるかと思います。

 

これからもどうぞ「リビングインケアンズ」をよろしくお願い致します。

 

 

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オージー流のお手伝いVol.36

2008年03月10日

 
「オーストラリアにベビーブームの到来!」というニュースが、少し前話題になったことを覚えていらっしゃいますか?

 
ずっと減少傾向だった出生率が上昇に転じた、とか。

 

確かに最近のケアンズではベビーカーを押した若い夫婦をよく見かけます。

それでも、オーストラリアの出生率は1.7。

 

日本の1.3ほどではないものの、少子化傾向であることは間違いありません。
そんなオーストラリアも、今から50年前には出生率は3.5でした。

つまり、ひとつの家族に3~4人の子供がいることはあたりまえ。

 

まだそれほど豊かではない、50年前にどうして親たちはたくさんの子供を産んだのでしょう。

それは、親たちが子供たちを一家の労働力の担い手として期待していたからだと思うのです。

現在65歳のマルは、サウス・オーストラリアで五代続いた農家の出身です。

 

 
といっても決して大きな農家ではありません。

両親は小さなディリーファーム(酪農場)を持っていました。

人を雇う余裕はなかったので30頭の牛の世話は、両親と5人の子供たちだけという家族経営。

 
子供たちは、朝学校に行く前に、牛小屋の掃除、乳搾り、エサやり、ミルク缶運び、干し草の準備などそれぞれの仕事をこなさなければなりませんでした。

 
特に長男のマルには両親の期待も大きかったようです。

「忙しい時期には、家の手伝いで学校を休まなければいけないこともあったんだ。乾いた干し草を束ねる作業は大変だったよ」とマル。

一番覚えているのは、毎日の乳搾りでした。

 

もちろん搾乳は機械で行いますが、乳腺炎を防ぐために、機械での搾乳後5分から10分間くらいは手で乳を搾り切らなければなりません。

これは毎回のことなのでとても大変でした。

「でもね、牛って面白いんだ。ちゃんと自分たちの搾乳の時間が分かっていて、時間になるとゲートの入り口に一列に並んで待っているんだから。しかも『デイジー』『ハナ』『サバー』と毎回同じ順番で並んでるんだからスゴイよね」。

 
もし搾乳の時間が遅れたりすると大変なことになります。

 

待ちきれない乳房からは、ミルクが滴り落ち、まるで白い水の流れる小川のようでした。
 

 
毎日の大変な仕事の中でも一番嫌いだったのは、牛小屋の掃除でした。

おしっこやウンチで床が濡れていて、すべってミルクのバケツをひっくり返してしまったこともありました。

またそんな時に限って、牛がバケツに足をつっこんでしまってなかなか取れず、泣きそうになったとか。

 

相手は動物ですからいろいろなことが起こり、目が離せません。

 
家族で出かけようと思っても、長期休暇をとるのは難しく、近所の酪農家と相談して順番に短い休みを取るのが精一杯でした。

 
「普通のオージーは山にキャンプに行くのが好きだけど、ウチはいつも緑の中にいたから海に行くのが本当に楽しみだったんだ」。
また、毎年クリスマス後の12月末から1月にかけて、1週間休みを取って友人の果樹園にアプリコット摘みに出かけることもありました。

 

「一種の出稼ぎ(Holiday Job)だよね。でもこれが家族にとって一番長い休暇だったんだ」。

 

皆でおしゃべりしながらアプリコットを摘むのは普段の仕事と違ってとても楽しかったそうです。

 

なんという親孝行な子供たちでしょう。
また、家族で食べていくのがやっとだったので、お小遣いも満足にもらえません。

 

自分のお小遣いは自分で稼ぐしかない。
マルお兄ちゃんは、春になると弟たちを引き連れ、牧草地にやってきます。

 

そして、青々と茂った新鮮な草の匂いに混じる微妙なウサギの臭いをかぎわけます。

その臭いをたどって、ウサギの巣穴を見つけると、その近くにワナを仕掛けるのです。

次の日朝早く起きて、そのワナをチェックしに行きます。

 

「ウサギじゃなくて、キツネやネコがかかっていたらどうしよう?なんて、毎回ワクワクしてたんだ。

捕ったウサギは皮をはいで、家で食べるか、町の肉屋に持って行って1羽20セントで買ってもらうんだ。

今だったら2,3ドルというとこかな。

 

週に2,3回は近くの町のお肉屋さんに獲物を持って行ってたから、結構いいお小遣いになってたね」とマル。

 

そんな一家に転機が訪れます。

マルが高校に進むとき、両親は教育を考えてアデレードの近郊に引っ越すことにしたのです。
そこで両親は今度はぶどう園を始めました。

 

お父さんは日中は2,3箇所のワイナリーで働き、朝と夕方に自分のぶどう園の手入れをします。
毎日の牛の世話に比べると、子供たちの手伝いはずっと減りました。

 

しかし相手が植物のため、季節ごとにやるべきことがあり、学期ごとの休みにはやはり子供たちが総出で手伝います。
特に苗の植え付けは大変でした。

今でこそ機械を使えば簡単に穴を掘る事ができますが、昔は全て手作業です。

 

「苗を植えて支柱を立てるために、直径40cm深さ30cm位の穴を掘るんだけど、100エーカーもある土地だよ。

一体何本の苗を植えたんだろう?毎日毎日同じことの繰り返しで気が遠くなる作業だったよ」。

ぶどうの収穫はとても楽しい作業でしたが、枝の剪定、落葉の回収、それらを燃やす作業などはみな力仕事です。

男手が必要なことばかり。

 

マルは大学最後の一年は家を出て下宿をしていたということですが、その時でさえ手伝いのために休みごとに家に戻ったそうです。

しかしぶどう園は酪農と比べて収入が少なく、ワイナリーがワインに使用するぶどうの品種を変えてしまうと、せっかく作ったぶどうを買ってもらえないこともあり、結局手放すことにしました。

 
両親は今度は200エーカーの土地を買い、羊と小麦を育てることにしました。
その頃マルは教師になることを決心し、弟が農業を受け継ぐことになりました。

 

教師になったマルは、学校での仕事をしながらも、できる範囲で家の仕事を手伝いました。

二人で協力して杭を打つための穴を掘り、広大な土地にワイヤーを張り巡らしました。

小麦の作付け作業、収穫、羊の毛を刈り取った後の掃除、羊毛の袋詰め。

 

教師の仕事をしながらの重労働は大変だったそうです。

それでもマルは両親や弟の仕事を手伝うことに疑問も感じませんでした。
以前、マルの家で弟さんにお会いする機会がありましたが、よく似た兄弟でとても仲がよく家族のため共に戦った戦友のような結びつきの強さを感じました。
 

 
マルの3人の姉妹は全員が教師になりましたが、皆それぞれ農場主と結婚し、今思えば小さい頃からの経験がとても役に立っているということです。
「人生に一つも無駄な経験はない」と言われる通り、家での手伝いもその一つなのかもしれません。

 

翻ってみると、現在の少子化家族の中では、子供たちはすでに労働力ではなく、ただの消費者になってしまったようです。
子供が親の仕事を手伝うのではなく、むしろ親が子供の手伝いをする。

 

学校への送迎、仕事を終えてからの塾の送り迎え、高額な習い事への出費、子供の受験に際しての狂乱的な親の振る舞いが報道されるなど、いつから立場が逆転してしまったのでしょう?

 
マルの子供のころと比べると、今は家族で協力し助けあうことがあまりに減ってしまい、残念な気がします。

 

これも時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、どんな時代であっても家族で支えあう姿勢だけは大事にしていきたいと思います。
 
 

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オージーの辛口?日本論Vol.35

2009年01月10日

破綻した英会話学校で被害を受けた外国人講師の4人に1人がオージー、とか、労働党のラッド首相は親日米派というより親中国派、など、最近報道されるオーストラリアと日本の関係は、どちらかというとネガティブなものが多いように感じます。

 

日本の国力の低下に伴い、日豪の関係も、これまでより疎遠なものになってしまうとしたら、それはとても悲しいこと。

でも、政治や経済の面は別として、オージーと日本人という人間同士の相互理解は、ますます深まっているように感じるのも事実です。

 

「日本人、日本が大好きやねん。だから今の日本の子供たちや日本人の働き方を見ていると将来がとっても心配や!」。

日本から帰国したばかりのキャシーの第一声がこれでした。

 

流暢な関西なまりの日本語でこう言われると、日本人と話しているような気分になります。

 

そんな彼女の日本滞在は実は二回目。最初は、大学生だった21才のとき。

二年間日本で生活しました。ただただ日本に住むことが楽しくて、日本と日本人が大好きになったのもこの時のこと。

 

以来、ケアンズの高校で日本語教師の職を得て、日本と深く係わってきました。

15年ぶりの今回の滞在は、日本の私立高校で一年間英語教師として働きました。

たった一人の外国人教師として、日本の学校、日本の社会に飛び込みました。

「この一年間はオ−ジーでなく、まさに日本人として生活したわ」と彼女。

日本人の友人と一緒に暮らし、自分の部屋はもちろん畳敷きの和室。

 

食べるものは毎日日本食で、週末も日本の教会に通ったり、日本人の友達と旅行したりと自分が時々外国人であることを忘れてしまうほどだったそうです。

 

「外人!」と子供に指さされて「誰のこと?」とキョロキョロしたら自分のことだった、なんていうこともあったくらいでした。

そんなキャシーの日本・日本人論は、実体験に基づいたものであるからこそ、鋭い指摘にタジタジとなります。

 

まず最初は、「日本の子供たちは家族で過ごす時間が少なすぎる」こと。

 

オーストラリアの高校では、休日明け、生徒たちが、週末家族で行ったキャンプのこととか川でカヌーや釣りを楽しんだことなどを、楽しそうに話してくれます。

 

しかし日本の生徒からは全くと言っていい程家族の話が出てきません。

生徒たちの、「父親となんてほとんど話したことがない」「どうせ家に帰っても両親は仕事から帰っていないので、一人で晩御飯を食べるだけだよ」といった発言に強くショックを受けました。

 

思わずオージー流に「早く家に帰りなさい!家に帰ったら、お父さんお母さんに『愛してる!』と言いなさい!」と叫んでしまったそうです。

 

「家族の話をしてくれる生徒ほど、明るくのびのびしている子が多いの。なんといっても家族が基本でしょう?

