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エッセー, ママのため息
その48 レターランド
2007年09月05日
日本語には漢字という難関があるが、読み書きにおいては英語と比べてある意味ラクな点もある。
音と表記が合致するところだ。例えば「お早う」と口にしたらそれを音のまま「お」「は」「よ」「う」と文字にできる。
でも英語の場合、Good morningと口では言えても、書こうとしたら単語のスペルを知っていなければならないのだ。
ペラペラしゃべってんのに、本が読めないのは、ちょっと不思議な感じだ。
A、B、C(エービーシー) などアルファベットそのものは読み書きできても、つながって単語になるとわからなくなってしまう。
どうやって読み書きの基本ルールを教えるのか… 最近娘のプレスクール(4〜5才の子が通う)でその経過をかいまみることができた。
「今、レターランドは Lucy ラ!」と理解不能なことを娘が言い出した。
なんだそれは。どうやらアルファベットの読み書きを習っているらしい。
つまりAというのは単語の中ではエイじゃなくてアということを覚えていく。例えばAndのAはアンドと言った具合。
そこでレターランドというAからZまでのアルファベットの世界を作って、♪Anny Apple She says A(ア)♪と言った歌で、それぞれの音を教えるのだ(レターとは手紙ではなくて文字=アルファベットということ)。
あーややこしい。ひらがなやカタカナなら簡単なのに。
でも歌で覚えるというのは秀逸のアイディアだ(私たちだって、最初にこう習ってたら、RやLの発音を自然に覚えられたかも)。
しかも、1つ1つのアルファベットがキャラクターになっているので楽しい。
Zまで終わった時、みんな好きな文字になって学校に来ましょうというイベントでこのカリキュラムは締めくくられた。
娘はクレバーキャットを選び、猫の耳としっぽを作って出かけたが、クラスメイトの華やかなこと!ゼブラ君は明らかに手縫いのゼブラ柄のお面とパンツをは いていたし、レッドロボット君はちゃんと段ボールを赤く塗って頭と体を覆い、隣にはドレスを着たプリンセス…etc。オージーは思いっきり仮装するので、 こういう時、かなり楽しい。
さて、レターランドの学習効果はテキメンで、短い単語ならguessできるようになった。
お目当てのレターにたどり着くまでいちいち歌うのと、単語が長いと、前にわかった音を忘れるのいう欠点はあるが…。
でも、訓練を繰り返すと音をつなげていけるようになることは、上の子を見ていてよく知っている。
彼が1年生の頃は、宿題で毎週4冊の薄い本を読む必要があり、Pはプッ Oはオッ Tはテッ Aはア Tはトゥッ Oはオッ などとやって、あ〜ポテトかとわかるので、本当〜に疲れた。
けれども、地道に訓練を積むうちに読み書きのスピードは飛躍的に伸びた。
7才の今では新聞もほとんど読めるので何かと便利だ。レストランで妹のためにメニューを全部読ませたりとか、「あっVIPカードを見せると今日は20%になるよ」とか役立つ。
下の子はちょっとでもレターがわかるのが嬉しくて、これはどういうスペル?と毎日聞いて来る。
「え?ドッグ?D O G」なんて、教えちゃえば簡単なのだけれど、自分で想定できるようになるには、訓練しなければ。
そこで、「ドッグはドゥ オッ グでしょ。ドゥのレターは?」Aから歌う娘。「あっD!」「そうだよ」次は?……Oまで歌うか。と気が遠くなる。
あと、このドゥとかアッとか、変な発音も、はっきり言って私はよくわからなくて勘弁してくれという感じ。そんな時もお兄ちゃん登場。あ〜兄弟っていいなあ。
(上の子の時はもちろんダンナが担当)
それにしても小さな子の学習意欲は見ていて気持がいい。上の子が宿題イヤだーと泣いている横で、私も宿題したいのに、宿題がない〜と泣いている。
いつまでも、こんなに純粋なやる気が保てるといいですね。でも早く歌わなくても音を言えるようになってほしい、というのが正直な気持だったりして…。
その49 終業式。がない学年末
2007年09月05日
オーストラリアの学校の新学年は1月から始まる。1ヶ月半ほどの長い夏休みを経て新たな学年に進級するのだ。
日本のように、通知表をもらってきたり、1年間で作った工作など持って帰って来たり、それなりに「学年が終わるんだな」という気分になってくる。
娘はプレスクール生だったので、小学生とはまた違う趣向で、卒園?を感じさせてくれた。親を学校に招いてお芝居や歌を披露してくれたのだ。
お芝居は、カトリックの学校らしくキリスト生誕に関する聖書の一節(だよね?)。
ビデオをまわす親御さんが多いのは日本もケアンズも同じ。先生のご指導に感謝です。
その後は、お母さん方が用意した食べ物をセットして子ども達と先生と親を交えたパーティー。
ちなみに、事前にパイとかフルーツとか食べ物の名がリストになった紙が貼られ、持っていきたいものの横に、お母さん方が名前を書き込むようになっている。
同じ料理が重ならないし、絶対食べ物が集まるし、合理的!
中には、私のように、学校へあまりお迎えに行かなくて、紙が貼ってあることも知らなかったトボケたヤツもいるから…(あせって、当日にサンドイッチとスコーンをどっさり買って盛りつけて持って行った)。
一方、息子の通う小学校では、学年の最後にクラスで1人ずつ、担任の先生が選んだ優秀な生徒が表彰されるのがイベントになっている。
自慢ではないが、息子も表彰されたことがあり、親バカの私たちは仕事を一時抜けて、両親で表彰式に行ってしまった。
プレゼントもあって、図鑑をいただいた。賞状だけでなくて賞品付きなのが、ちょっと日本と違う?
通知表の方は、とにかく項目が多いのが特徴だろう。学習内容と段階評価が記されている。
「算数〜数字:かけ算の概念を理解している、 英語〜会話とリスニング:聴く人を飽きさせないように声のトーンを変えたり、ボディランゲージや顔の表情を変えることができる」といった具合に。
3年生の彼の場合、英語で12項目、算数で18項目、テクノロジーで12項目、アートで12項目、他にサイエンス、ミュージック、体育健康、社会性な ど、なんとトータルで97項目の評価がなされた。個人に対する全体評価も、先生からのコメントという形で記されている。
先生も1人1人を見るのは大変なご苦労だろう。
私は教育学部を出ており、一時は小学校の教師を目指していたので、(なぜ気が変わったかは長くなるので割愛します)オーストラリアの学校制度のユニークなところは色々と感心する。
感心とともに、驚くことも。
その一つは、終業式がないこと。学年の本当の最後の日は、早く終わるのだが、息子の小学校ではコンサート(のようなもの)が行われただけだった。
自分たちの出番まで退屈でしょうがないと言っていたから、観ている方もうわの空だし、出る方も気合いが入っていないのだ。
途中で帰る生徒も結構いたらしい。
先生、1年間有り難う、とかそういう気持にはなりそうもないな…。
先生も生徒も、頭の中は翌日からの長ーい休暇のことでいっぱい、という感じ。
何しろ6週間!クリスマスもあるし、学校からは早く帰りたい?
