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ナマコ

2007年09月10日

1.トレス海峡のウオリアー島で、ナマコを処理する地元島民

2.グリーン島を出発したナマコ漁船。1931-32年

3.1890年に発行されたクイーンズランド州の産業報告書にも、ナマコのことが記載されている

 

 ケアンズが正式に港として認定されたのが1876年。その後、ファーノースと呼ばれるこの地域一帯には、金、木材、砂糖、鉱山など様々な産業が栄えました。
が、実はそのずっと前から、ここには知る人ぞ知る産業があったのです。
それが、ナマコでした。グレートバリアリーフに囲まれた温かなケアンズ近郊の海は、中国で買い手に事欠かないナマコの産地で、古くは1600年代からインドネシア人が危険を犯してまで当地に赴き、ナマコを捕っていたという記録があります。
1803年8月17日、オーストラリアの海岸線を海図に記していたマシュー・フリンダーズの船がリーフで座礁し、その際に乗組員がナマコを発見。翌年に捕獲を始めました。
また、ケアンズという町が興る約50年前、1827年には、10トンものナマコがティモールのKupangで最高値で売られたと記されています。

グレートバリアリーフのほとんどの場所と海岸線沿いで捕れるナマコは、新鮮に保つために、捕れるとすぐにおろされ、内蔵を取ってきれいにすると燻されました。
この臭くて人が嫌がる仕事は、安くで雇われたアボリジニやトレス海峡の島民たちが担当したそうです。
当時はフィッツロイ島やフランクランド島など、グレートバリアリーフの島々にナマコの処理場がありました。
当時は観光客が来ることもなく、ひっそりとしていたグリーン島に、J.S.V. Mein社によって、小工場が作られたのは1858年のこと。
1873年、1874年には白人スタッフがアボリジニに殺され、船を奪われるなど、いくつかの悲劇に見舞われてしまいます。
原因ははっきりしませんが、アボリジニ労働者に対する不当な扱いが殺人につながったのでは、という説があります。
この時のナマコの漁師の中には、ヨーキーズノッブの名前の由来となった、イギリス、ヨークシャー出身の、通称ヨーキーがいました。グリーン島の世話人として知られた彼は、後年、グリーン島でアボリジニに殺された幽霊の恐い話を人々に語ったと言われます。
事件もあり、グリーン島のナマコ工場の業績はその後もあまり振るわなかったようですが、後年、タウンズビルという町の名前になったタウンズ船長が引き継いで、ニューサウスウェールズ州に住む中国人への商売を始めて成功を納めました。
その後ナマコの価格は更に上昇し、中国や香港への輸出が始まりました。
中でも13隻の船で450人もの人を雇っていたクックタウンが産業の中心地となり、1881年からの2年間の年間輸出量は3万パウンドにも及んだそうです。
20世紀になると、政府が先住民の雇用や、価格について規制を設け始め、ナマコ産業は次第に静かになっていったのでした

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教育と綿の栽培で実績を残した博士

2007年09月10日

記事と直接の関係はありませんが、ケアンズ周辺の学校の写真をご紹介します。

1.クックタウンのセントメアリー修道院1905年

2.ケアンズセントラル州立小学校。1909年。当時603名ほどの生徒が通学。現在は取り壊され、オアシスリゾートが建っている。

3.ケアンズ州立高校1920年。(94年に焼失)

4.エッジヒル学校(後のケアンズノース学校)1918年

5.ケアンズで初めての学校でエスプラネードにあった。1883年。 

 