日本では、勉強や仕事が一番、なんて順序が逆だと思うわ」。

 

また、日本の子供たちは、ただでさえ塾や部活で家に帰る時間が遅いのに、学校にだらだらと残ってなかなか家に帰ろうとしないのにも、驚きました。

 

オーストラリアは部活もないし塾もそれほどありませんから、学校が終わるとさっと家に帰る子が多いのです。

 

自分でも家族と過ごそうとする努力をしない日本人。これは社会人になってからも同じ事が言えるのかもしれません。

 

 

次の指摘は日本人の忍耐力について。決してほめる意味ではありません。

「日本人は我慢のしすぎだと思うわ。

何でもガマン、ガマン。

我慢することは良いことだと教えられている。

耐えることができる人こそ、強い人だと思っている。

 

でもこれは私たちとは逆の考え方。

何か問題があったら、我慢するのではなく、それを変えることが大事と考えているから」。

 

日本の子供は問題を抱えていてもなかなか人に言わないし、なんとかそれを自分で我慢して、乗り越えようとします。

 

でもそれが積もり積もって結局最終的には爆発してしまう子が多い、と。

そのひとつの証拠として「日本の子はほんまによく泣くんよ」とぽつり。

 

 

オーストラリアでは生徒が泣いたらよほどのことだと思うそうですが、日本では「あ。また泣いている」という感じだそうです。

人前でも糸が切れたように大泣きする生徒が多いのにも驚きました。「だから私は日本人の先生とは反対のことを教えたわ。

何かあったら我慢しちゃだめ!文句があったらはっきり言いなさい!ってね。」

 

そしてもうひとつ、「日本人は時間を節約するという意識が足りない」ということ。

他の先進国と比べて労働時間が長いのも「しょうがない」と思ったそうです。

 

「日本人は仕事が忙しいから、やらなければならないことが多いから労働時間が長い、というだけじゃないと思う。

自分から効率よく仕事をしようとしているようには思えない」と。

 

毎日の労働時間が長いため疲れが残り、仕事の生産性も高いとは言えません。

彼女は日本で働きながら「無駄なことはやめてくれる?」「早く決めてよ!」と何度も心の中で叫んだといいます。

日本では何かを決めるときに、みんなの賛同が得られないとなかなか前に進めません。

 

また日本人特有の遠慮やはっきり意見を言わない態度が、何かにつけて仕事を遅らせている、と感じたそうです。

その典型例としてこんな話をしてくれました。ある日の学年会議でのできごとです。

 

高校3年生の生徒を2組に分け、セミナーに参加させることになりました。

その引率教師を決めるときのこと。

オーストラリアだったらおそらく15分で決まるところを、日本では1時間かかったそうです。

 

その理由は、ひとつのグループに素行不良の生徒たちが集まってしまったから。

 

明らかに教師たちは皆もうひとつのグループの引率をしたかったのですが、それを自分から言い出す人がいないのです。

かと言って不良グループを自分が引率しようという人もいません。

 

無駄な時間が過ぎていくことに痺れを切らしたキャシーは「私が不良グループの引率をします」と最初に言い出すしかありませんでした。

 

するとやっとほかの教師たちは安心したのか「自分はもうひとつのグループを引率したい」と、次々に自分の希望を言い始めました。

 

全てがこの調子です。

 

「日本人は自ら責任をとるのをとても嫌がる。かといって『自分はできない、したくない』とも言わないから本当に困る。

だから何を決めるのにも、すごく時間がかかるのね」。時間の節約というのは、自分や家族のために使える時間を確保するということ。 

そのことにもっと努力すべきだと思うし、そうすれば密度の濃い働き方ができるはず、と彼女は力説します。

 

 

最後に「日本人の良いところを教えてくれる?」と聞くと、「いっぱいあるけど、まず第一に、人に対する気配りが素晴らしいことね」という言葉がすぐに返ってきました。日本人の「人に迷惑をかけないようにする」という他者への気配りにはとても感動したそうです。

 

でも、自分が他人にどう思われているかを必要以上に気にしたり、自分がみんなの中で浮かないように気をつけるという態度は、自分の本当の姿を出せなくなってしまうことにもつながる、とキャシーは言います。

 

時にはそれがストレスを生んで日本人はかわいそうだと感じる、とも。

今流行の「空気を読む」という表現は日本人独特で、「オージーは空気を読むなんて絶対無理!みんな空気を読めない人ばっかりよ」と大笑いでした。

彼女の将来の夢は、ケアンズに家を建てて、たくさんの日本人留学生を受け入れること。

 

オージーと日本人とが一緒にできるようなイベントを企画したりして、両国の架け橋になりたいそうです。

 

 

キャシーのような日本が大好きなオージーがいる限り、オーストラリアと日本の関係は大丈夫だ、と思います。

彼女の辛口(?)日本批評は、親日家である彼女が今回どっぷり日本社会に身を置き、得ることのできたものです。

 

だからこそ貴重な意見として、私たちが耳を傾ける必要があるのではないでしょうか?

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新天地を求めて Part.2

2008年01月30日

「あなたにとっての幸福とは?」と聞かれて、即座に答えられる人は少ないでしょう。
休暇もほとんど無く仕事に明け暮れる日本のサラリーマン達には、
その疑問を持つ余裕さえないような気がします。
たとえ時間の余裕があっても、深く考え出すと
それはもう宗教や哲学に助けを求めるしかないかもしれません。
でも、それを明快に答えてくれる人たちに会うことができるのも、
ここオーストラリアの魅力です。

友人の紹介で出会ったJosef(ジョセフ)とHedwig(ヘドヴィック)夫妻は、
広大な農地(32.3ヘクタール)をDimbulah 近くに購入し、
オーガニックパンプキンを栽培して、パンプキンオイル、シードを作っています。

ザルツブルグ出身のジョセフはオーストラリアに来る前は造園師として活躍し、
イタリア、フランスなど各地を回ってビジネスを展開していました。

自宅以外にも別荘を持ち、長い休暇には世界各国で
スキューバーダイビングを楽しむというゴージャスな生活。

しかしそれでも「心はいつも何か満たされていない」生活でした。
暮らしていくのに充分なお金を持っていても、
通帳を眺めながら「まだ足りない。もっと稼がなければ」と思い、
いつも物質的な豊かさだけを求めていたのです。
人に対しても、「自分のために何をしてくれるか、何を与えてくれるか」が重要で、
「その人自身を見るのでなく自分にとってメリットがあるかないか」
が全ての判断基準でした。

ケアンズのエッセー 

ご自慢のパンプキンと

経済的には何ひとつ不自由ない生活を家族にさせていた、と自負していたにもかかわらず、
妻も娘たちもそんな彼としだいに距離をおくようになり、ついには去っていきました。

そして、ジョセフは、自分の生き方に疑問を持ち、
物質的な豊かさより心の幸福に目が向くようになっていったのです。

その後再婚。
新しいパートナー、ヘドヴィックと休暇で訪れたケアンズに強く心を惹かれ、
すぐに家を購入しました。

そしてその時偶然知り合ったオージーに“Tee tree oil” を送ってもらい、
ヨーロッパで販売するというビジネスを始めたのです。
一年のうち3分の2を母国オーストリアで過ごし、
寒い冬の間は真夏のオーストラリアで過ごす。
これがジョセフたちの最初の計画でした。

その後ビジネス・パートナーを組んだオージーから
「“Tee tree oil”を自分たちで生産したらどうか」という提案を受けました。
そしてビジネスビザを取得。広大な農地を買って生産を始めました。

しかし間もなく、1リットル50ドルだったオイルが25ドルに暴落してしまったのです。
パートナーのオージーは「売り上げの半分のお金を送金する」という約束を破り、
さらに赤字は増え続け、ついにはせっかく購入した農地を売るしかなくなりました。

ビジネスはあっけなく終わったのです。
やはりその土地に住むこともせずに
ビジネスを行うのは難しいと思い知らされました。

普通ならそこであきらめてしまう人も多いと思いますが、
ここからジョセフの挑戦が始まりました。

腹をくくってオーストラリアに居を移すことを決心したのです。
オーストリアでの資産を全て売り、そのお金でもう1度農地を購入しました。
「45歳までオーストリアで生きてきたのだからもう十分。
残りの人生は自分を変える意味でも新しい場所でがんばってみよう」と。

以前から興味のあったオーガニック・フードに着目し、
オーストリアで人気のオーガニック・パンプキンを栽培して、
身体に優しいオイル、シードを作るという構想が出来上がりました。

彼はたったひとりでリサーチを重ねました。
その間は貯金を切り崩すしかありません。
そして周りの人たちから、「外国人には絶対無理」と言われ呆れられながらも、
政府が行っている地元のビジネスをサポートする基金に何度も応募し、
2つもの奨励基金を獲得したのです。
「土地もある。奨励基金も受けた。もうやるしかない!」
これが正直な思いだったと言います。

実は私は2年前にもここを訪れました。
その時には、広大な土地にパンプキンがあちらこちら無造作にゴロゴロと散在し、
熱く夢を語るジョセフを横目に見ながら、
「こんな状況で、彼らは果たしてやっていけるのかしら?」と半信半疑でした。

しかしその後、少しずつですが彼らは確実に前進していったのです。
この夏久しぶりに彼らを訪ねると、オーガニック・ファームの経験と知識が豊富な
新しいパートナーを紹介され、
さらにパンプキン・オイルとシードを作る、新しい機械がそろった部屋に通されました。

そしてお昼のBBQには、おつまみには最高の、
ご自慢のオーガニック・パンプキン・シードと、
オーガニック・パンプキン・オイルを使った自家製サラダが並びました。
そのおいしかったこと!