大晦日に除夜の鐘などなく、1年を振り返る人などなく、新年への変わり目は花火を打ち上げて、お酒を飲んで、ただただパーティーをしてハッピーニューイヤー!と祝うお国柄。
終業式も入学式もいらないのかも、と思ったりもする(そうそう、ここは入学式もないのです)。
「常に前向き」でいいのかもしれないけど、私は変わり目には「けじめ」が欲しい。
こういう時、我が子を外国で育てることの違和感を感じてしまう。
解決策は、やっぱり日本へ連れて行って、両方の文化を見せることだろう。
だから、来年は2人揃って日本の学校に体験入学させたいともくろんでいる。
その50 公の意識
2007年09月05日
100%母親業に打ち込んでない私だが、たまに学校へ行ったり、子どもや友達の態度で気づくことも色々とある。
その一つが、「公」の意識だ。
例えば、教室のお掃除当番がなくて、掃除は、清掃の大人が来てやってくれるもの、と思っているここの子どもらは、身の回りが結構汚い場合が多い。
自分で掃除をしないから、汚すことに鈍感になっていくのかもしれない。
はっきり言って、職場でも机周りが汚い人が多いから、大人になって掃除しよう!という感覚が育つわけではない気がする。
昔、インドへ行った時に、落ちている物を拾おうとしたら、拾うことが職業の人の仕事を奪うからダメ、と言われて驚いたけれど、ここはオーストラリアだからなあ。ゴミが溜まってたら捨てようよ…。
うちは週に一度、お掃除の人が来てくれている。この間は、息子の棚にある物を全部どかして拭き掃除をしてくれた。が、息子の奴は、散らかされた、と怒っているのだ。で、私も「埃が溜まる前に拭きな!」と怒った。
やっぱり、学校では当番でもいいから、掃き掃除、拭き掃除をした方がいいのではないかと思う。
お弁当だって、教室で食べないで外で食べているのは、教室が汚れると先生が困るから?
と、嫌な考え方をしていたのだが、これはダンナが「ずっと教室の中にいるなんて良くない」と、オージーライクなアウトドア派の意見を言ったので、そうかも…と思った(ピクニック好きだからなあ)。
あと、人のモノは自分のモノ、という感じの行動が目立つ。
学年が始まる前に、2ダース分の鉛筆の先をナイフで削って名前を書いた苦労はどこへ行ったのだろうか。
本当に、見事に鉛筆が減っていくのだ。多分、子ども同士で使っちゃったりしていつの間にか誰かの所へ行ってしまうのだろう。
鉛筆だけではない。他の文房具もしかり。屈託がないというか何というか。
私はケチなのかもしれないが、人様のモノを借りたら返すのは当然だと思うので、子ども達にも、間違えて誰かの文房具が混ざっていたら返すように言っている。
アボリジニは、持っているものを皆で分け合うという文化があるらしいけれど、オーストラリア人って、そういう訳ではない…。貸し借りについては、単に公的意識に欠けているだけだと思う。
大人でさえ、芝刈り機とか、靴とか、銃とか、平気で人に貸して永久に戻ってこないものがあるので(あ、大人ってダンナのことだ)、公の意識が欠けているのか、逆に私的意識がないのか、よくわからない。
また、人の家を自分の家のようにふるまえるのも日本人と違う点だ。
この間は、うちに泊まりきた人が、自分の靴を私の靴箱に納めていた。これがこの家のルールだ、とすぐに気づいて順応してくれたのだと思う(でも見慣れぬ靴が入ってたらびっくりする)。
冷蔵庫も平気で開けるし、モノを入れるし。やりたければ、「シャワーでも浴びるか」とか言って勝手に浴びるし。今では慣れたけれど、最初の頃はビックリ。
日本人なんて、わざわざ「お手洗い貸して」と聞くというのに。
こうした公と私の意識の相違は至るところにあり、中には尊敬できる部分もある。
一つは、個人主義でありながら、オーストラリア人の間には助け合いの精神が自然と根付いていること。
厳しい開拓時代に生き延びるため自然とそうなったのかもしれない。
私的に困っている人がいると、公として助けようとする動くのは、素晴らしいと思う(津波の時とか、地震の時とか、難民問題とか、すごい速さで色々な組織が出来、助ける動きを取った)。
この国に14年くらい住んでいるが、オーストラリア人の公私の感覚と、自分たちのそれとの違いを未だに感じる。
いいとも悪いとも言えない違い。でも、明らかにいいことは、それぞれの国から取り入れられるハーフの子どもはラッキーなのでは?
その21 ホームスクール
2007年09月05日
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お料理:ロッキー・ロード – Rocky Road
映画「サウンド・オブ・ミュージック」でジュリー・アンドリュースの演じたマリア先生は、トラップ一家の家庭教師でした。家庭教師と言っても、学校の勉強 を補助するための教師ではありません。トラップ一家にとっては、家が学校でした。つまり子供達は学校に通うことなく、家の中で住み込みのマリア先生から教 育を受けていたのです。これが「ホームスクール」です。
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▲パソコンを使って勉強中 |
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オーストラリアでは、以前から「ホームスクール」が一般化しています。もともとはキャトル・ステーションのように町から遠く離れたところに住む子供達が、 ラジオやインターネットを使って授業を受けることができるように、と作られた教育制度ですが、もちろん学校がある町に住む子供達もこの制度を利用すること ができます。
Year 11 (高校2年)のTemeka (ティミーカ)は、Year 10 の途中で学校を辞め、現在はホームスクールの制度を使って、学校に通学することなく勉強を続けています。今は通信教育を利用して、高校の課程とOpen Universiity と呼ばれる大学の芸術、写真の科目を受講し、将来の希望であるミニチュア・ビルダーをめざし、充実した毎日を送っています。
高校の通信課程は日本でも珍しくはありませんが、実は彼女のホームスクール歴は小学校時代にさかのぼります。ティミーカが5歳の時、両親の仕事の都合 で、生まれ育ったブリスベンから木曜島に引っ越すことになりました。木曜島ではカトリック系の私立学校に通いましたが、地元住民の白人に対する偏見やその 他様々な問題があって、学校は楽しいものではありませんでした。
ティミーカのお母さんは、そんな子供達をみて、ホームスクールで教育をしようと思い立ちました。自分が小学校の教師だったこともあり、自ら子供達それぞ れに合ったカリキュラムを作り、クィーンズランド教育省の許可を得た上で、弟のジェームス(3歳下)と一緒にホームスクールを始めたのです。
ティミーカが話してくれたその内容は、というと・・・。
例えば、「どうして空は青いの?」と子供達が疑問に思ったことに対しては、図書館や教育ビデオ、あるいはインターネットを使って徹底的に調べました。休 暇でブリスベンに戻った時には、科学博物館、美術館、歴史民族博物館などに足しげく通い、自分達の調べたものを、より深め、さらに広げていく努力をしまし た。
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▲ケアンズショーの優勝作品 |
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図書館や博物館に通っていろいろな知識を得たときには、帰宅してから両親と一緒にディスカッションし、また家族の前で発表してさらにその知識を深めまし た。お父さんはコンピューター・エンジニアだったので、何日もかけて、いちから部品を組み立てパソコンを自作したこともありました。
このように家族いっしょに過ごしたホームスクールは、とても楽しい経験でした。その後、ティミーカが中学校に上がる時、一家はケアンズに引っ越すことになり、ホームスクールを卒業して同じくキリスト教系の私立学校に通うことになりました。
少し不安に思っていた成績でしたが、結果が出てみると、クラスのトップ3に入ることができました。「自分達のやって来たことは、決して間違っていなかった」と強い自信につながりました。
最初の2年間は、友達にも恵まれ、何でも話せて信頼できる彼氏(学校の先輩)も出来て、学校生活は楽しいものでした。しかし、2年を過ぎたころから学校というものに対して疑問がわくようになってきました。
ひとつは、友人達との関係。学校の中では、みんなと仲良くしていくために、興味がなくても同じ話題でおしゃべりをしたり、他人の噂話をしなければならな いこと。また、クラスのボスを中心に自分達の仲間に入らない子につらくあたったりするクィーンビー(Queen bee)と呼ばれるグループの存在。
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▲家族で楽しんだヨーロッパ旅行(トレビの泉) |
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これまで、同年代の友達との接触が少なく、大人の中で生活することが多かったために、こういった同年代の友達の行動がどうしても彼女には子供っぽくみえ、理解が出来なかったようです。