 今回は、カラボニカ(Caravonica)小学校の名前に縁のある、デイビッド・トマティスについてお話します。
イタリアからの移民であり、オーストラリアで教育を受けた後、タウンズビルでグラマースクールの校長となった、トマティス氏。
彼がケアンズに来たのは1884年の10月、ケアンズの港が開港した数週間後のことでした。
フレッシュウオーターに1000エーカーの土地を借り受けたのですが、この頃、洪水やサイクロンなどで、近くのスミスフィールド村は消滅。
それでも、ケアンズの将来性を感じたトマティスはこの地に残ることにしました。
彼は、科学と農業の博士でした。その知識を使って、自分の土地に、米、ココア、コーヒー、ナツメグ、クローブなどを栽培します。
土地は、彼がファーノース地区に移住してくる前に亡くなったと言われる妻、ベロニカから取って"カラボニカ"と呼ばれました。カラは、イタリア語で愛、ボニカはベロニカを短くした言い方です。
(カラボニカ州立小学校の名は、トマティス氏の教育における功績を讃えて付けられたものと思われます。   実際、彼は1886年頃、エスプラネードにグラマースクールを、現ホワイトロックとエドモントンの間に小学校を開設しました。)
その頃、中国人の移民が綿の栽培を試みており、現在ストックランドショッピングセンターになっている所には、ホップワープランテーションと呼ばれる農場がありました。結局、綿の栽培は失敗に終わり、この土地はサトウキビ畑になります。
この後、農業の権威でもあった彼は、自ら綿の栽培に挑戦します。
そして、ホップワープランテーションからの原料となる野生植物と、ペルーやメキシコから取り寄せた種を掛け合わせ、丈夫なコットンを作ることに成功したのです。
このコットンのサンプルは世界中に送られ、アメリカ、インド、イタリアなどから、種の注文が次々と入りました。
彼は綿を栽培するために、更に広い土地を耕し、綿繰り機を輸入して、産業の発展に努めました。
しかし、この頃には、綿に変わって砂糖が大きな産業に成長していきます。
1908年、彼のコットンがフランコ・ブリティッシュ展覧会で名誉賞を受賞した翌年、カラボニカは、綿の栽培を続けると言ったドイツの会社に売却されました。
オーストラリアで全ての夢を叶えることができなかった彼は、この後イタリア、そしてメキシコへと旅発ったそうです。
現在、彼の名は、キャプテンクッ・クハイウェイの下を流れるトマティスクリークと、カラボニカという地名に見られるだけとなりました。
今となっては、この土地で、世界的に認知された綿が栽培されていたことを知る人は、ほとんどいません。

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岩田軍医のお箸

2007年09月10日

 クランダに住んでいた豪州軍の一指揮官であった退役軍人に、松本先生が軍刀とともに譲ってもらったお箸。[ニューギニヤ上陸記念 岩田 昭和十八年九月三日]の彫り文字が見られる。ブラックパームという木でできており、まだ日本軍が優勢であった頃、軍医であった岩田氏が手慰みに小さなナイフを使用して自分で作った物と思われる。
先の退役軍人が語ったところによると、その後日本軍が劣勢になり、捕虜に取られるのを苦とした岩田軍医は隊員の首を刎ね、最後は自らの命を絶ったとのことである。ただし、「軍刀の切先の刃こぼれの状態からすると、野戦病院にいた負傷者が寝ている間に軍医が刺し殺したのではないか」と松本先生は推測する。

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日章旗の寄せ書き

2007年09月10日

 25年程前、松本先生がゴードンベールの元従軍兵士から譲り受けた日章旗。ニューギニアから持ち帰ったものだという。旗とともにもらった日本刀がとても良い刀だったことから、持ち主は将官レベルの方であったと思われる。  当時、戦地に赴く兵士のために、知人が旗に寄せ書きをするのは珍しいことではなかった。この旗には、「矢部大作君」「禧武運長久」「東京市大森区大森八丁目4035興亜製作所 渡辺正夫」「砕身奮闘」といった文字が見られる。