パンプキン・シードからとったオイルは鮮やかなグリーンで
その風味は高級なオリーブ・オイルに勝るとも劣らないものでした。

(左)パンプキンの収穫  (右)自宅から見たお気に入りの風景

 

「都会の生活を知りつくしているあなたたちにとって、
町から100キロも離れ、現金収入も少なく、
肉体労働の多いここの生活は幸せですか?」私は思い切って質問してみました。

奥さんのヘドヴィックは、「見て!我が家にはカーテンもないのよ。
この大きな土地では誰からも見られることはないから。
それに、ここに来て8年間ずっと健康で、病院に行ったこともないの。

周りの農家の人たちと協力して、野菜、果物、肉も、
出来るだけ身体にやさしいオーガニックにしているし、
甘いものが食べたくなったら庭に出て蜂蜜を採ればいいわ。

オーストリアに住んでいたとき、ジョセフは、ストレスのためか、
タバコもアルコールも半端な量じゃなかった。
でもここでは、ほとんど必要ないみたい。心も身体も健康そのものよ!」
と自信にあふれた答えが返ってきました。

ジョセフも笑って答えます。
「見てごらん、この景色。この湖と森を眺めながら2時間ここに座っているだけでも、
水の音、鳥の声、雲の動き、緑の変化を感じて、飽きることがないんだ。
オーストリアでは休暇中でも仕事のことを考えていたんだからね。
今は何とか食べていくだけのお金しかないけど、一体どちらが幸せだと思う?」

自分の幸せがどこにあるかは、人それぞれ違うでしょう。
彼らの場合、それをオーストラリアで見つけたようです。

少し前まで、オーストラリアへの移民は、祖国の苦しい状況から逃れるため、
また一攫千金を夢見て、という人たちが大多数でした。

しかし最近私が出会った、40、50才台で移住してきた人たちの中には、
母国で医師として働いていた韓国人のタクシー運転手、
母国では大きな歯科医院を経営していたドイツ人の養鶏場主など、
以前の移民の範疇には入らない人たちが増えてきたように思えます。

彼らもまたジョセフと同じように心の豊かさを求めて、
ここでの生活を選択したのかもしれません。
もちろん、新天地を求め、自分の夢を実現することは簡単ではありません。
そこには努力も必要だし、時には大きな挫折もあるかもしれません。
しかし他の人がなかなか出来ないことを実行するには、
やはりパワーとエネルギーが必要なのは確かでしょう。

最後に、ジョセフはさらに大きなビジョンを語ってくれました。
「この地ではまだまだオーガニック・ファーマーは少ないけれど、
みんなで知恵を絞り、知識を分かち合い、
人の身体にやさしいオーガニック・フードを
世界中にもっともっと広げていきたいんだ。」


今回は誰にでも出来る簡単パンプキンパイをご紹介します。カボチャのクリームを市販のパイシートに包むだけですが、粉砂糖をふりかければ、おしゃれなデザートに変身します。今年のハロウィーンには間に合いませんでしたが、来年のメニューにいかがですか?

◎パンプキンパイ

○材料(4人分)

・カボチャ・・・300g

A
・バター・・・10g
・砂糖・・・25g
・卵黄・・・1個
・生クリーム・・・20g
・シナモンパウダー・・・少々
・冷凍パイシート

パンプキンパイ

 

○作り方

1.カボチャを蒸し器で蒸す

2.皮を取り、熱いうちに裏ごしてAを加えてよく混ぜる

3.パイ生地を2〜3mmの厚さにのばして正方形にカットする(カップの大きさを考えて)

4.プリンカップに生地を敷き2を入れて包む

5.オーブンを200℃に余熱し20分焼き色がついたら、さらに160℃で10分焼く

6.余熱が取れたら、粉砂糖をふりかける

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その24 マイホーム

2007年09月05日

●お料理:ラミントン

日本でも景気の回復に伴って、都内の高層マンションの売れ行きが良いとか。特にIT関連企業や株長者の若い人たちによって、高価な不動産物件が購入されていると聞きます。

ケアンズでもここ数年、ミニバブルとでも呼べるような不動産ブームが起きていて、サトウキビ畑がどんどん宅地に変わってきました。このブームを支えてい るのも、やはり若いオージーたち。

とはいっても、仕事に追われ忙しい日本人と比較的時間に余裕のあるオージーとでは、“マイホーム”にかける情熱、思い入れがかなり違うような気がしま す。

高校を卒業すると同時に実家を出て独立し、結婚して子供ができるまでノンストップで働いてきたという友人のミシェル(Michelle)は、自分の意見 をはっきりと主張し、強い意志を持ったたくましい(?)オージー女性です。

 
 

▲プレイグループのメンバーと一緒に

 
 
 

▲夫婦でデザインし造園した前庭

   

 時 にはふたつの仕事を掛け持ちし、自分の夢をかなえるためにひたすら頑張って働きました。ご主人のマイク(Mike)と結婚する時には、「△年後にはまず小 さな家を持ち、○年後には子供を持とう。そして次にはさらに大きな家を建てよう」と将来の生活設計をしっかり話し合いました。

そしてその通りに夢を実現させていったのです。昨年、30代前半でありながらオージーの夢のひとつであるエーカーハウスを手に入れました。

「私はラッキーだわ、主人が“good worker”だから。働くのがキライで、パブ通いばかりして酒びたりというオージー・ガイも多いからね」とノロケを聞かされましたが、自営業のマイクは この十年間まとまった休みを取ったことがないというほど(オージー男性には珍しい?)働き者です。

そんな頑張り屋のふたりが、しばらく熱中していたのが、「マイホーム」。仕事や育児・家事以外は、寝る間も惜しんで「マイホーム」に時間を費やしまし た。

 たとえば、家をぐるりと囲む計32本の生垣。生垣といっても想像以上に大きな木です。この木は家の建築中にすべてふたりで植えました。

まず掘削具(posthole digger)を借りてきて、ふたりで支えながら1メートル近くの穴を掘ります。激しいバイブレーションで手がしびれてしまったこともありました。そして 買ってきた木を植え土をかぶせ肥料をやる。

この繰り返しを32回。マイクが仕事から帰るとすぐにふたりで建設中の現地に向かい、日が沈む6時半ごろまで汗だくになって働き、ドロだらけで疲れ果て 家に戻るという生活。

また家の周囲の土留めも自分たちで作りました。2メートルの大木を何本も使って作る土留めの作業は、熱帯の炎天下の中かなりきつかったようです。

「こんな仕事はもう2度としたくないわ」といいながら、腕のTシャツのあと、足のサンダルのあとがくっきり残る日焼けした肌を「恥ずかしい」と言いつつ見 せてくれました。

 もともと宝石店勤務だった彼女は、愛娘ホーリー(Holly)が生まれてからも、いつもメイクをきちんとしてネイルアートを欠かさず、ファッションもビシッと決めているので、常々感心していたのです。

 

▲二人で植えた家を囲む庭木

 
   

 そんな彼女が自分の土地、家のためには泥まみれになって働くことをいとわないほどの、マイホームへの思い入れ。ふたりはガーデニングが好きなので外構工事を中心にやりましたが、壁の塗装やタイル張り、バルコニーの設置などを自分でやったという友人もいるそうです。

もちろんお金の節約という意味もあるでしょうが、豪邸を建てることのできたミシェルですから、お金を使って専門家に頼むこともできたはずです。でも、そ こが「マイホームを建てるオージーのプライドなの」と。

時間がかかり大変な仕事とわかっていてもそれを成し遂げた時、"Looks fantastic! We have done together. Look how much we have achieved!(最高!ふたりで仕上げたのよ、こんなにすごいことをやり遂げたのよ)"と言いながらその出来栄えを満足して2人で見る。これが最高の 喜びだそうです。

もちろんプロではないから、多少の失敗もありますが、夫婦はひとつのチームなのだから一緒に額に汗して、自分たちで決めたことを力を合わせて頑張ってや る。これこそが、これから新しいマイホームで暮らすにあたって「何より大切なの」と熱く語ってくれました。

今はもう家の内外とも完成し肉体労働をすることも少なくなったようですが、その代わりマイクは仕事から帰ってくると、広い庭で娘のホーリーと走り回った り三輪車で追いかけたりと、たっぷりと時間をとって遊びます。

「オージーにとっては、家族で過ごす時間がとても大事なの」

そんな発言を聞くと、折角マイホームが手に入っても、そのローンのためあるいはワーカホリックのため、毎日遅くまで働いて家族で過ごす時間のない日本の 家庭のことが頭をよぎり、時間に余裕のあるオージーたちが本当にうらやましく思えます。

ミシェルの家はエーカーハウスが立ち並ぶ地域に建っているので、庭からは遠くの山々が、そして隣の家で飼っている馬の姿が、見渡せます。その手前には家 の周囲を囲む32本の生垣。その生垣の最初に植えた木の根元にはお父様の遺灰が埋めてあるそうです。

「木の成長とともに私たちの成長を見守っていて欲しいという思いでまいたのよ」とミシェルは誇らしげに話してくれました。

 

▲ラミントンのできあがり

 
   

今回はオーストラリアならではのお菓子「ラミントン」の作り方をご紹介します。市販のスポンジケーキを利用するので、誰にでも簡単にできるのですが、普通に市販されているので、今ではオーストラリアでも家庭で作る人は少ないようです。

でも頑張り屋のミシェルは自ら主催するプレイグループ(同年代の子供を持つお母さんが集まる会)の集まりには欠かさず作って持って行くそうです。日本で はラミントンは売られていないようですので、是非作ってみて下さい。

ラミントン

材料
市販のスポンジケーキ…2個
バター…30g
沸騰した湯…1/2カップ
アイシングシュガー…3カップ
ココア…1/3カップ
バニラエッセンス…少々
ココナッツフレーク…2カップ

■作り方

1.

スポンジケーキを3〜4cm角に切り分ける

2.

沸騰したお湯にバターを入れ溶かす

3.

ココアとアイシングシュガーをふるいにかけ2を入れてよく混ぜる

4.

バニラエッセンスを加える

5.

4にケーキをフォークで転がしながらアイシングに浸す

6.

ココナッツフレークをまぶして固まったら完成

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その21 ホームスクール

2007年09月05日

お料理:ロッキー・ロード – Rocky Road

  映画「サウンド・オブ・ミュージック」でジュリー・アンドリュースの演じたマリア先生は、トラップ一家の家庭教師でした。家庭教師と言っても、学校の勉強 を補助するための教師ではありません。トラップ一家にとっては、家が学校でした。つまり子供達は学校に通うことなく、家の中で住み込みのマリア先生から教 育を受けていたのです。これが「ホームスクール」です。

 
 

▲パソコンを使って勉強中

   

  オーストラリアでは、以前から「ホームスクール」が一般化しています。もともとはキャトル・ステーションのように町から遠く離れたところに住む子供達が、 ラジオやインターネットを使って授業を受けることができるように、と作られた教育制度ですが、もちろん学校がある町に住む子供達もこの制度を利用すること ができます。

Year 11 (高校2年)のTemeka (ティミーカ)は、Year 10 の途中で学校を辞め、現在はホームスクールの制度を使って、学校に通学することなく勉強を続けています。今は通信教育を利用して、高校の課程とOpen Universiity と呼ばれる大学の芸術、写真の科目を受講し、将来の希望であるミニチュア・ビルダーをめざし、充実した毎日を送っています。

高校の通信課程は日本でも珍しくはありませんが、実は彼女のホームスクール歴は小学校時代にさかのぼります。ティミーカが5歳の時、両親の仕事の都合 で、生まれ育ったブリスベンから木曜島に引っ越すことになりました。木曜島ではカトリック系の私立学校に通いましたが、地元住民の白人に対する偏見やその 他様々な問題があって、学校は楽しいものではありませんでした。

ティミーカのお母さんは、そんな子供達をみて、ホームスクールで教育をしようと思い立ちました。自分が小学校の教師だったこともあり、自ら子供達それぞ れに合ったカリキュラムを作り、クィーンズランド教育省の許可を得た上で、弟のジェームス(3歳下)と一緒にホームスクールを始めたのです。