また、学習面でも「ホームスクールのほうが自分にとってより多くのことが学べる」と確信しました。学校では1日中机に座り先生の説明を聞いてノートに写 す、ということの繰り返しで、受身の要素が強い。学校にいる時間と家に帰ってからする学校の宿題をあわせると1日あたり9時間が消えてしまい、本当に自分 が勉強したいことに時間を費やせない。
こういったことが彼女にとって大きな苛立ちとなりました。自分は自ら調べたり、自分の手を使って製作するのが好きなので、ホームスクールのほうがもっと 積極的に学習に取り組める。そう考えて、再びホームスクールの生徒として高校生活を送ることにしたのです。
「学校に行かないで、家で勉強していると、つい遊んじゃいそうだけど?」と聞いてみると、「そうならないために、いろいろ自分に課題を課しているの」と意思の強さを感じさせる力強い答えが返ってきました。
例えば、お料理やケーキ作りが好きな彼女は、ただの趣味に終わらさず、ケアンズショー(年1回開かれる地元の最大のイベント)のケーキコンテストに毎年参加することにしました。
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▲今年出品したアート作品 |
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何度も何度もレシピを書き直し練習に練習を重ねた2回目の挑戦では、フルーツケーキ部門の優勝に輝き、翌日の地元の新聞にはケーキを抱えて笑顔いっぱいの彼女の写真が掲載されました。また今年からは、フォトアート部門にも参加することにしました。
来年はブリスベンで開かれる祭典に家族で作品を出品するそうです。テーマは「中世の騎士の衣装、道具などを再現する」というもので、かなり綿密な準備が 必要です。そのため今は、中世の歴史やファッション、生活習慣まで、様々な角度からその時代のことを勉強しています。
高校生になった彼女は、自分で勉強の仕方を考え自分に課題を出しそれを仕上げていく、という計画性のある自主的な勉強方法をとっています。もちろん、これは皆彼女が考えたもの。
でも、小学生の時のホームスクールの勉強の方法がその基礎になっているのは間違いありません。彼女を教育したご両親の努力が報われていると考えてもよいでしょう。もちろん今も変わらずご両親の大きな支えがあります。
昨年お父さんのロングサービス(同じ職場で長年勤め上げた人対象の長い休暇)を利用して、家族で7ヶ月のヨーロッパ一周旅行に出かけました。現地でキャンピングカーを購入し、そこに寝泊りしながら計16カ国を家族で回りました。
この旅行では、机上の知識だけでなく、実際にその国の気候、風土、そして人々に生(なま)で触れることが出来ました。そして、これまで以上に、その国々に興味を持つことが出来るようになって、それぞれの国の文化、歴史を掘り下げて勉強できました。
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▲ロッキー・ロードの出来上がり |
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彼女の話を聞いていると、ホームスクールには一般の学校教育にはない数々の魅力を感じてしまいます。しかし、このホームスクールの利点を引き出すことができたのは、自分の長所と欠点を冷静に分析することができ強い意志をもった彼女だからこそ、とも言えるでしょう。
同年代の人との交流も大切だ、と教会の青年会、ボランティア活動、ミュージックレッスンなどにも通っています。今自分が何をすべきなのか何をしたいのか をはっきりと自分の言葉で語れる彼女は、自信に満ち今の日本の高校生にはなかなか見ることの出来ない輝きを感じます。
さて今回は、お菓子作りの大好きなティミーカに教えてもらったロッキー・ロードをご紹介します。その昔開拓時代にさかのぼり、ごつごつした岩だらけの道をイメージして作られたお菓子だそうです。切り口がきれいなので、プレゼントにも最適です。
| ロッキー・ロード(Rocky Road) | |||||||||
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■ 材料 |
■作り方
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その22 盗まれた世代 “Stolen Generation”
2007年09月05日
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●お料理:ココナッツ・チキン |
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映画"Rabbit-Proof Fence(邦題:裸足の1500マイル)"は、日本でも話題になったようなので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。時は1931年、政府のア ボリジニ隔離同化政策によって母親から引き裂かれた子供達が、収容所を抜け出し、砂漠の中2000キロをウサギ防護柵に沿って故郷まで歩いて帰る、という 実話に沿った映画です。 でもこれは決して昔話ではありません。60年代後半まで実際に行われていた政策であり、私達の近くにも、この被害にあった人々が暮らしているのです。 「友達は私のことを『ココナッツみたい!』って言うの。どういうことかわかる?」とエンジ(Angie)が笑いながら私に尋ねました。 彼女は1955年生まれ。アボリジニの母と白人の父の間に生まれました。後に"Stolen Generation (盗まれた世代)"と呼ばれるようになる人々の大半は、こうした混血児達です。 オーストラリア政府が1911年から1960年代後半まで行った強引な隔離同化政策は、主に混血の子供達を親元から引き離し、白人教育を施す。そして白 人と結婚させ、3世代後には外見上白人と区別がつかないようにさせる、という非人間的な政策でした。
穏やかなエンジの話し振りに比して、その内容はまるで壮絶なドラマのようです。 しかしそれも結局叶わず、エンジは捕らえられ母から引き離されてダーウィン近くの小さな島に送られました。それ以来母とは会っていませんし、母の顔さえも覚えていません。 島では多くの混血児達が集められ、その面倒は修道女がみていました。英語での教育がなされましたが、決して整然としたものではありません。 同年代の子供達が集まっているのでそれなりの楽しさもありましたが、白人家庭に引き取られるまでの一時的な収容所のような場所でした。子供達の写真は、 各地の教会のニュースレターに掲載され、養父母に気に入られた子供だけが島から少しずつ引き取られていく、という場所だったのです。 エンジは8歳のとき、南オーストラリアに住む家庭に引き取られることになりました。養父母は4人の子供を持つ熱心なキリスト教信者でした。養母はしつけ と勉強にとても厳しく、それまで島で比較的自由に育っていた彼女には辛い面もありましたが、反面、自分のことを怒ったり心配してくれる人に初めて出会った ことをうれしくも思いました。 養父母の家から学校に通うことになりましたが、地元の学校では、彼女はたった一人の黒人で、よくいじめられたりからかわれたりしました。彼女が学校から 泣いて帰ってくると、養母は「あなたのせいじゃないわ。いじめる側の心の問題よ。どんなにひどいことを言われても、笑って微笑んで、手を振ってあげなさ い」と励ましてくれました。 そしてアボリジニへの偏見が強い近所の人たちから「エンジはハワイとかフィジーで生まれたと言った方がいいわ。決してアボリジニの子なんて話すべきじゃ ない」と言われても、養母はエンジに「あなたはアボリジニの子供よ。そして、そのことを誇りに思いなさい」とも言ってくれました。 そんな養父母でしたが、10歳になって養子として戸籍に入るかどうかを尋ねられたとき、いったんは断ったといいます。 養父母は不自由のない生活を彼女に与えてくれましたが、次第に意見の衝突が起きるようになりました。白人家庭で育てられてはいましたが、思春期になった 彼女は、次第にアボリジニに興味を持ち、アボリジニの人たちと話してみたいと思うようになりました。しかし養母は「あなたは他のアボリジニとは違うのよ。 彼らと友達になってはダメ」と言って、彼らと交流することを許してはくれません。 彼女は反発しましたが、養母に逆らうことはできませんでした。しかし、心の中では「それは、おかしい。何かが間違っている」と思い続けていました。そし て、ある時「彼らが、臭かろうと汚かろうといいじゃない。教育をうけていなくてもいいじゃない。私にはアボリジニの血が流れているんだ。友達になって何が 悪い」と強く思ったのです。 養父母と衝突することが多くなった彼女は、12年生になると家を出て学校の寮で生活を送ることになりました。そして、寮生の中にアボリジニの学生を見つ けた時には、自然と惹かれていきました。