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日本軍の爆弾の一部

2007年09月10日

 ダーウィンが日本軍に爆撃された時に残された爆弾の一部。「飛行場に務めていたオーストラリア人の知り合いが、倉庫の屋根裏の修理をしている時に突然爆撃が始まって、命からがら逃げた、と話していた」と松本先生。1942年2月のことである。真珠湾攻撃のように、まったく不意打ちの攻撃だったのだ。
この爆弾のテールは、キュランダに住んでいたある人がわざわざダーウィンから持ち帰ったものだ。

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特攻隊員が身に付けていた短刀

2007年09月10日

 ある侍がお城に途上中、馬ごと堀に落ちてしまったのに、かすり傷だけですんだ。そのとき、その侍が持っていたお札が「サムハラ」で、以降、危険な目に会わない安全のお札として定着していったと言う。
松本先生の知り合いがシドニーで見つけたこの短刀にも「サムハラ」の字がしっかりと彫られている。戦地へ赴くにあたって造らせたものなのだろう。首から下げるようになっており、こうしたお守り刀は戦争中、兵士のために主要な神社で売られていた。この「サムハラ」を身に付けていた特攻隊員の安否は今は知る由もない。

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陣中電話

2007年09月10日

 ある豪州兵がニューギニアから持ち帰ったもの。九二式野戦用有線電話機と呼ばれ、昭和7年に制定され、終戦の年まで、現在エレクトロニクス業界の大手メーカーが製造していた。戦場での味方同士の連絡に使われ、電話機同士は電線でつながっていた。双方向通信はできないので、レバーで送受信を切り替える。副受話器は戦闘中など騒音のひどい所で両耳に当てて使う場合と2名で聞く場合を想定して付けられている。
写真左はオーストラリア製の陣中電話。受話器や全体の造りを見ると、日本の電話より技術が発達していたのがうかがえる。

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日本刀

2007年09月10日

 この刀は、松本先生の知り合いの、豪州軍軍医であった人から授かったもの。
ボルネオで行われた降伏調印式が終わった際、そっと1本持ち帰ったものだという。軍医だった彼は、治療で使う糸と針、そして包帯で袋を作り、その中に刀を隠して豪州へ帰る船の中でもベッドのマットレスの下に置いて運んで来た。
よくみると袋には血の後も残っている。グリースをぬぐい取ったらきれいな刀であった。フサの色(青と緑)からすると、将官クラスの人の持ち物であったことが伺われる。

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千人針

2007年09月10日

 写真はニューギニア、ラバウルの捕虜収容所から集められたもの。千人針は出征兵士が無事に帰還できることを祈って作られたもので、国防婦人会が中心となって街頭に立ち、通行人に頼んで千人の人から一針づつ縫い付けてもらい、兵士に贈ったと言う。五銭コインが縫い付けてあるのは、弾避けの願いとともに、五銭(ごせん)は「死線(しせん〜四千)を超える」という願いがこもっているため。この千人針は血に染まっていないから、持ち主には、願いが届いたのかもしれない。

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家族写真

2007年09月10日

 今回ご紹介するのは、静岡からお越しの山本さんの感動のストーリー。オーストラリアでも、全国紙やテレビで取り上げられた。

話は山本(旧姓 芹澤)節子さんが10才の時、出兵する叔父様と一緒に撮影した記念写真に始まる。
「生きては帰れないから家族写真を、ということだったんでしょうね。当時18才だった叔父は、一緒に住んでいたこともあって私を可愛がってくれてました」
山本さんは、最後のお別れの面会のことも鮮明に覚えている。
「祖母と一緒に行きました。人参を刻んだものを巻いたのり巻きなど、折に入れた料理を持って。当時できる精一杯の御馳走だったんでしょう」
その後、出征した叔父様は、ニューギニアで消息を絶ってしまう。