ティミーカが話してくれたその内容は、というと・・・。
例えば、「どうして空は青いの?」と子供達が疑問に思ったことに対しては、図書館や教育ビデオ、あるいはインターネットを使って徹底的に調べました。休 暇でブリスベンに戻った時には、科学博物館、美術館、歴史民族博物館などに足しげく通い、自分達の調べたものを、より深め、さらに広げていく努力をしまし た。

 

▲ケアンズショーの優勝作品

 
   

  図書館や博物館に通っていろいろな知識を得たときには、帰宅してから両親と一緒にディスカッションし、また家族の前で発表してさらにその知識を深めまし た。お父さんはコンピューター・エンジニアだったので、何日もかけて、いちから部品を組み立てパソコンを自作したこともありました。

このように家族いっしょに過ごしたホームスクールは、とても楽しい経験でした。その後、ティミーカが中学校に上がる時、一家はケアンズに引っ越すことになり、ホームスクールを卒業して同じくキリスト教系の私立学校に通うことになりました。

少し不安に思っていた成績でしたが、結果が出てみると、クラスのトップ3に入ることができました。「自分達のやって来たことは、決して間違っていなかった」と強い自信につながりました。

最初の2年間は、友達にも恵まれ、何でも話せて信頼できる彼氏(学校の先輩)も出来て、学校生活は楽しいものでした。しかし、2年を過ぎたころから学校というものに対して疑問がわくようになってきました。

ひとつは、友人達との関係。学校の中では、みんなと仲良くしていくために、興味がなくても同じ話題でおしゃべりをしたり、他人の噂話をしなければならな いこと。また、クラスのボスを中心に自分達の仲間に入らない子につらくあたったりするクィーンビー(Queen bee)と呼ばれるグループの存在。

 
 

▲家族で楽しんだヨーロッパ旅行(トレビの泉)

   

 これまで、同年代の友達との接触が少なく、大人の中で生活することが多かったために、こういった同年代の友達の行動がどうしても彼女には子供っぽくみえ、理解が出来なかったようです。

また、学習面でも「ホームスクールのほうが自分にとってより多くのことが学べる」と確信しました。学校では1日中机に座り先生の説明を聞いてノートに写 す、ということの繰り返しで、受身の要素が強い。学校にいる時間と家に帰ってからする学校の宿題をあわせると1日あたり9時間が消えてしまい、本当に自分 が勉強したいことに時間を費やせない。

こういったことが彼女にとって大きな苛立ちとなりました。自分は自ら調べたり、自分の手を使って製作するのが好きなので、ホームスクールのほうがもっと 積極的に学習に取り組める。そう考えて、再びホームスクールの生徒として高校生活を送ることにしたのです。

「学校に行かないで、家で勉強していると、つい遊んじゃいそうだけど?」と聞いてみると、「そうならないために、いろいろ自分に課題を課しているの」と意思の強さを感じさせる力強い答えが返ってきました。

例えば、お料理やケーキ作りが好きな彼女は、ただの趣味に終わらさず、ケアンズショー(年1回開かれる地元の最大のイベント)のケーキコンテストに毎年参加することにしました。

 

▲今年出品したアート作品

 
   

 何度も何度もレシピを書き直し練習に練習を重ねた2回目の挑戦では、フルーツケーキ部門の優勝に輝き、翌日の地元の新聞にはケーキを抱えて笑顔いっぱいの彼女の写真が掲載されました。また今年からは、フォトアート部門にも参加することにしました。

来年はブリスベンで開かれる祭典に家族で作品を出品するそうです。テーマは「中世の騎士の衣装、道具などを再現する」というもので、かなり綿密な準備が 必要です。そのため今は、中世の歴史やファッション、生活習慣まで、様々な角度からその時代のことを勉強しています。

高校生になった彼女は、自分で勉強の仕方を考え自分に課題を出しそれを仕上げていく、という計画性のある自主的な勉強方法をとっています。もちろん、これは皆彼女が考えたもの。

でも、小学生の時のホームスクールの勉強の方法がその基礎になっているのは間違いありません。彼女を教育したご両親の努力が報われていると考えてもよいでしょう。もちろん今も変わらずご両親の大きな支えがあります。

昨年お父さんのロングサービス(同じ職場で長年勤め上げた人対象の長い休暇)を利用して、家族で7ヶ月のヨーロッパ一周旅行に出かけました。現地でキャンピングカーを購入し、そこに寝泊りしながら計16カ国を家族で回りました。

この旅行では、机上の知識だけでなく、実際にその国の気候、風土、そして人々に生(なま)で触れることが出来ました。そして、これまで以上に、その国々に興味を持つことが出来るようになって、それぞれの国の文化、歴史を掘り下げて勉強できました。

 
 

▲ロッキー・ロードの出来上がり

   

 彼女の話を聞いていると、ホームスクールには一般の学校教育にはない数々の魅力を感じてしまいます。しかし、このホームスクールの利点を引き出すことができたのは、自分の長所と欠点を冷静に分析することができ強い意志をもった彼女だからこそ、とも言えるでしょう。

同年代の人との交流も大切だ、と教会の青年会、ボランティア活動、ミュージックレッスンなどにも通っています。今自分が何をすべきなのか何をしたいのか をはっきりと自分の言葉で語れる彼女は、自信に満ち今の日本の高校生にはなかなか見ることの出来ない輝きを感じます。

さて今回は、お菓子作りの大好きなティミーカに教えてもらったロッキー・ロードをご紹介します。その昔開拓時代にさかのぼり、ごつごつした岩だらけの道をイメージして作られたお菓子だそうです。切り口がきれいなので、プレゼントにも最適です。

ロッキー・ロード(Rocky Road)

材料
A(マシュマロ…125g(半分に切る)/ラズベリーローリー…80g(好みの大きさに切る/刻みナッツ…50g)
・板チョコ…250g(細かく刻む)

■作り方

1.

チョコを湯せんで溶かす

2.

Aの材料を1に入れてよく混ぜる

3.

オーブンシートを敷いたケーキ型に2を流し込み、平らに整える

4.

冷蔵庫で冷やし固めた後、好みの大きさに切り分けて出来上がり

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その22 盗まれた世代 “Stolen Generation”

2007年09月05日

●お料理:ココナッツ・チキン

  映画"Rabbit-Proof Fence(邦題:裸足の1500マイル)"は、日本でも話題になったようなので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。時は1931年、政府のア ボリジニ隔離同化政策によって母親から引き裂かれた子供達が、収容所を抜け出し、砂漠の中2000キロをウサギ防護柵に沿って故郷まで歩いて帰る、という 実話に沿った映画です。

でもこれは決して昔話ではありません。60年代後半まで実際に行われていた政策であり、私達の近くにも、この被害にあった人々が暮らしているのです。

「友達は私のことを『ココナッツみたい!』って言うの。どういうことかわかる?」とエンジ(Angie)が笑いながら私に尋ねました。
私が答えに窮していると、「外見は黒いからアボリジニと分かるけど、中身は白人だって。まるでココナッツの実みたいだって」

彼女は1955年生まれ。アボリジニの母と白人の父の間に生まれました。後に"Stolen Generation (盗まれた世代)"と呼ばれるようになる人々の大半は、こうした混血児達です。

オーストラリア政府が1911年から1960年代後半まで行った強引な隔離同化政策は、主に混血の子供達を親元から引き離し、白人教育を施す。そして白 人と結婚させ、3世代後には外見上白人と区別がつかないようにさせる、という非人間的な政策でした。
純粋なアボリジニの子供より少しでも白人の血が混ざっている方が、より白人社会に同化しやすいと考えたのでしょう。

穏やかなエンジの話し振りに比して、その内容はまるで壮絶なドラマのようです。
彼女が捕らわれ(「盗まれ」)て強制的に収容されたのは、3歳の時でした。もちろん母親達は必死に抵抗しました。それまでも「係官が来たぞ!」と誰かが叫ぶと、いっせいに母親達は子供を家の床下に隠したり山に逃げ込みました。

しかしそれも結局叶わず、エンジは捕らえられ母から引き離されてダーウィン近くの小さな島に送られました。それ以来母とは会っていませんし、母の顔さえも覚えていません。

島では多くの混血児達が集められ、その面倒は修道女がみていました。英語での教育がなされましたが、決して整然としたものではありません。

同年代の子供達が集まっているのでそれなりの楽しさもありましたが、白人家庭に引き取られるまでの一時的な収容所のような場所でした。子供達の写真は、 各地の教会のニュースレターに掲載され、養父母に気に入られた子供だけが島から少しずつ引き取られていく、という場所だったのです。

エンジは8歳のとき、南オーストラリアに住む家庭に引き取られることになりました。養父母は4人の子供を持つ熱心なキリスト教信者でした。養母はしつけ と勉強にとても厳しく、それまで島で比較的自由に育っていた彼女には辛い面もありましたが、反面、自分のことを怒ったり心配してくれる人に初めて出会った ことをうれしくも思いました。

養父母の家から学校に通うことになりましたが、地元の学校では、彼女はたった一人の黒人で、よくいじめられたりからかわれたりしました。彼女が学校から 泣いて帰ってくると、養母は「あなたのせいじゃないわ。いじめる側の心の問題よ。どんなにひどいことを言われても、笑って微笑んで、手を振ってあげなさ い」と励ましてくれました。

そしてアボリジニへの偏見が強い近所の人たちから「エンジはハワイとかフィジーで生まれたと言った方がいいわ。決してアボリジニの子なんて話すべきじゃ ない」と言われても、養母はエンジに「あなたはアボリジニの子供よ。そして、そのことを誇りに思いなさい」とも言ってくれました。

そんな養父母でしたが、10歳になって養子として戸籍に入るかどうかを尋ねられたとき、いったんは断ったといいます。
養子になるということは、アボリジニの姓を捨てること。養父母にかわいがってもらったとはいえ、「自分は望んでここで生活しているわけじゃない」という気持ちが幼いながらもずっと心の奥に潜んでいたのでしょう。

養父母は不自由のない生活を彼女に与えてくれましたが、次第に意見の衝突が起きるようになりました。白人家庭で育てられてはいましたが、思春期になった 彼女は、次第にアボリジニに興味を持ち、アボリジニの人たちと話してみたいと思うようになりました。しかし養母は「あなたは他のアボリジニとは違うのよ。 彼らと友達になってはダメ」と言って、彼らと交流することを許してはくれません。

彼女は反発しましたが、養母に逆らうことはできませんでした。しかし、心の中では「それは、おかしい。何かが間違っている」と思い続けていました。そし て、ある時「彼らが、臭かろうと汚かろうといいじゃない。教育をうけていなくてもいいじゃない。私にはアボリジニの血が流れているんだ。友達になって何が 悪い」と強く思ったのです。