というより、心の奥底で「彼らを受け入れなければ」と思うようになったのです。 しかし、彼らと二、三言葉を交わした時、愕然としました。「自分とは違う」と悟ったのです。長い間ずっと白人家庭で育ち、白人の教育を受けてきた彼女は、考え方、話す言葉もアボリジニのそれとは、全く違っていました。 「お前はいい子ちゃん(goody twoshoes)だ。何一つ悪いことをしようとしない」そう言ってアボリジニの寮生たちは彼女をあざ笑いました。 ある日、アボリジニの子が「私たちの見ている前であの家の庭の果物を盗んでごらん」と彼女に言いました。彼女は仲間に入りたい一心で、夢中で走って行っ て果物を盗もうとしました。慣れていない彼女は、案の定その家の人に捕まり、学校に連絡されひどく叱られました。 その後、彼女はパプアニューギニアからエンジニアリングの勉強に来ていたご主人と出会い、結婚を決意しました。この時にも養父母からは強く反対されたそ うですが、とにかく自立したいという思いが強く、高校を卒業後すぐに、ご主人の待つパプアニューギニアに旅立ち、以来28年間パプアニューギニアで暮らし 3人の子供にも恵まれました。 今は再びオーストラリアに戻ってきましたが、「振り返ると自分は本当に神様に守られている気がする」と今の心境を教えてくれました。 彼女は幸運にも良い家庭に引き取られましたが、同じ境遇の人たちの多くは、虐待を受けたり不幸な子供時代を送っています。"Stolen Generation (盗まれた世代)"は"Lost Generation(失われた世代)"とも称されます。彼女たちは、子供のときに政府に「盗まれ」た世代、そして「ココナッツ」と呼ばれるように、アボ リジニでも白人でもないという、アイデンティティを「喪失して(失って)」しまった世代ともいえるのでしょう。 最後に、彼女はオーストラリア人そしてアボリジニ達に、とメッセージをくれました。 「オーストラリア人には、自分達の傲慢さを反省し、過去にアボリジニをどのように扱ったかを知り、謝って欲しい。そして、アボリジニ達は、過去を洗い流して、白人を許す心を持って欲しい」 彼女のような存在が、オーストラリア人とアボリジニを結びつける架け橋になることを願わずにはいられません。 今回はエンジから教えてもらった、ココナッツ・チキンをご紹介します。これは、彼女が長く暮らしたパプアニューギニアのお得意料理だそうです。 |
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その23 オージーの漁師さん
2007年09月05日
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●お料理:バーベキュー・プロウン |
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ケアンズを訪れる観光客のお目当てのひとつは美味しいレストラン。なかでも海のイメージが強いこの地には、エスプラネードを中心にシーフードレストランが 軒を連ねています。よく冷えた白ワインを片手に、氷の上に盛られた生牡蠣やエビ、バグなどをいただくのは、最高の贅沢気分です。 タイガー、キング、バナナ(プロウン)などの種類があるオーストラリア産のプロウン(エビ)は世界的にも有名で、サイズも大きく色鮮やかで甘みもありま す。先日行われたデンマーク王室の結婚式では、オーストラリア出身の皇太子妃メアリーのために、当地自慢のプローンが献上され出席者達が舌鼓を打ったとい う報道が紙面を飾りました。 でも…ケアンズで実際にエビの収穫はあるのでしょうか?日本の漁港のように海沿いの魚市場なんて見たことないし…。
友人のガイリーン(Gaelene)のご主人マーク(Mark)は漁師さん。エビ漁のシーズンとなる3月から12月の間は自慢の漁船 DRIFTER号で出漁します。 この時期には長い時で2〜3ヶ月家をあけ、船上で暮らすのです。ガイリーンや3人の息子たちとも電話でしか連絡がとれませんが、自ら選んだ漁師という仕事に誇りを持ち、また家族もそんなマークを尊敬しているので苦になりません。 マークは海軍で働いていた父親に、幼い頃から釣りを教わり一緒に船で海に出ていました。その父が若くして亡くなり、マークは家計を助けるため12歳からケアンズで船での仕事を始めました。 最初は観光船のクルーとして、その後は漁師として、海で生きてきました。ガイリーンと結婚した後、一緒に3年間ほどアデレードでコーヒーショップを経営 しましたが、やはり小さい頃から慣れ親しんだ海、魚がなつかしく、彼女を説得してまたケアンズに戻り、以来エビ漁を続けています。 エビ漁は5つの網と探知機を使いますが、もちろん養殖ではなく天然ものなので、探知機があるといえどもその漁場は長年の知識と鋭い感で探し出します。 漁獲量は月齢との関係が非常に深いとのこと。 この時は夜の6時位から朝8時頃まで、ここぞと思った場所を探しては網を落とし2〜3時間して引き上げる、という作業を繰り返します。たいてい5〜6泊 は同じ地域でいいスポットを探し続け、次にまた離れた場所に移動。もちろん、満月の前後に収穫が多くなる漁場もあるので、その場所を見極めるのが腕の見せ 所なわけです。
天然もののエビは味も素晴らしく、オーストラリア特産として日本などに高値で卸され、地元の人々の口にはなかなか入らないほどの人気なのですが、それでもマークの悩みは尽きません。 ひとつは卸値の問題。東南アジア産、地中海産などの安価なエビが出回り始め、卸値がグッと下がりました。追い討ちをかけるようにガソリンの急騰。例えば 7年前は1キロ当たり30ドル以上で取引されていたエビが今では18ドルに下がり、加えてガソリン代は2倍に跳ね上がっていますから、漁師達にはたまった ものではありません。 彼の船の場合、出漁すると一日に530リットルのガソリンが必要なので、一晩で300〜400kgの収穫があるときには十分利益が出ます。でも悪い日は 50kg以下。そうなるとガソリン代のほうが高くなってしまい、早々に港に引き返すしかないわけです。 また政府の規制も強く、1つの船に7人の監視官が乗っていると言われるほどたくさんの制限があります。たとえば、網で引き上げた魚は自分が船で食べる分 を除いては、すべて海に返さなければいけません。彼の免許では、エビ、バグ、ほたて、蟹、イカ以外は捕ってはいけないのです。たとえ高価な魚が網にかかっ ても、手作業で選別してすべて海に投げ捨てます。 こういった規制は他の国に比べるとかなり厳格だとのこと。そのため、漁業は以前と比べるとかなり厳しい状況となり、かつてクイーンズランドに登録されていた1000隻近くの漁船も今では300隻にまで落ち込んでしまったそうです。
彼が「ボクの手を見てごらん」と私の目の前に手を差し出しました。手のひらはささくれ、ガサガサです。「まるでサンドペーパーみたいだろう?」と彼。知 り合った人と握手をすると「どうしたの?その手」と必ず聞かれます。そのたびに"the work for living(生活のため)"と答えているんだ、と。奥さんや子供に触れる時も、手のひらではなく手の甲を使うとか。彼の仕事がいかに過酷なものなのかが わかります。 また、怖い思いも何度となく経験しました。「これで俺の人生も終わりか!」と思ったこともあったとか。海に潜って船の修理中にサメに襲われそうになった り、ケーブルが切れたため船が直進できなくなって海を旋回したり、網のチェック時に誤って海に落ちたが一緒にいた乗員がそのことに気づかず3時間近く漂流 した、など苦労話は絶えません。 彼は笑い話として話してくれるのですが、奥さんであるガイリーンはそういった状況を聞くたびに凍りついてしまうそうです。 もちろん海での仕事はつらいことばかりなわけではなく、楽しいこともたくさんあります。エビを捕った後、エビ以外の魚を投げ捨てるので、イルカがいつもそれを目当てに船の回りに集まってきます(時にはサメのことも!)。 彼が海に飛び込むと、イルカは肩に乗ってきたり一緒に泳いだり遊んだり。海の上で大の字になって、イルカと一緒に何も考えずにプカプカ浮かんで過ごすと、まるで天国にいるような気分になるとか。 先日は鯨の親子がやってきたので、エンジンを止めデッキブラシで子供の鯨の鼻をこすって遊びました。最高にワクワクして楽しかったそうです。観光客が何 千ドルも払ってやっていることでも彼にとっては日常のことなのでとても幸せだと思うし、海は自分のバックヤードみたいなものだと思う、とも。
ガイリーンには「ボクの時もぜひそうして欲しい」と頼んでいるのですが、彼女はなかなか「ウン」とは言ってくれません。「せめて半分だけ海に流すのはだ めなの?」と私が聞くと「そんなのダメさ。海の男は身体ごと海に帰らなきゃね 」と。さすが海の男は発言も魅力的。 彼の下で7週間 deck hand(助手)を努めた日本人の男の子が教えてくれました。「(マークは)出会ったオージーの中でぶっちぎりに1番の男です」と。
今回は、エビを使ったお得意料理を教えてもらいました。ガイリーンに「マークが捕ってきたエビと輸入エビや養殖エビとの味の違いは?」と聞いてみると、 「お店で買ったエビは食べたことがないので分からないわ」との答えが返ってきました。ウラヤマシイ…。