ジャングルに逃げて行く日本軍が去った場所に、引き裂かれた家族の写真があった。前日は雨だったのに、濡れることなく残っていたと言う。
あるオーストラリア人兵士が、この写真を拾い、一つ一つをつなぎ合わせ、一枚の写真として50年にも渡って保管していた。
この写真こそが、山本さん一家の記念写真だった。その後、ブリスベン在住の日本人女性、ケアンズの松本氏を経て、邦人誌に載った記事を読んだ九州在住の方が、写真に写っている小さな名前だけを頼りに日本全国を探すという驚きの展開。ついに、この1枚は奇跡的にご一家のもとに返ることになった。
「ちゃんとしたお葬式もしていない私たちとしては、この写真が本当の遺品のように思えました」
山本さんは、写真を取っておいてくれた方に会ってお礼をしたいと夢にも見るほど強く願うようになり、今回それが実現したのである。
ビルさん(91)、セイラーさん(85)はともにお元気で、まさか見つかるまいと思っていた写真の主がわかったことに驚きを隠せなかった。
「お互いに泣いてしまう程、劇的な対面でした。日本人は敵だったのに、お孫さんまで呼んで歓迎して下さり、私達は皆家族だ、とおっしゃって下さって」
国同士の戦いであって、個人は殺し合いたくなかった。敵であっても家族がいるのだ…と思うと写真を捨てられなかったのだという。
「保管して下さったのはもちろん、骨を折って探して下さった方々もいらした訳で…人間って捨てたものじゃないなと思います。本当に感謝しています」
「家族の心の中では、まだ戦争は終わっていないのです。歴史を風化させず、若い人々の犠牲があってこそ、今の日本があるということを覚えておくべきではないでしょうか」。

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葉書

2007年09月10日

 海軍の軍刀とともにケアンズで見つかった軍事郵便。フィリピンの派遣部隊から濠北派遣部隊宛に投函されている。なぜケアンズから出て来たのか、今となっては知る由もない。

濠北派遣鯉第五一七三部隊本部

桶口教官殿

拝啓 久しく御無音に打ち過ぎ致して居ります
教官殿御健在でありますか 自分事益々元氣
旺盛として御奉公に邁進致して居ります
故御休心の程御願ひ致します
次に自分事 現在 當部隊に在ります
る事御報告申し上げます
大政本兵長への例の件確實にお届け致
しました では失禮致します
教官殿の御健在をお祈り致します
   敬具

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野砲照準器

2007年09月10日

箱に収めて携帯していたと見受けられる、野砲の照準器。砲弾を発射させる前に標的の位置を確認するために使われたものと思われる。

ミッションビーチの人から松本師範が譲り受けたもの。箱の扉の内側には緻密な作りのドライバーなども備え付けられている。

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サーベル

2007年09月10日

 1886年頃、日本初の騎馬兵が使ったとされるサーベルは、馬に乗りながら扱うために長い。 日露戦争にも使われたこの刀は、どうやら第二次世界大戦でも依然使われていたようである。
ニューギニアのラバウル捕虜収容所から集められたのが写真右のサーベル。
左は、中国製で、日本のものをほとんど模倣したのがわかる。日露戦争での日本の奇跡の理由を、このサーベルにも見たのだろうか。

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軍票

2007年09月10日

 日本軍がフィリピンを支配したときに発行した紙幣(軍票)。
「THE JAPANESE GOVERNMENT」と書いてあるが、貨幣の単位はペソだ。戦前はアメリカ系の自治国であったフィリピンに、『アジア解放のための戦いだ。日本軍が先頭になって闘うから、フィリピンの人々も協力してくれ。』と日本軍が侵攻する。
しかし40年間アメリカ型の民主主義教育を受けたフィリピ人には、天皇崇拝は結果的に全く受けいれられなかった。1942年5月、日本軍は緊急紙幣流通禁止令を出し国内を大混乱させ、軍票を乱発してフィリピンの貨幣経済を破壊した。3年間に物価が100倍になり、円・ドル・金と交換できない軍票は『おもちゃ』と呼ばれたと言う。