養父母と衝突することが多くなった彼女は、12年生になると家を出て学校の寮で生活を送ることになりました。そして、寮生の中にアボリジニの学生を見つ けた時には、自然と惹かれていきました。というより、心の奥底で「彼らを受け入れなければ」と思うようになったのです。

しかし、彼らと二、三言葉を交わした時、愕然としました。「自分とは違う」と悟ったのです。長い間ずっと白人家庭で育ち、白人の教育を受けてきた彼女は、考え方、話す言葉もアボリジニのそれとは、全く違っていました。

「お前はいい子ちゃん(goody twoshoes)だ。何一つ悪いことをしようとしない」そう言ってアボリジニの寮生たちは彼女をあざ笑いました。

ある日、アボリジニの子が「私たちの見ている前であの家の庭の果物を盗んでごらん」と彼女に言いました。彼女は仲間に入りたい一心で、夢中で走って行っ て果物を盗もうとしました。慣れていない彼女は、案の定その家の人に捕まり、学校に連絡されひどく叱られました。
でもおかしなもので、その事件から彼女はアボリジニの友達から受け入れられるようになったそうです。

その後、彼女はパプアニューギニアからエンジニアリングの勉強に来ていたご主人と出会い、結婚を決意しました。この時にも養父母からは強く反対されたそ うですが、とにかく自立したいという思いが強く、高校を卒業後すぐに、ご主人の待つパプアニューギニアに旅立ち、以来28年間パプアニューギニアで暮らし 3人の子供にも恵まれました。

今は再びオーストラリアに戻ってきましたが、「振り返ると自分は本当に神様に守られている気がする」と今の心境を教えてくれました。

彼女は幸運にも良い家庭に引き取られましたが、同じ境遇の人たちの多くは、虐待を受けたり不幸な子供時代を送っています。"Stolen Generation (盗まれた世代)"は"Lost Generation(失われた世代)"とも称されます。彼女たちは、子供のときに政府に「盗まれ」た世代、そして「ココナッツ」と呼ばれるように、アボ リジニでも白人でもないという、アイデンティティを「喪失して(失って)」しまった世代ともいえるのでしょう。

最後に、彼女はオーストラリア人そしてアボリジニ達に、とメッセージをくれました。

「オーストラリア人には、自分達の傲慢さを反省し、過去にアボリジニをどのように扱ったかを知り、謝って欲しい。そして、アボリジニ達は、過去を洗い流して、白人を許す心を持って欲しい」

彼女のような存在が、オーストラリア人とアボリジニを結びつける架け橋になることを願わずにはいられません。

今回はエンジから教えてもらった、ココナッツ・チキンをご紹介します。これは、彼女が長く暮らしたパプアニューギニアのお得意料理だそうです。


 

▲オーストラリア人の家族とのスナップ

▲エンジの家族(パプアニューギニアで)

▲教会の仲間といっしょに歌うエンジ

▲ココナッツの実を割るエンジ

▲ココナッツ・チキンの出来上がり

ココナッツ・チキン(パプアニユーギニア風)

材料
(も も肉4枚/細ねぎ3〜4本(細切り)/かぼちゃ1/4個(食べやすい大きさに切る)/レッドスイートポテト1本(同上)/インゲン8本クレソン1/2束/ ほうれん草1/2束/とうもろこし2本(輪切り)/ジンジャー2片(細切り)/ターメリック少々/赤唐辛子1〜2本)
ココナッツミルク300ml
塩少々

■作り方

1.

鍋に鶏肉を入れ、水3カップを注ぎ沸騰したら弱火にする

2.

Aの材料を順に入れ、1時間半位煮込む(とうもろこしだけは最後の30分間煮込む)

3.

ココナッツミルクを入れ、塩で味を整える

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その23 オージーの漁師さん

2007年09月05日

●お料理:バーベキュー・プロウン

  ケアンズを訪れる観光客のお目当てのひとつは美味しいレストラン。なかでも海のイメージが強いこの地には、エスプラネードを中心にシーフードレストランが 軒を連ねています。よく冷えた白ワインを片手に、氷の上に盛られた生牡蠣やエビ、バグなどをいただくのは、最高の贅沢気分です。

タイガー、キング、バナナ(プロウン)などの種類があるオーストラリア産のプロウン(エビ)は世界的にも有名で、サイズも大きく色鮮やかで甘みもありま す。先日行われたデンマーク王室の結婚式では、オーストラリア出身の皇太子妃メアリーのために、当地自慢のプローンが献上され出席者達が舌鼓を打ったとい う報道が紙面を飾りました。

でも…ケアンズで実際にエビの収穫はあるのでしょうか?日本の漁港のように海沿いの魚市場なんて見たことないし…。


▲マークの船 DRIGTER号

友人のガイリーン(Gaelene)のご主人マーク(Mark)は漁師さん。エビ漁のシーズンとなる3月から12月の間は自慢の漁船 DRIFTER号で出漁します。

この時期には長い時で2〜3ヶ月家をあけ、船上で暮らすのです。ガイリーンや3人の息子たちとも電話でしか連絡がとれませんが、自ら選んだ漁師という仕事に誇りを持ち、また家族もそんなマークを尊敬しているので苦になりません。

マークは海軍で働いていた父親に、幼い頃から釣りを教わり一緒に船で海に出ていました。その父が若くして亡くなり、マークは家計を助けるため12歳からケアンズで船での仕事を始めました。

最初は観光船のクルーとして、その後は漁師として、海で生きてきました。ガイリーンと結婚した後、一緒に3年間ほどアデレードでコーヒーショップを経営 しましたが、やはり小さい頃から慣れ親しんだ海、魚がなつかしく、彼女を説得してまたケアンズに戻り、以来エビ漁を続けています。

エビ漁は5つの網と探知機を使いますが、もちろん養殖ではなく天然ものなので、探知機があるといえどもその漁場は長年の知識と鋭い感で探し出します。

漁獲量は月齢との関係が非常に深いとのこと。
例えばタイガープロウンの場合、満月の時は明る過ぎてエビは泥中に深く潜り上がってこないので、漁はできません。逆に新月で真っ暗な夜は漁には最高の時期です。

この時は夜の6時位から朝8時頃まで、ここぞと思った場所を探しては網を落とし2〜3時間して引き上げる、という作業を繰り返します。たいてい5〜6泊 は同じ地域でいいスポットを探し続け、次にまた離れた場所に移動。もちろん、満月の前後に収穫が多くなる漁場もあるので、その場所を見極めるのが腕の見せ 所なわけです。


▲エビと魚をより分別するマーク

天然もののエビは味も素晴らしく、オーストラリア特産として日本などに高値で卸され、地元の人々の口にはなかなか入らないほどの人気なのですが、それでもマークの悩みは尽きません。

ひとつは卸値の問題。東南アジア産、地中海産などの安価なエビが出回り始め、卸値がグッと下がりました。追い討ちをかけるようにガソリンの急騰。例えば 7年前は1キロ当たり30ドル以上で取引されていたエビが今では18ドルに下がり、加えてガソリン代は2倍に跳ね上がっていますから、漁師達にはたまった ものではありません。

彼の船の場合、出漁すると一日に530リットルのガソリンが必要なので、一晩で300〜400kgの収穫があるときには十分利益が出ます。でも悪い日は 50kg以下。そうなるとガソリン代のほうが高くなってしまい、早々に港に引き返すしかないわけです。

また政府の規制も強く、1つの船に7人の監視官が乗っていると言われるほどたくさんの制限があります。たとえば、網で引き上げた魚は自分が船で食べる分 を除いては、すべて海に返さなければいけません。彼の免許では、エビ、バグ、ほたて、蟹、イカ以外は捕ってはいけないのです。たとえ高価な魚が網にかかっ ても、手作業で選別してすべて海に投げ捨てます。

こういった規制は他の国に比べるとかなり厳格だとのこと。そのため、漁業は以前と比べるとかなり厳しい状況となり、かつてクイーンズランドに登録されていた1000隻近くの漁船も今では300隻にまで落ち込んでしまったそうです。


▲家族と一緒に

彼が「ボクの手を見てごらん」と私の目の前に手を差し出しました。手のひらはささくれ、ガサガサです。「まるでサンドペーパーみたいだろう?」と彼。知 り合った人と握手をすると「どうしたの?その手」と必ず聞かれます。そのたびに"the work for living(生活のため)"と答えているんだ、と。奥さんや子供に触れる時も、手のひらではなく手の甲を使うとか。彼の仕事がいかに過酷なものなのかが わかります。

また、怖い思いも何度となく経験しました。「これで俺の人生も終わりか!」と思ったこともあったとか。海に潜って船の修理中にサメに襲われそうになった り、ケーブルが切れたため船が直進できなくなって海を旋回したり、網のチェック時に誤って海に落ちたが一緒にいた乗員がそのことに気づかず3時間近く漂流 した、など苦労話は絶えません。

彼は笑い話として話してくれるのですが、奥さんであるガイリーンはそういった状況を聞くたびに凍りついてしまうそうです。

もちろん海での仕事はつらいことばかりなわけではなく、楽しいこともたくさんあります。エビを捕った後、エビ以外の魚を投げ捨てるので、イルカがいつもそれを目当てに船の回りに集まってきます(時にはサメのことも!)。

彼が海に飛び込むと、イルカは肩に乗ってきたり一緒に泳いだり遊んだり。海の上で大の字になって、イルカと一緒に何も考えずにプカプカ浮かんで過ごすと、まるで天国にいるような気分になるとか。

先日は鯨の親子がやってきたので、エンジンを止めデッキブラシで子供の鯨の鼻をこすって遊びました。最高にワクワクして楽しかったそうです。観光客が何 千ドルも払ってやっていることでも彼にとっては日常のことなのでとても幸せだと思うし、海は自分のバックヤードみたいなものだと思う、とも。


彼がまだ船で下働きをしていた頃、海のこと、船のこと、魚のことなどを教えてくれたキャプテンが、つい最近亡くなりました。遺書の中には、彼に「自分の 遺灰を海に流して欲しい」との希望が書かれてありました。近々それを実行にするために海に出るそうです。

ガイリーンには「ボクの時もぜひそうして欲しい」と頼んでいるのですが、彼女はなかなか「ウン」とは言ってくれません。「せめて半分だけ海に流すのはだ めなの?」と私が聞くと「そんなのダメさ。海の男は身体ごと海に帰らなきゃね 」と。さすが海の男は発言も魅力的。

彼の下で7週間 deck hand(助手)を努めた日本人の男の子が教えてくれました。「(マークは)出会ったオージーの中でぶっちぎりに1番の男です」と。

今回は、エビを使ったお得意料理を教えてもらいました。ガイリーンに「マークが捕ってきたエビと輸入エビや養殖エビとの味の違いは?」と聞いてみると、 「お店で買ったエビは食べたことがないので分からないわ」との答えが返ってきました。ウラヤマシイ…。



▲バーベキュー・プロウンの出来上がり


▲タイガー・プロウンの大きさにビックリ!