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その25 40才で先生に
2007年09月05日
●お料理:野菜のフラン
キャンパスライフ。この言葉を聞くと、甘い、そしてほろ苦い青春のひとコマを思い出す方も多いのではないでしょうか。日本でキャンパスライフを送るのは、 ふつう20歳前後の若者たち。でも、オーストラリアの大学キャンパスを歩くと、様々な年齢の学生達を見かけます。社会人、主婦、もちろんリタイア後の年輩 の方々も。そして皆若者と同じように目を輝かせてキャンパスライフを送っているのです。
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▲ビッキーと筆者 |
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私と同世代の友人Vikki(ビッキー)は、つい先日大学を卒業し、念願だった教師として小学校の教壇に立ちました。38歳の時、3人の子供の母親として 忙しい日々を送っていたものの、「どうしても教師になりたい」という思いが強くなり大学に入学。主婦、母親としての仕事もおろそかにせず、3年間の大学生 活を送った後、41歳で無事卒業しました。教師を目指して大学を同時に卒業したのは120人。しかしフルタイムの教師としてケアンズで就職することができ たのは、ビッキーを含め3人だけでした。彼女が難関と言われる地元の人気校に就職できたのは、S1ステューデント(成績がトップクラス)として卒業し、面 接においてもその実力が高く評価されたためです。彼女の人柄と努力を称えた記事が地元新聞に掲載されたときには、彼女のこれまでの大変な道のりを知ってい ただけに、自分のことのように感動を覚えました。
実は、彼女が大学に籍をおいたのは今回で3回目です。大学へ入るための1年間の準備コースも含めると4回目のキャンパスライフということになります。成績 も優秀で努力家、人柄も最高な彼女が、何度も大学にチャレンジしたのには、色々な事情がありました。
オーストラリアでは大学に行かずに就職する場合、Year10(高1)が最終学年となります。つまりYear11,12(高2,3)に在籍するというの は、基本的には大学入学を希望している生徒達です。Year11,12は大学入学準備期間として、資料の調べ方、論文のまとめ方などの学習が中心となりま す。成績の良かったビッキーも当然の如くYear 12まで高校生活を続けました。成績はトップクラスで、どんな大学どんな学部にも入学可能なほどでした。しかし卒業直前になり、自分がいったい何をしたい のか、何をすべきなのかわからなくなり、苦しみ悩んだ末、家族や教師の期待を裏切り、学校を中退してしまいました。
その後のビッキーは様々な職業を経験しました。百貨店やニュースエージェンシーの店員、空軍の通信士、英語教師など。社会に出て色々な経験を積むうちに、 勉強の楽しさや学問の必要性を再認識したビッキーは、大学で勉強することを望むようになりました。
最初に大学に入学したのは、28歳の時。しかし3人の子供達は一番手がかかる時期でした。子供達を保育園に預け、2時間かけてキャンパスに通う生活はあま りにハードで、結局1年間で挫折してしまいました。
2回目は32歳の時。最初の失敗が尾を引いていて、やり通すことができるかどうか不安だったものの、無事卒業することができ、その後もキャリアを生かして 仕事を続けることができました。しかし、徐々にどこか物足りなさを感じ、「もっと自分を生かせる仕事につきたい。私の場合、きっとそれは教師だ」と強く思 うようになったのです。収入は半分になり家計が苦しくなることは分かっていましたが、家族は気持ちよく彼女を3回目の大学生活に送り出してくれました。そ して彼女もその期待に応え、今では教師として充実した生活を送っています。
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▲生徒に教えるビッキー |
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3回も大学でキャンパスライフを送れるとはうらやましい気もしますが、決して順風満帆な大学生活を送ったわけではありません。ビッキーだからこそ多くの困 難を乗り越えることができ、そして、家族の、特にご主人Steven(スティーブン)の全面的なバックアップがあったからこそ、やり通すことができたので す。
2回目の大学生活の時、論文の提出期限が迫っていたにも関わらず、どうしても課題の意味が理解できずに、追いつめられてしまったことがありました。リビン グルームが勉強部屋だったため、隣では子供たちが騒がしく走り回っています。ついイラついて声を荒げ、「もうダメ。難しすぎる。私には無理!」と叫びまし た。するとスティーブンは彼女には何も言わず、子供たちに「さあ、お弁当を持って出かけるぞ。車にみんな乗れ」と声をかけました。子供たちを、ムービーマ ラソンと呼ばれる6時間連続で3本の映画を上映する映画館に連れ出してくれたのです。突然ひっそりと静まり返った家の中で、子供たちが戻ってくるまでの6 時間、冷静に文献を読み返すことができました。すると霧が晴れたように、今まで理解できなかった内容がするすると頭に入ってきたのです。また課題が終わら ず徹夜して仕上げたことは何度もありました。やはりそのたびにスティーブンは子供たちの面倒を見てくれました。
3回目の教育学部の学生の時には、さらなる試練が家族を襲いました。卒業まであと1年、彼女が教育実習に励んでいる時、不運にもスティーブンが仕事中に大 きな怪我をして松葉杖での生活になってしまったのです。家と車を購入したばかりで、多額なローンもあるのに、収入が突然ゼロになってしましました。ビッ キーは大学を辞めようと決意しました。しかしスティーブンも子供たちも、「自分たちが何とか頑張るから、卒業して先生になって」と彼女を励まし続けたので す。
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▲ケアンズポストの記事 |
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▲男の料理の出来上がり |
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実はスティーブンも社会に出てから大学に入り直して卒業したという経歴を持っています。空軍という安定した職場に勤めていたにも関わらず、仕事を辞め、昼 間は学校に通い夕方からは生活のために働く。周囲の人たちからは「3人も子供がいるのにクレイジーだ」と言われたそうですが、その時、スティーブンを応援 し励ましたのがビッキーだったのです。「家庭を持ちながら大学に通っても、多くは脱落していってしまうの。私の場合、主人のサポートがなければとても卒業 は無理だったと思うわ。家族の協力を得られなかった人達は、結局皆辞めていってしまったもの」というビッキーの言葉は真実でしょう。
オーストラリアの大学には、在学中は学費を払わず卒業してからの収入で少しずつかかった費用を返していく奨学金制度や、政府がシングルマザーや社会人、リ タイアした人たちなどの学費を全面的に補助してくれるシステムがあり、誰でも簡単に利用できます。
「人は、早いうちに自分のやりたいことを知る人もいるし、それを見つけるのにとても時間のかかる人もいる。自分はまさに後者だと思う。でもだからこそ『み んなが行っているから』とか『親が言うから』といった安易な理由で大学に行くのではなく、『もう一度勉強したい』『教師になりたい』という強い動機があっ た。そして『全てのことを吸収してやる』という気持ちだった自分はまるでスポンジのようだった」とビッキーは熱く語ってくれました。家族からは「また10 年後に、違う勉強をしたい、って言うんじゃない?」と冷やかされているそうです。
頑張り屋のビッキーだからこそ自分の思ったことをやり遂げ、夢を実現させたのだと思いますが、それが可能なオーストラリアのゆとりある教育制度にも感心せ ずにはいられません。
今回はビッキー以上に?お料理が得意というスティーブンの「野菜のフラン」をご紹介します。ゲストを呼ぶときには必ずと言って良いほどスティーブンのお料 理が食卓に並びます。日本の男性諸氏にも是非学んで欲しいところです。
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その28 クリスチャンのクリスマス
2007年09月04日
●お料理:ショートブレッド
経済の悪化によるものか、はたまた高齢化のためか、日本のクリスマス・シーズンには一時の勢いがなくなってしまったようです。新興住宅地に行けば、どこで も見ることのできた派手な電飾の飾りは影をひそめ、毎年のようにビッグヒットしたクリスマスソングも、この頃は皆小粒になってきました。元気があるのは銀 座のティファニーに並ぶ若いカップル達くらいでしょうか?