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日本上陸記念

2007年09月10日

 ニュージーランドで見つかった小さな記念品。上に穴があるのは、チェーンを通してネックレスにしたのだろうか。富士山、塔と言った日本的な彫り物が施され、裏には In Memory of Landing in Japan 1946 とある。
戦後、占領軍が日本に降り立った時に配られたものと見られる。
占領軍と言うと、マッカーサー率いるCHQをまず思うが、1946年2月から中国・四国地方はアメリカ軍にかわって英連邦占領軍(イギリス、オーストラリア、 ニュージーランド、インドから派遣。主力はオーストラリア軍)に支配されていた。
多い時には人数が約37,000名に達していたと言う。同軍は作戦上は連合国軍最高司令官の指揮下におかれながら、独立した軍団として存在した。この記念品は、元英連邦占領軍がニュージーランドに持ち帰ったものかもしれない。

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2007年09月10日

  第二次世界大戦中、日本軍の捕虜施設があった、ラバウルに勤めていた元豪州軍より、受け渡された手ぬぐいの数々。
勤務先で、捕虜だった日本軍人と仲が良くなり、これらの絵をもらってきたのだという。1946年とあるので、戦後捕虜に取られていた際に描いた物だろう。
手ぬぐいが足りなくなったのか、包帯に描かれたものも。ラバウル富士や、日本の女性といったモチーフと共に雅号"佳心”が。捕虜の生活には多少余裕があったのだろうか、と想像させる品である。

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旧軍刀

2007年09月10日

  明治維新の後、日本政府は西欧諸国に追い付こうと、陸軍はフランス、海軍は英国方式を採用した。士官の軍刀も従来の日本刀の外装を変え、サーベル式を採用し、古来の日本刀身を仕込んだ。これを旧軍刀、という。
写真の旧軍刀、1904年の日露戦争に使用。この凱施した士官の孫が、第二次大戦中召集され、出征する事になった。彼は祖父の旧軍刀の刀身を98年式軍刀拵に再使用(新軍刀)。新しい外装が完成し、イザ出征、という時、終戦になった。以来この未使用の新軍刀は、戦後60年以上そのまま眠り続けた。
刀身は天和年間(1681-1683)の物。私はこれを今年、偶然に入手する機会を得た。衣装2つに体は1つ。由来のあるこのような品が豪州に住む私の手元にまでやって来る時代になった。戦後は歴史という大きな流れの中に、否応なく、流され始めたようだ。

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特攻鉢巻きと自決用短刀

2007年09月10日

 大戦中、陸海軍を通じ、特攻で死んだ人達は6千を越える。軍の無謀でずさんな作戦計画で、消耗品のように死に追いやられた。戦後、これらの人たちは、米の占領政策と180度態度を急変させたメディアを媒体として、戦争犯罪人とか無駄死と決めつけられた。若者達は軍の為でも天皇の為でもない。彼らの本当に大切な人、家族、恋人達を守る為に死んだ。軍の方針、米の占領政策、特攻の若者達と巻き添えで死んだ民間人の現代史が分かると、戦争が本当に嫌になる。

血染めの特攻の鉢巻き。特攻隊の自決用短刀は、朴の木の白鞘で作られ、ハバキも金属ではなく、木製だった。この短刀は白鞘の作りが違うので、特攻隊員のものではない。鉢巻きの、神風、の字体が、私には何やら現代の印象をうける。本物であればいいのだが。

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KokodaからのWallet

2007年09月10日

 豪州に住む日本人に、知っておいてもらいたい地名がある。ココダ・トレイル。1942年、珊瑚海海戦とミッドウェー作戦の失敗で制海権を失った日本は、PNGの北部、ブナ地区に上陸し、オーウェン、スタンレー山脈を越えて、ポート・モレスビーに背後から迫る作戦に出る。
ココダ村からオワーズ・コーナーまでの山越えの難所200kmを、ココダ・トレイルと呼ぶ。豪州人にとって第一次戦ではガリポリ、第二次戦では、ココダと、彼等のナショナリズムを刺激する地名なのだ。
この手作りのサイフ、激戦地ココダから生還したDiggerから入手した。サイフの中に、祝入 、柴田和男君、と書かれた小旗。サイフの上には、撃ちてし止まん、のスローガンの刺繍がある。友人からの送別の品、かと思う。ニューギニア戦では、12万人以上の日本軍兵士が死んだ。これはケインズの人口に匹敵する。