バーベキュー・プロウン

材料
 パセリ1/4カップ/オイル1/4カップ/バーベキューソース大さじ3/レモンジュース大さじ2/蜂蜜大さじ1/ガーリック2片(みじん切り)
エビ1kg

■作り方

1.

エビは殻を取り、背わたを抜く

2.

Aの材料をボールに入れミックスし、エビを加えて混ぜ合わせる

3.

冷蔵庫で4時間〜一晩寝かせる

4.

180度に熱したオーブンで3分間。途中1度ひっくり返す

 

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その25 40才で先生に

2007年09月05日

●お料理:野菜のフラン

キャンパスライフ。この言葉を聞くと、甘い、そしてほろ苦い青春のひとコマを思い出す方も多いのではないでしょうか。日本でキャンパスライフを送るのは、 ふつう20歳前後の若者たち。でも、オーストラリアの大学キャンパスを歩くと、様々な年齢の学生達を見かけます。社会人、主婦、もちろんリタイア後の年輩 の方々も。そして皆若者と同じように目を輝かせてキャンパスライフを送っているのです。

 
 
 

▲ビッキーと筆者

   

私と同世代の友人Vikki(ビッキー)は、つい先日大学を卒業し、念願だった教師として小学校の教壇に立ちました。38歳の時、3人の子供の母親として 忙しい日々を送っていたものの、「どうしても教師になりたい」という思いが強くなり大学に入学。主婦、母親としての仕事もおろそかにせず、3年間の大学生 活を送った後、41歳で無事卒業しました。教師を目指して大学を同時に卒業したのは120人。しかしフルタイムの教師としてケアンズで就職することができ たのは、ビッキーを含め3人だけでした。彼女が難関と言われる地元の人気校に就職できたのは、S1ステューデント(成績がトップクラス)として卒業し、面 接においてもその実力が高く評価されたためです。彼女の人柄と努力を称えた記事が地元新聞に掲載されたときには、彼女のこれまでの大変な道のりを知ってい ただけに、自分のことのように感動を覚えました。

実は、彼女が大学に籍をおいたのは今回で3回目です。大学へ入るための1年間の準備コースも含めると4回目のキャンパスライフということになります。成績 も優秀で努力家、人柄も最高な彼女が、何度も大学にチャレンジしたのには、色々な事情がありました。

オーストラリアでは大学に行かずに就職する場合、Year10(高1)が最終学年となります。つまりYear11,12(高2,3)に在籍するというの は、基本的には大学入学を希望している生徒達です。Year11,12は大学入学準備期間として、資料の調べ方、論文のまとめ方などの学習が中心となりま す。成績の良かったビッキーも当然の如くYear 12まで高校生活を続けました。成績はトップクラスで、どんな大学どんな学部にも入学可能なほどでした。しかし卒業直前になり、自分がいったい何をしたい のか、何をすべきなのかわからなくなり、苦しみ悩んだ末、家族や教師の期待を裏切り、学校を中退してしまいました。

その後のビッキーは様々な職業を経験しました。百貨店やニュースエージェンシーの店員、空軍の通信士、英語教師など。社会に出て色々な経験を積むうちに、 勉強の楽しさや学問の必要性を再認識したビッキーは、大学で勉強することを望むようになりました。

最初に大学に入学したのは、28歳の時。しかし3人の子供達は一番手がかかる時期でした。子供達を保育園に預け、2時間かけてキャンパスに通う生活はあま りにハードで、結局1年間で挫折してしまいました。

2回目は32歳の時。最初の失敗が尾を引いていて、やり通すことができるかどうか不安だったものの、無事卒業することができ、その後もキャリアを生かして 仕事を続けることができました。しかし、徐々にどこか物足りなさを感じ、「もっと自分を生かせる仕事につきたい。私の場合、きっとそれは教師だ」と強く思 うようになったのです。収入は半分になり家計が苦しくなることは分かっていましたが、家族は気持ちよく彼女を3回目の大学生活に送り出してくれました。そ して彼女もその期待に応え、今では教師として充実した生活を送っています。

 

▲生徒に教えるビッキー

 
   

3回も大学でキャンパスライフを送れるとはうらやましい気もしますが、決して順風満帆な大学生活を送ったわけではありません。ビッキーだからこそ多くの困 難を乗り越えることができ、そして、家族の、特にご主人Steven(スティーブン)の全面的なバックアップがあったからこそ、やり通すことができたので す。

2回目の大学生活の時、論文の提出期限が迫っていたにも関わらず、どうしても課題の意味が理解できずに、追いつめられてしまったことがありました。リビン グルームが勉強部屋だったため、隣では子供たちが騒がしく走り回っています。ついイラついて声を荒げ、「もうダメ。難しすぎる。私には無理!」と叫びまし た。するとスティーブンは彼女には何も言わず、子供たちに「さあ、お弁当を持って出かけるぞ。車にみんな乗れ」と声をかけました。子供たちを、ムービーマ ラソンと呼ばれる6時間連続で3本の映画を上映する映画館に連れ出してくれたのです。突然ひっそりと静まり返った家の中で、子供たちが戻ってくるまでの6 時間、冷静に文献を読み返すことができました。すると霧が晴れたように、今まで理解できなかった内容がするすると頭に入ってきたのです。また課題が終わら ず徹夜して仕上げたことは何度もありました。やはりそのたびにスティーブンは子供たちの面倒を見てくれました。

3回目の教育学部の学生の時には、さらなる試練が家族を襲いました。卒業まであと1年、彼女が教育実習に励んでいる時、不運にもスティーブンが仕事中に大 きな怪我をして松葉杖での生活になってしまったのです。家と車を購入したばかりで、多額なローンもあるのに、収入が突然ゼロになってしましました。ビッ キーは大学を辞めようと決意しました。しかしスティーブンも子供たちも、「自分たちが何とか頑張るから、卒業して先生になって」と彼女を励まし続けたので す。

 
 

▲ケアンズポストの記事

 
 
 

▲男の料理の出来上がり

   

実はスティーブンも社会に出てから大学に入り直して卒業したという経歴を持っています。空軍という安定した職場に勤めていたにも関わらず、仕事を辞め、昼 間は学校に通い夕方からは生活のために働く。周囲の人たちからは「3人も子供がいるのにクレイジーだ」と言われたそうですが、その時、スティーブンを応援 し励ましたのがビッキーだったのです。「家庭を持ちながら大学に通っても、多くは脱落していってしまうの。私の場合、主人のサポートがなければとても卒業 は無理だったと思うわ。家族の協力を得られなかった人達は、結局皆辞めていってしまったもの」というビッキーの言葉は真実でしょう。

オーストラリアの大学には、在学中は学費を払わず卒業してからの収入で少しずつかかった費用を返していく奨学金制度や、政府がシングルマザーや社会人、リ タイアした人たちなどの学費を全面的に補助してくれるシステムがあり、誰でも簡単に利用できます。

「人は、早いうちに自分のやりたいことを知る人もいるし、それを見つけるのにとても時間のかかる人もいる。自分はまさに後者だと思う。でもだからこそ『み んなが行っているから』とか『親が言うから』といった安易な理由で大学に行くのではなく、『もう一度勉強したい』『教師になりたい』という強い動機があっ た。そして『全てのことを吸収してやる』という気持ちだった自分はまるでスポンジのようだった」とビッキーは熱く語ってくれました。家族からは「また10 年後に、違う勉強をしたい、って言うんじゃない?」と冷やかされているそうです。

頑張り屋のビッキーだからこそ自分の思ったことをやり遂げ、夢を実現させたのだと思いますが、それが可能なオーストラリアのゆとりある教育制度にも感心せ ずにはいられません。

今回はビッキー以上に?お料理が得意というスティーブンの「野菜のフラン」をご紹介します。ゲストを呼ぶときには必ずと言って良いほどスティーブンのお料 理が食卓に並びます。日本の男性諸氏にも是非学んで欲しいところです。

野菜のフラン

材料
A
玉ねぎ1個(みじん切り)
赤のパプリカ1個 (1cm角)
マッシュルーム6個(スライス)
ズッキーニ1本(スライス)

B
卵4個(割ほぐす)
リコッタチーズ…1カップ
市販のパイ生地

■作り方

1.

パイ生地は22cmの型に合わせて切る(底とトップ)

2.

Aの野菜を炒める

3.

ボールにBを入れ、塩、胡椒をふる

4.

バターを塗ったオーブン皿にパイ生地をのせ、2を入れる

5.

3を流し入れ、パイ生地をかぶせ、ふちを押さえる

6.

200度のオーブンで30分焼く

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その28 クリスチャンのクリスマス

2007年09月04日

●お料理:ショートブレッド

経済の悪化によるものか、はたまた高齢化のためか、日本のクリスマス・シーズンには一時の勢いがなくなってしまったようです。新興住宅地に行けば、どこで も見ることのできた派手な電飾の飾りは影をひそめ、毎年のようにビッグヒットしたクリスマスソングも、この頃は皆小粒になってきました。元気があるのは銀 座のティファニーに並ぶ若いカップル達くらいでしょうか?