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▲友人を招いてのクリスマスランチ(エズマ) |
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そんな勢いのなくなった日本に比べ、最近上昇気流に乗っているオーストラリアのクリスマスは、元気いっぱいです。サーフボードに乗りやってくるサンタク ロースに引き連れられ、若年人口が急激に増加しているケアンズのクリスマスは、ますます派手になってきています。皆さんはスミスフィールドのクリスマス飾 りをごらんになりましたか。明るく輝く様々な飾り付けを見ていると、真夏のクリスマスもなかなか良いものだと思えてきます。
そんなきらびやかなクリスマスのお祝いもある一方で、キリスト教が一般的なオーストラリアでは、相変わらず敬虔なクリスチャン達が毎年恒例のクリスマスを 過ごしています。前回(2002年11,12月号「その4 クリスマス料理」)は一般?のオージー達のクリスマスを紹介しました。今回はクリスチャン達の 正当?なクリスマスの過ごし方をお伝えしましょう。
夫婦ともに熱心なキリスト教徒であるマル&エズマ夫妻は、クリスマス・イブ(24日)の夕方になると、所属する教会のイブ礼拝に参加します。礼拝では、信 者の子供達が、マリア、ヨセフ、博士、天使、羊飼いなどに扮し降誕劇を演じます。ふたりはもともと学校の教師をしているので、この劇の指導は主として彼ら の役割。クリスマスが近づくと日曜日の教会礼拝のたびに劇の練習です。毎年繰り返される題目ですが、役者達(子供)は毎回初めてのことなので、何度も練習 が必要です。もともとオージーの子供達は小さい頃からこうした劇や歌に参加する機会が多く、その分鍛えられている?ので、小さい子でも、セリフを言えない 子供はほとんどいません。どちらかというと得意げで、皆うれしそうに舞台に上がります。それでもセリフを忘れてしまった場合には、舞台の袖から、エズマが そっと教えます。無事に劇が終わると、子供達にはプレゼントが。こうして、子供達にはクリスマス・イブの忘れられない思い出ができるのです。
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▲家族で楽しむクリスマス(デビー) |
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イブの礼拝の後は、ひとり一品持ち寄ったお料理やお菓子を教会のメンバーと頂き、遅くまでおしゃべりを楽しみます。明日のクリスマス(25日)には、また 大事な教会でのクリスマス礼拝があり、その後に家族で過ごすクリスマス・ランチが控えています。私が「明日のクリスマスランチの準備は大丈夫?何か持って いきましょうか?」とエズマに尋ねると、「まだ何も考えてないの。でもいつものことだから何とかなるわ」と頼もしい答えが返ってきました。
家に帰ると、家族全員そろっての夕食。普段はそれぞれ独立して住んでいる娘達もこのときばかりは遠方からやってきて水入らずでのお祝いです。夕食の後、明 日のクリスマス・ランチの支度を皆でします。クリスマスランチは家族でお祝いするのが一般的ですが、様々な理由で家族でお祝いできない人達もいます。朝の クリスマス礼拝後、そんな友人達をいつも家に招待して毎年一緒にクリスマスランチを囲むのが習慣になっているのです。クリスマス・プディング、ロースト・ ビーフ、フルーツ・サラダなど、家族の中でそれぞれの担当が決まっているそうですが、種類も量もとても多いので大仕事です。娘さん達に「毎年たくさんの人 を招待するのは大変でしょ?両親に文句を言った事はない?」と質問すると、「両親が教師で、また熱心なクリスチャンだから、家にはいつも友達や学校の関係 者、教会の人達が遊びに来るの。小さい頃からそうだったから慣れているし、楽しいわ」とのことでした。今回は私もお邪魔しましたが、ここはどこ?と思うく らい様々な国の人達でいっぱいのクリスマス・ランチでした。
もう一人の友達デビーも、熱心なクリスチャンです。毎年クリスマスの朝には早起きして、前々から準備してあったショートブレッド、アプリコット・ボール、 ラム・ボールなどのクリスマスのお菓子をかごに詰め、前日に作ったグレービー・ソースをかけた七面鳥もきれいに大皿に盛って、ボーイズ・ホーム、ガール ズ・ホームに届けます。ここはいわゆるホームレスの子供達(12歳から18歳位まで)が暮らす施設で、親がアルコール・ドラッグ中毒だとか、家庭内暴力な どで、家庭でのまともな生活が送れない子供達が保護されています。オーストラリアに住んではいても、クリスマスの意味さえ知らないという子供がほとんどだ そうです。そんな子供達に少しでもクリスマス気分を味わってもらおうと手作りのクリスマスのお菓子、料理を毎年届けているのです。「本当はもっともっとし てあげたいのだけれど、なかなか出来なくて」と言うデビーはマリア様のようです。
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▲華やかなテーブルセッティング |
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▲ショートブレッドの出来上がり |
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クリスマス・ランチには、彼女のお母様、2人の姉夫婦、そしてご主人のお兄さんを毎年招待してお祝いします。私が、「末っ子のあなたがなぜみんなを招待す るの?」と聞いたところ、答えはいたってシンプル。「私はお料理好きだけど、姉達はお料理が嫌いなの。母はあと何年生きるかわからないから、母が生きてい るうちは大変だけどうちで頑張るわ」と。そんな頑張り屋のデビーの姿を見て、ご主人のジョージや3人の息子達は、ケーキを焼いたり、サラダやロースト・ ビーフを作ってくれたりと、とても協力的です。彼女のクリスマス・ランチのテーブル・セッティングは美しくため息が出るほど。家族のためにこんなにも頑張 れる彼女には頭が下がります。そして、夜は、友人達を招いてのクリスマス・ディナー。と言っても、たいていはクリスマス・ランチの残り物が食卓を飾るそう です。
日本ではクリスマスというと、恋人と過ごすロマンチックなイブや、クリスマス・プレゼントを思い出します。そして家族で過ごすのは、クリスマス・ケーキを 食べるときくらいでしょうか。オーストラリアの敬虔なクリスチャン達にとっては、もちろんクリスマスには特別の思い入れがあり、中でも家族で過ごすクリス マスが一番大事なようです。日本でのお正月に近いものなのでしょう。オーストラリアの家族の強い結びつきは、こうやって育まれていくのかもしれません。今 年のクリスマスはオージー風に家族を中心に過ごしてみませんか?