 
 

▲友人を招いてのクリスマスランチ(エズマ)

   

そんな勢いのなくなった日本に比べ、最近上昇気流に乗っているオーストラリアのクリスマスは、元気いっぱいです。サーフボードに乗りやってくるサンタク ロースに引き連れられ、若年人口が急激に増加しているケアンズのクリスマスは、ますます派手になってきています。皆さんはスミスフィールドのクリスマス飾 りをごらんになりましたか。明るく輝く様々な飾り付けを見ていると、真夏のクリスマスもなかなか良いものだと思えてきます。

そんなきらびやかなクリスマスのお祝いもある一方で、キリスト教が一般的なオーストラリアでは、相変わらず敬虔なクリスチャン達が毎年恒例のクリスマスを 過ごしています。前回(2002年11,12月号「その4 クリスマス料理」)は一般?のオージー達のクリスマスを紹介しました。今回はクリスチャン達の 正当?なクリスマスの過ごし方をお伝えしましょう。

夫婦ともに熱心なキリスト教徒であるマル&エズマ夫妻は、クリスマス・イブ(24日)の夕方になると、所属する教会のイブ礼拝に参加します。礼拝では、信 者の子供達が、マリア、ヨセフ、博士、天使、羊飼いなどに扮し降誕劇を演じます。ふたりはもともと学校の教師をしているので、この劇の指導は主として彼ら の役割。クリスマスが近づくと日曜日の教会礼拝のたびに劇の練習です。毎年繰り返される題目ですが、役者達(子供)は毎回初めてのことなので、何度も練習 が必要です。もともとオージーの子供達は小さい頃からこうした劇や歌に参加する機会が多く、その分鍛えられている?ので、小さい子でも、セリフを言えない 子供はほとんどいません。どちらかというと得意げで、皆うれしそうに舞台に上がります。それでもセリフを忘れてしまった場合には、舞台の袖から、エズマが そっと教えます。無事に劇が終わると、子供達にはプレゼントが。こうして、子供達にはクリスマス・イブの忘れられない思い出ができるのです。

 

▲家族で楽しむクリスマス(デビー)

 
   

イブの礼拝の後は、ひとり一品持ち寄ったお料理やお菓子を教会のメンバーと頂き、遅くまでおしゃべりを楽しみます。明日のクリスマス(25日)には、また 大事な教会でのクリスマス礼拝があり、その後に家族で過ごすクリスマス・ランチが控えています。私が「明日のクリスマスランチの準備は大丈夫?何か持って いきましょうか?」とエズマに尋ねると、「まだ何も考えてないの。でもいつものことだから何とかなるわ」と頼もしい答えが返ってきました。

家に帰ると、家族全員そろっての夕食。普段はそれぞれ独立して住んでいる娘達もこのときばかりは遠方からやってきて水入らずでのお祝いです。夕食の後、明 日のクリスマス・ランチの支度を皆でします。クリスマスランチは家族でお祝いするのが一般的ですが、様々な理由で家族でお祝いできない人達もいます。朝の クリスマス礼拝後、そんな友人達をいつも家に招待して毎年一緒にクリスマスランチを囲むのが習慣になっているのです。クリスマス・プディング、ロースト・ ビーフ、フルーツ・サラダなど、家族の中でそれぞれの担当が決まっているそうですが、種類も量もとても多いので大仕事です。娘さん達に「毎年たくさんの人 を招待するのは大変でしょ?両親に文句を言った事はない?」と質問すると、「両親が教師で、また熱心なクリスチャンだから、家にはいつも友達や学校の関係 者、教会の人達が遊びに来るの。小さい頃からそうだったから慣れているし、楽しいわ」とのことでした。今回は私もお邪魔しましたが、ここはどこ?と思うく らい様々な国の人達でいっぱいのクリスマス・ランチでした。

もう一人の友達デビーも、熱心なクリスチャンです。毎年クリスマスの朝には早起きして、前々から準備してあったショートブレッド、アプリコット・ボール、 ラム・ボールなどのクリスマスのお菓子をかごに詰め、前日に作ったグレービー・ソースをかけた七面鳥もきれいに大皿に盛って、ボーイズ・ホーム、ガール ズ・ホームに届けます。ここはいわゆるホームレスの子供達(12歳から18歳位まで)が暮らす施設で、親がアルコール・ドラッグ中毒だとか、家庭内暴力な どで、家庭でのまともな生活が送れない子供達が保護されています。オーストラリアに住んではいても、クリスマスの意味さえ知らないという子供がほとんどだ そうです。そんな子供達に少しでもクリスマス気分を味わってもらおうと手作りのクリスマスのお菓子、料理を毎年届けているのです。「本当はもっともっとし てあげたいのだけれど、なかなか出来なくて」と言うデビーはマリア様のようです。

 
 

▲華やかなテーブルセッティング

 
 
 

▲ショートブレッドの出来上がり

   

クリスマス・ランチには、彼女のお母様、2人の姉夫婦、そしてご主人のお兄さんを毎年招待してお祝いします。私が、「末っ子のあなたがなぜみんなを招待す るの?」と聞いたところ、答えはいたってシンプル。「私はお料理好きだけど、姉達はお料理が嫌いなの。母はあと何年生きるかわからないから、母が生きてい るうちは大変だけどうちで頑張るわ」と。そんな頑張り屋のデビーの姿を見て、ご主人のジョージや3人の息子達は、ケーキを焼いたり、サラダやロースト・ ビーフを作ってくれたりと、とても協力的です。彼女のクリスマス・ランチのテーブル・セッティングは美しくため息が出るほど。家族のためにこんなにも頑張 れる彼女には頭が下がります。そして、夜は、友人達を招いてのクリスマス・ディナー。と言っても、たいていはクリスマス・ランチの残り物が食卓を飾るそう です。

日本ではクリスマスというと、恋人と過ごすロマンチックなイブや、クリスマス・プレゼントを思い出します。そして家族で過ごすのは、クリスマス・ケーキを 食べるときくらいでしょうか。オーストラリアの敬虔なクリスチャン達にとっては、もちろんクリスマスには特別の思い入れがあり、中でも家族で過ごすクリス マスが一番大事なようです。日本でのお正月に近いものなのでしょう。オーストラリアの家族の強い結びつきは、こうやって育まれていくのかもしれません。今 年のクリスマスはオージー風に家族を中心に過ごしてみませんか?

今回はデビーに教えてもらったショートブレッドをご紹介します。ショートブレッドはさくさくとした歯ごたえが魅力のビスケットですが、上から真っ白なお砂 糖をふりかけると、それでけでクリスマスらしい雰囲気に生まれ変わります。手軽に出来るので、皆さんも今年のクリスマスに作ってみてはいかがでしょうか。

ショートブレッド(Shortbread)

材料
バター…100g
砂糖…50g
小麦粉…150~200g

■作り方

1.

バターと砂糖を白くなるまでよく混ぜる。

2.

ふるった小麦粉を加え、ひとかたまりにする。

3.

ラップに包み、冷蔵庫で20分休ませる。

4.

麺棒で20cmの円形にのばし、フォークで全体に穴を開け、ナイフで切れ目を入れる。

5.

170℃のオーブンで10~15分焼く。

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その27 新天地を求めて

2007年09月04日

その27 新天地を求めて ●お料理:チキン・ブリヤニ

ニュー ヨーク 9.11以降、「文明の衝突(ハンチントン)」と言われる、特に西欧(キリスト教)文明とイスラム文明の対立を原因とした事件が新聞の紙面を賑わしていま す。オーストラリアでも、多くの国民が犠牲になったバリ島爆破事件、レバノン移民との対立事件など、悲しい出来事が起こるようになってきました。日本に暮 らしているとイスラム教徒と接する機会も少なく、どうしても他人事のような気がしてしまいますが、ここオーストラリアでは、私達と同じように新天地を、そ して自由な豊かさを求めて、イスラム教圏出身の多くの移民達が暮らしているのです。

 
 

▲2人の結婚式

   

息子の友人のお母様として知り合ったRiffit(リファット)は、パキスタン出身のイスラム教徒です。家族は元々現インドに属する地域の出身でしたが、 宗教上の理由でパキスタンが分離独立した後、イスラム教国家パキスタンに移住しました。といってもそれは彼女が生まれる前のこと。リファットは家族の中 で、初めてのパキスタン生まれとなったのです。

もともと敬虔なイスラム教徒で信仰も厚い彼女は、母国での生活に特別な不満があったわけではありません。しかしパキスタンは、政治が不安定で貧富の差が激 しく、自分達の先行きに関して常に不安を感じていました。特に、結婚して子供が生まれ、子供達の将来について夫婦で真剣に考えるようになると、その不安は 増大していきました。そして家族で相談した上、まず最初に新天地南アフリカに移住することを決心したのです。

 

▲一族の女性・子ども達

 
   

医師であるご主人は、その専門性からコモンウェルズ(英連邦)内でのビザは比較的簡単に取得できます。最初に住んだ南アフリカの都市ダーバンには、イスラ ム教徒の大きなコロニーがあって、その中には立派なモスク(礼拝堂)もあり、異国といえども孤独を感じることはほとんどありませんでした。パキスタン時代 と比べると生活は豊かになり、子供の教育にもある程度満足していました。しかし、思った以上に治安が悪く、常に緊張を強いられました。家は地域の中でも安 全といわれる場所にありましたが、家の全てのドア・窓を常にしっかりとロックし、外出や就寝時には安全装置を必ずオンにするという生活。ご主人の仕事場 (病院)までは歩いて2,3分なのに、常に銃での襲撃に備えなければならない。子供達も外で遊ぶことはできず、車を運転するときには安全な地域に入るま で、決して止まってはいけない、等々。南アフリカでの生活は11年にも及びましたが、いつも危険を意識しなければいけない生活は最初に望んでいたものとは 遙かに隔たりがありました。そしてより安全なカナダ、オーストラリアへの移住を希望し、その結果ビザの許可が早く下りたオーストラリアに暮らすことになっ たのです。

彼女から聞くイスラム教徒の生活は、驚くことばかりです。イスラム教徒は豚肉を食べることを禁じられていますが、その他の獣肉もイスラム式に屠殺されたも のでなければ食べてはいけません。これはハラールフードと呼ばれ、南アフリカのコロニーでは、マクドナルドやケンタッキーにもハラールミートを使ったハン バーガーが売られていました。でも、オーストラリアではそのことを理解している肉屋は数少なく、探すのが大変なほど。来豪直後はハラールミートを扱う肉屋 を見つけられず、3ヶ月もの間肉類を食べることができませんでした。

 
 

▲南アフリカでのひととき

   

また、家族のあり方も違います。特に感銘を受けたのは、彼女のご主人に対する思い、接し方です。日本人や欧米社会に暮らす女性には賛否両論だと思います が、一口に言うと昔の日本女性のようです。ご主人は家長であり外で大変な苦労をしている。だから家の中のこと、家事一切は妻である自分の仕事。夫に手伝っ てもらうなどとんでもない。また夫の家族を自分の家族以上に大事にすることは当然であり、結婚をすると夫の両親、兄、弟の家族と一緒に大きな家族として助 け合って暮らすことが一般的。自分の両親は、自分の兄、弟が同じように面倒を見るので問題はない。特に義母を敬い、義母に尽くすことは夫への愛情につなが る、と。ご主人への強い愛情を感じさせます。そういう彼女に、教義上許されている一夫多妻制に関して聞いてみました。「ご主人が奥さん達を経済的にも愛情 面でも、全てイコールに扱えるという条件の下でなら許されるわ」とのこと。実際には、彼女の周囲にもあまり例はないようです。最初の奥さんとの間に子供が できなかった弟だけが2人目の奥さんをもらった、とのことでした。「自分の子供、家族のことを何よりも優先するのが女性達の一番の勤めなのよ。」 イスラ ムの女性の生き方に全面的に賛成するわけではないのですが、大学で生物学を専攻したインテリな彼女がそう熱く語ると「そういうものか」と納得してしまうの も事実です。

オーストラリアでの暮らしは8年になります。安全性や豊かさ、子供の教育の面など、本当に満足して生活しています。しかし、そんな彼女にとって「今はとて も苦しい時期だ」とのことです。敬虔なイスラム教徒である彼女は、当初ベールをかぶりそれと分かる服を着ていました。しかしアメリカでのテロ事件をきっか けにオーストラリアでも周囲の目が厳しくなり、買い物をしていても「あなたはどこの国からきたの?イスラム教徒なら言いたいことがあるのだが・・・」と呼 び止められることも一度二度ではなくなりました。その他様々な嫌がらせを受け、いたたまれなくなった彼女は、イスラム教徒とわかる服を着ての外出をしなく なり、また自然と学校行事や社交の場に出ることを控えるようになりました。彼女の息子も同様で、私の息子に「君は日本人だから言うけど、ボクがイスラム教 だということを他のオージーの友達には絶対内緒にしておいてね」、と苦しい胸のうちを話したそうです。彼女もそれが辛く、「子供達がイスラム教徒であるこ とを隠し、誇りに思えないことがとても辛く悲しい。私達はテロリストではないのに・・・」と寂しそうに話してくれました。

 
 

▲オーストラリアでの自宅にて

   
 
 

▲食欲をそそるチキン・ブリヤニの出来上がり

   

彼女と話していると、「私達の国では・・・、文化では・・・、宗教では・・・」という言葉が繰り返し出てきます。その言葉を聞く度に、彼女の強い信念を感 じずにはいられません。しかし異国の地であっても、イスラム教徒としての生活習慣、考え方を貫こうとするその態度が、移民先の国々で現地の人々から強く批 判されているのも確かです。逆に、彼女からは、「日本はアジアのリーダー的存在であり、力を持った国なのに、どうして自分の国、文化に誇りをもたず、西欧 社会にばかり媚を売るの?」と聞かれました。平和な日本に育ち、他民族との紛争や貧困などの問題に悩むことなく生きてきた私には、彼女の疑問に対する明確 な返答はできませんでした。しかしだからこそ、オーストラリアで出会うことのできる、様々なバックグランドを持つ人々との貴重な出会いを大事にし、彼らの 言葉に耳を傾けたいと思うのです。

今日はパキスタンなどイスラム教圏の代表的料理チキン・ブリヤニをご紹介します。日本のお赤飯のように、元々はお祝いの席のために作られるそうですが、今 では気軽に家庭の食卓にのぼるそうです。


チキン・ブリヤニ(Chicken Biryani)

材料
チキンブリヤニスパイス(Shan社)…1/2箱
鶏もも肉…500g(キューブ大に切る)
玉ねぎ…2個(薄切り)
トマト…4個(1口大)
ししとう…5個(乱切り)
ヨーグルト…1カップ
ニンニク…2片
しょうが…少々
インディカ米…500g(30分水に浸す)

■作り方

1.

玉ねぎ、鶏肉をよく炒め、トマト、ししとうを加える。

2.

ヨーグルト、にんにく、しょうが、ブリヤニスパイスを入れ、水1カップ半を注ぎ10分煮る。

3.

米を入れ蓋をし、材料がやわらかくなるまで煮る。

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その29 ゲイとして生きること

2007年09月04日

●お料理:ラムカレー

オーストラリアに住むようになるまで、私のゲイに関する知識や関心は貧弱なものでした。せいぜい友人から聞いたゲイ・バーのことや、テレビのバラエティ番 組に出演しているゲイの映画評論家ぐらいしかイメージにはなく、それもその特徴的な話し方や衣装など外見上のことだけが気になっていて、何か現実離れした こととしか感じていませんでした。きっと大方の日本人は私と同じ思いではないでしょうか。

しかしケアンズに住むと、「うちのお隣さんはゲイカップルなの」、「ボクのお父さんゲイなんだ」「シェアメイトにはゲイが安全よ」などといった会話が日常的 に聞こえてきます。またシドニーで年一回開催されるマルディグラは、ゲイの一大イベントとして世界的に認知されるようになってきました。元々は彼らの人権 (human rights)を求めての抗議行動が始まりですが、今では一般の人も楽しめるイベントになっています。ある意味でオーストラリアはゲイに関して寛容で自由 な国なのでしょう。そして私も、カミングアウトしたゲイたちと普通に知り合うようになると、ゲイという人たちをより自然に自分の中で受け止められるように なってきたのです。

 
 

▲お気に入りの自宅プール

   

熱 帯植物に囲まれたジャングルの中のような家に住むハワードと彼のパートナーのティムとは、友人のパーティで知り合いました。その後仲良くなって彼らの家に 招待されて驚きました。私の自宅のすぐそばなのに、まるでバリ島のリゾートホテルのよう。センスの良い調度品とプール周囲の洗練された雰囲気、そして意表 をつく室内の色彩など。プロのインテリアデザイナー顔負けなのは、彼らがシドニー出身だからでしょうか。今では穏やかなセミリタイア生活を送っている二人 ですが、色々な話を聞き、いわゆるマイノリティゆえの苦しみを知ることになりました。

リタイアした年齢とはいえ、今もハンサムでインテリなハワードは、敬虔なクリスチャンの家庭に育ちました。お父様は大学教授。そんな堅い家庭であったから こそ、自分がゲイであることに気づいた思春期は悶々とした日々を過ごしました。もちろん友人にも家族にも相談することはできません。「今振り返ってみると 『自分はゲイであってはならない』といつもに自分に言い聞かせていた」と。大学を卒業し高校の教師として働き始めてからも、周囲から何の疑問をもたれるこ ともなく、当たり前に結婚し家庭を持つことを期待されていました。そして結局、自分の意思に反しながらも、弁護士の女性と結婚したのです。その後息子も一 人生まれました。しかしそんな仮面の結婚生活はもちろん長く続かず、奥さんは息子を連れて出て行きました。

このことが契機となり、「これからは自分を偽らず、自然に生きていこう」と決心し、両親に自分がゲイであることを伝えました。両親、特にお父様はひどく驚 き傷ついたようですが、ハワードが教会のメンバーに真実を告白したとき、非難の矢面に立った彼を弁護してくれたのもお父様でした。「自分がゲイであること を素直に受け入れてくれた両親には、心から感謝している」とハワード。

「ゲイであることで、何か辛かった事はある?」と聞いてみました。「シドニーの私立高校で教師をしている時、ゲイであることが問題になって、一部の父兄が 学校側に自分を解任するように求めたんだ」と。今から15年以上も前のまだまだ保守的だった時代のことです。彼自身「仕方がないこと」と解任を受け入れま したが、彼の解任を阻止しようと父兄の応援団ができ、学校側と対決してくれたのです。この時は、「本当にありがたかった」と。現在のオーストラリアではゲ イであることをカミングアウトしている教師も多くなってきました。子供を持つ何人かの友人に意見を聞いたところ「その教師が子供にとって良い教師であれ ば、ゲイであろうと関係ない」とコメントするオージーがほとんどだったのは、時代の変化を感じさせます。

 

▲植物園のような庭で

 
   

パー トナーのティムにもまた辛い過去があります。ヘアードレッサーの彼は、小さい頃からゲイであることを家族に告げていました。妹の一人もレズということなの で、「もしかしたら遺伝子に組み込まれているのかな?」とティム。7人兄弟の大家族に育った彼は、小学校から寮に入りましたが、高校の頃からクラスメート との関係が難しくなり、何回も学校を替わることになりました。高校卒業後は美容師になり、雑誌にもよく登場するシドニーの有名なヘアーサロンで働きまし た。その後、ロンドンのヴィダルサスーンで2年間勉強し、美容師として常に華やかな世界に身をおくことになりました。ティムは、そのファッショナブルで繊 細な雰囲気から、すぐゲイとわかってしまいます。そして、それが災いし、ある日大変な事件に巻き込まれてしまうのです。

ある晩、シドニーの通りをひとりで歩いていると、いきなり数人の反同性愛者の男たちに囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けたのです。意識を失い、その次に目が覚 めたのは6週間後、病院のベッドの上でした。一命はとりとめたものの、この時の暴行で後遺症が残り、障害者になってしまったのです。リハビリのおかげでな んとか歩けるようになるまでには回復しましたが、歩き方が不自然なため、街を歩いていると酔っ払いか麻薬中毒者に間違えられ、警官にたびたび呼び止められ て職務質問をされるのです。そのたびに障害者手帳を見せ、自分の障害を説明しなければならない。これは本当に屈辱的でした。自分が悪いわけじゃないのに。 もちろん、美容師として働くことも、断念しなければなりませんでした。それでも何か社会のために役に立ちたいと考えたティムは、その後数年間ボランティア として、お年寄りの買い物の手伝いや食事の世話をしたり、HIV感染者を助ける団体で働きました。そこで偶然、同じ様にボランティア活動をしていたハワー ドと出会ったのです。

二人はセミリタイアという形でケアンズに移り住んできました。シドニーに比べると人々がのんびりとしていて優しく、とても暮らしやすいそうです。シドニー 以上に友人もたくさんでき、「週末はいつもパーティに招待されるので忙しい」とうれしい悲鳴をあげています。

 
 

▲ラムカレーの出来上がり

   

彼 らと話していると、何故かとても優しい気持ちになります。おしゃべりしていて心から一緒に楽しめる素敵なカップルです。日本で生まれ育った私は、最初は彼 らに戸惑い、またある種の偏見を持っていたのも事実です。しかしゲイであろうがストレートであろうが、人間として付き合う場合、結局はその人の人間性にか かっているのだと強く思うようになりました。一人の人間としてもがき苦しみ、数々の試練を乗り越えてきた彼らは、人に対して思いやりがあり、とてもあたた かいのです。実は今回ご紹介するラムカレーの他にも、彼らは別の料理も考えてくれていました。「日本人は余りラムを食べないと聞いたから」だそうです。こ こまで気をつかってくれたオージーはこれまでいませんでした。彼らの優しさにふれた気がしました。

彼ら特製のラムカレーには、ココナッツがたっぷり入っているので、臭みもなく日本人の友だちにも大好評です。是非新鮮なラムを使って作ってみてください。

ラムカレー(Lamb Curry)

材料
ラム肉…400g
玉ねぎ…2個(薄切り)
野菜…ニンニク2片、人参、セロリ、パプリカなどの残り野菜(ざる一杯)をフードプロセッサーにかける

調味料:
醤油…30ml
トマトソース…40ml
ウェスターソース…30ml
カレー粉…大さじ2
ココナッツミルク…1缶

■作り方

1.

玉ねぎ、ラム、野菜の順に炒める。

2.

水を材料がかぶる程度に注ぎ、調味料、カレー粉を入れる。

3.

ラムがやわらかくなるまでよく煮込む。

4.

ココナッツミルク(好みの分量で)を入れ、さらに煮込んで出来上がり

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