今回はデビーに教えてもらったショートブレッドをご紹介します。ショートブレッドはさくさくとした歯ごたえが魅力のビスケットですが、上から真っ白なお砂 糖をふりかけると、それでけでクリスマスらしい雰囲気に生まれ変わります。手軽に出来るので、皆さんも今年のクリスマスに作ってみてはいかがでしょうか。
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その27 新天地を求めて
2007年09月04日
その27 新天地を求めて ●お料理:チキン・ブリヤニ
ニュー ヨーク 9.11以降、「文明の衝突(ハンチントン)」と言われる、特に西欧(キリスト教)文明とイスラム文明の対立を原因とした事件が新聞の紙面を賑わしていま す。オーストラリアでも、多くの国民が犠牲になったバリ島爆破事件、レバノン移民との対立事件など、悲しい出来事が起こるようになってきました。日本に暮 らしているとイスラム教徒と接する機会も少なく、どうしても他人事のような気がしてしまいますが、ここオーストラリアでは、私達と同じように新天地を、そ して自由な豊かさを求めて、イスラム教圏出身の多くの移民達が暮らしているのです。
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▲2人の結婚式 |
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息子の友人のお母様として知り合ったRiffit(リファット)は、パキスタン出身のイスラム教徒です。家族は元々現インドに属する地域の出身でしたが、 宗教上の理由でパキスタンが分離独立した後、イスラム教国家パキスタンに移住しました。といってもそれは彼女が生まれる前のこと。リファットは家族の中 で、初めてのパキスタン生まれとなったのです。
もともと敬虔なイスラム教徒で信仰も厚い彼女は、母国での生活に特別な不満があったわけではありません。しかしパキスタンは、政治が不安定で貧富の差が激 しく、自分達の先行きに関して常に不安を感じていました。特に、結婚して子供が生まれ、子供達の将来について夫婦で真剣に考えるようになると、その不安は 増大していきました。そして家族で相談した上、まず最初に新天地南アフリカに移住することを決心したのです。
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▲一族の女性・子ども達 |
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医師であるご主人は、その専門性からコモンウェルズ(英連邦)内でのビザは比較的簡単に取得できます。最初に住んだ南アフリカの都市ダーバンには、イスラ ム教徒の大きなコロニーがあって、その中には立派なモスク(礼拝堂)もあり、異国といえども孤独を感じることはほとんどありませんでした。パキスタン時代 と比べると生活は豊かになり、子供の教育にもある程度満足していました。しかし、思った以上に治安が悪く、常に緊張を強いられました。家は地域の中でも安 全といわれる場所にありましたが、家の全てのドア・窓を常にしっかりとロックし、外出や就寝時には安全装置を必ずオンにするという生活。ご主人の仕事場 (病院)までは歩いて2,3分なのに、常に銃での襲撃に備えなければならない。子供達も外で遊ぶことはできず、車を運転するときには安全な地域に入るま で、決して止まってはいけない、等々。南アフリカでの生活は11年にも及びましたが、いつも危険を意識しなければいけない生活は最初に望んでいたものとは 遙かに隔たりがありました。そしてより安全なカナダ、オーストラリアへの移住を希望し、その結果ビザの許可が早く下りたオーストラリアに暮らすことになっ たのです。
彼女から聞くイスラム教徒の生活は、驚くことばかりです。イスラム教徒は豚肉を食べることを禁じられていますが、その他の獣肉もイスラム式に屠殺されたも のでなければ食べてはいけません。これはハラールフードと呼ばれ、南アフリカのコロニーでは、マクドナルドやケンタッキーにもハラールミートを使ったハン バーガーが売られていました。でも、オーストラリアではそのことを理解している肉屋は数少なく、探すのが大変なほど。来豪直後はハラールミートを扱う肉屋 を見つけられず、3ヶ月もの間肉類を食べることができませんでした。
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▲南アフリカでのひととき |
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また、家族のあり方も違います。特に感銘を受けたのは、彼女のご主人に対する思い、接し方です。日本人や欧米社会に暮らす女性には賛否両論だと思います が、一口に言うと昔の日本女性のようです。ご主人は家長であり外で大変な苦労をしている。だから家の中のこと、家事一切は妻である自分の仕事。夫に手伝っ てもらうなどとんでもない。また夫の家族を自分の家族以上に大事にすることは当然であり、結婚をすると夫の両親、兄、弟の家族と一緒に大きな家族として助 け合って暮らすことが一般的。自分の両親は、自分の兄、弟が同じように面倒を見るので問題はない。特に義母を敬い、義母に尽くすことは夫への愛情につなが る、と。ご主人への強い愛情を感じさせます。そういう彼女に、教義上許されている一夫多妻制に関して聞いてみました。「ご主人が奥さん達を経済的にも愛情 面でも、全てイコールに扱えるという条件の下でなら許されるわ」とのこと。実際には、彼女の周囲にもあまり例はないようです。最初の奥さんとの間に子供が できなかった弟だけが2人目の奥さんをもらった、とのことでした。「自分の子供、家族のことを何よりも優先するのが女性達の一番の勤めなのよ。」 イスラ ムの女性の生き方に全面的に賛成するわけではないのですが、大学で生物学を専攻したインテリな彼女がそう熱く語ると「そういうものか」と納得してしまうの も事実です。
オーストラリアでの暮らしは8年になります。安全性や豊かさ、子供の教育の面など、本当に満足して生活しています。しかし、そんな彼女にとって「今はとて も苦しい時期だ」とのことです。敬虔なイスラム教徒である彼女は、当初ベールをかぶりそれと分かる服を着ていました。しかしアメリカでのテロ事件をきっか けにオーストラリアでも周囲の目が厳しくなり、買い物をしていても「あなたはどこの国からきたの?イスラム教徒なら言いたいことがあるのだが・・・」と呼 び止められることも一度二度ではなくなりました。その他様々な嫌がらせを受け、いたたまれなくなった彼女は、イスラム教徒とわかる服を着ての外出をしなく なり、また自然と学校行事や社交の場に出ることを控えるようになりました。彼女の息子も同様で、私の息子に「君は日本人だから言うけど、ボクがイスラム教 だということを他のオージーの友達には絶対内緒にしておいてね」、と苦しい胸のうちを話したそうです。彼女もそれが辛く、「子供達がイスラム教徒であるこ とを隠し、誇りに思えないことがとても辛く悲しい。私達はテロリストではないのに・・・」と寂しそうに話してくれました。
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▲オーストラリアでの自宅にて |
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▲食欲をそそるチキン・ブリヤニの出来上がり |
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彼女と話していると、「私達の国では・・・、文化では・・・、宗教では・・・」という言葉が繰り返し出てきます。その言葉を聞く度に、彼女の強い信念を感 じずにはいられません。しかし異国の地であっても、イスラム教徒としての生活習慣、考え方を貫こうとするその態度が、移民先の国々で現地の人々から強く批 判されているのも確かです。逆に、彼女からは、「日本はアジアのリーダー的存在であり、力を持った国なのに、どうして自分の国、文化に誇りをもたず、西欧 社会にばかり媚を売るの?」と聞かれました。平和な日本に育ち、他民族との紛争や貧困などの問題に悩むことなく生きてきた私には、彼女の疑問に対する明確 な返答はできませんでした。しかしだからこそ、オーストラリアで出会うことのできる、様々なバックグランドを持つ人々との貴重な出会いを大事にし、彼らの 言葉に耳を傾けたいと思うのです。
今日はパキスタンなどイスラム教圏の代表的料理チキン・ブリヤニをご紹介します。日本のお赤飯のように、元々はお祝いの席のために作られるそうですが、今 では気軽に家庭の食卓にのぼるそうです。
| チキン・ブリヤニ(Chicken Biryani) | |||||||
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■ 材料 |
■作り方
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その29 ゲイとして生きること
2007年09月04日
●お料理:ラムカレー
オーストラリアに住むようになるまで、私のゲイに関する知識や関心は貧弱なものでした。せいぜい友人から聞いたゲイ・バーのことや、テレビのバラエティ番 組に出演しているゲイの映画評論家ぐらいしかイメージにはなく、それもその特徴的な話し方や衣装など外見上のことだけが気になっていて、何か現実離れした こととしか感じていませんでした。きっと大方の日本人は私と同じ思いではないでしょうか。
しかしケアンズに住むと、「うちのお隣さんはゲイカップルなの」、「ボクのお父さんゲイなんだ」「シェアメイトにはゲイが安全よ」などといった会話が日常的 に聞こえてきます。またシドニーで年一回開催されるマルディグラは、ゲイの一大イベントとして世界的に認知されるようになってきました。元々は彼らの人権 (human rights)を求めての抗議行動が始まりですが、今では一般の人も楽しめるイベントになっています。ある意味でオーストラリアはゲイに関して寛容で自由 な国なのでしょう。そして私も、カミングアウトしたゲイたちと普通に知り合うようになると、ゲイという人たちをより自然に自分の中で受け止められるように なってきたのです。
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▲お気に入りの自宅プール |
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熱 帯植物に囲まれたジャングルの中のような家に住むハワードと彼のパートナーのティムとは、友人のパーティで知り合いました。その後仲良くなって彼らの家に 招待されて驚きました。私の自宅のすぐそばなのに、まるでバリ島のリゾートホテルのよう。センスの良い調度品とプール周囲の洗練された雰囲気、そして意表 をつく室内の色彩など。プロのインテリアデザイナー顔負けなのは、彼らがシドニー出身だからでしょうか。今では穏やかなセミリタイア生活を送っている二人 ですが、色々な話を聞き、いわゆるマイノリティゆえの苦しみを知ることになりました。
リタイアした年齢とはいえ、今もハンサムでインテリなハワードは、敬虔なクリスチャンの家庭に育ちました。お父様は大学教授。そんな堅い家庭であったから こそ、自分がゲイであることに気づいた思春期は悶々とした日々を過ごしました。もちろん友人にも家族にも相談することはできません。「今振り返ってみると 『自分はゲイであってはならない』といつもに自分に言い聞かせていた」と。大学を卒業し高校の教師として働き始めてからも、周囲から何の疑問をもたれるこ ともなく、当たり前に結婚し家庭を持つことを期待されていました。そして結局、自分の意思に反しながらも、弁護士の女性と結婚したのです。その後息子も一 人生まれました。しかしそんな仮面の結婚生活はもちろん長く続かず、奥さんは息子を連れて出て行きました。
このことが契機となり、「これからは自分を偽らず、自然に生きていこう」と決心し、両親に自分がゲイであることを伝えました。両親、特にお父様はひどく驚 き傷ついたようですが、ハワードが教会のメンバーに真実を告白したとき、非難の矢面に立った彼を弁護してくれたのもお父様でした。「自分がゲイであること を素直に受け入れてくれた両親には、心から感謝している」とハワード。
「ゲイであることで、何か辛かった事はある?」と聞いてみました。「シドニーの私立高校で教師をしている時、ゲイであることが問題になって、一部の父兄が 学校側に自分を解任するように求めたんだ」と。今から15年以上も前のまだまだ保守的だった時代のことです。彼自身「仕方がないこと」と解任を受け入れま したが、彼の解任を阻止しようと父兄の応援団ができ、学校側と対決してくれたのです。この時は、「本当にありがたかった」と。現在のオーストラリアではゲ イであることをカミングアウトしている教師も多くなってきました。子供を持つ何人かの友人に意見を聞いたところ「その教師が子供にとって良い教師であれ ば、ゲイであろうと関係ない」とコメントするオージーがほとんどだったのは、時代の変化を感じさせます。
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▲植物園のような庭で |
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パー トナーのティムにもまた辛い過去があります。ヘアードレッサーの彼は、小さい頃からゲイであることを家族に告げていました。妹の一人もレズということなの で、「もしかしたら遺伝子に組み込まれているのかな?」とティム。7人兄弟の大家族に育った彼は、小学校から寮に入りましたが、高校の頃からクラスメート との関係が難しくなり、何回も学校を替わることになりました。高校卒業後は美容師になり、雑誌にもよく登場するシドニーの有名なヘアーサロンで働きまし た。その後、ロンドンのヴィダルサスーンで2年間勉強し、美容師として常に華やかな世界に身をおくことになりました。ティムは、そのファッショナブルで繊 細な雰囲気から、すぐゲイとわかってしまいます。そして、それが災いし、ある日大変な事件に巻き込まれてしまうのです。
ある晩、シドニーの通りをひとりで歩いていると、いきなり数人の反同性愛者の男たちに囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けたのです。意識を失い、その次に目が覚 めたのは6週間後、病院のベッドの上でした。一命はとりとめたものの、この時の暴行で後遺症が残り、障害者になってしまったのです。リハビリのおかげでな んとか歩けるようになるまでには回復しましたが、歩き方が不自然なため、街を歩いていると酔っ払いか麻薬中毒者に間違えられ、警官にたびたび呼び止められ て職務質問をされるのです。そのたびに障害者手帳を見せ、自分の障害を説明しなければならない。これは本当に屈辱的でした。自分が悪いわけじゃないのに。 もちろん、美容師として働くことも、断念しなければなりませんでした。それでも何か社会のために役に立ちたいと考えたティムは、その後数年間ボランティア として、お年寄りの買い物の手伝いや食事の世話をしたり、HIV感染者を助ける団体で働きました。そこで偶然、同じ様にボランティア活動をしていたハワー ドと出会ったのです。
二人はセミリタイアという形でケアンズに移り住んできました。シドニーに比べると人々がのんびりとしていて優しく、とても暮らしやすいそうです。シドニー 以上に友人もたくさんでき、「週末はいつもパーティに招待されるので忙しい」とうれしい悲鳴をあげています。
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▲ラムカレーの出来上がり |
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彼 らと話していると、何故かとても優しい気持ちになります。おしゃべりしていて心から一緒に楽しめる素敵なカップルです。日本で生まれ育った私は、最初は彼 らに戸惑い、またある種の偏見を持っていたのも事実です。しかしゲイであろうがストレートであろうが、人間として付き合う場合、結局はその人の人間性にか かっているのだと強く思うようになりました。一人の人間としてもがき苦しみ、数々の試練を乗り越えてきた彼らは、人に対して思いやりがあり、とてもあたた かいのです。実は今回ご紹介するラムカレーの他にも、彼らは別の料理も考えてくれていました。「日本人は余りラムを食べないと聞いたから」だそうです。こ こまで気をつかってくれたオージーはこれまでいませんでした。彼らの優しさにふれた気がしました。
彼ら特製のラムカレーには、ココナッツがたっぷり入っているので、臭みもなく日本人の友だちにも大好評です。是非新鮮なラムを使って作ってみてください。
| ラムカレー(Lamb Curry) | |||||||||
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■ 材料 調味料: |
■作り方
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