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ゼロ戦13ミリ機銃弾

2007年09月10日

「そのゼロ見つけた時、ウソじゃネエかと思ったゼ」 ジャングルの隙間に、ポッと空いたような草原だった。ゼロ戦は、胴部や翼にアチコチ穴が開いていたものの、ほぼ全型を留め、まるで滑走路に待機しているかのように機首を空に向け、眠っていたという。
ニューギニア北部のウィワックで、戦闘機を集めていたヨ、という妙な男と知り合ったのは、もう25年も前になる。多分被弾したゼロ戦が、草原を見つけて不時着したのだろう。パイロットはどうなったろうか。その男の持っていた日本刀を見てやったので、そのゼロ戦に残っていた機銃弾を御礼にくれた。31年前、ニューギニアが独立した時、彼の集めた戦闘機は、「全部アイツらに取られちまったゼ」 写真の実弾は、ゼロ戦63型13ミリ機銃弾。一つは薬莢部の腐蝕がひどい。持っていると危ないかな、とチョット心配。

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ドクターの軍刀と刀袋

2007年09月10日

ドクター、シリル・スウェインは第二次大戦中、豪州軍軍医としてボルネオにて参戦。その折、捕虜になっていた日本軍将校の傷の手当をしたという。

その男、英語が少ししゃべれた、というから、たぶん学徒出陣兵だ。終戦になり、その将校と別れる時、彼は泣いて別れを惜しみ、彼の軍刀をドクターに送ったという。
ドクターは豪州への復員船の中で、病室の包帯を傷口を縫合する手術針で縫い、刀袋を作った。軍刀は当時の姿のまま、私の手に渡るまで、戦後を眠り続けた。
写真は日本陸軍九八式軍刀。柄頭の刀緒の色で、官位が識別出来る。この刀緒は茶色と青。尉官の持ち物だ。

袋の端の方には、今でも血痕がハッキリと残っている。この尉官、生きていれば80才と少し。あり得る話だ。

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vol.45「なんで海外に住むことになったのか?」

2007年09月10日

7月に伊豆に行ってきた。伊豆で潜るのは10年以上ぶりだったが、約2週間毎日温泉・講習・ダイビングと満喫してきた。ケアンズに来て以来、仕事はオーストラリアが舞台と突っ走ってきたけれど、今回チャンスがあり日本での仕事となったわけである。いわゆるインストラクターの逆輸入。

40歳を過ぎケアンズに住んでダイビングの仕事をしているなんて20年前には想像していなかった。そもそも海外に住もうなんて考えは全くなかったわけで、人生とは不思議なもんである。こうなった原点を思い出してみると、全ては大学に入る前に行ったセブ島ホームステイにある。その当時、セブ島と聞いてもどこの国かも知らず、とんでもない無人島に行くような気がしていた。スーツケースの中にはトイレットペーパーまで入っていたような覚えがある。今考えるととんでもない無知で偏見があったと恥ずかしいばかりだが、初めての海外旅行でもあったので結局トンチンカンな準備をして出かけていった。
その旅行は、「アジア自然塾」と言う団体が主催したもので、普通のパッケージ旅行とは違った。参加者は全て小学生が中学生。いろいろな問題を抱えた子供たちが海外の異文化に触れて何かを感じ取ってもらおうと企画されたものである。そんなツアーに、何も学校でも家庭内でも問題のなかった(たぶん・・)僕を母親が参加させてしまったのである。1週間あまりのホームステイであったのだが、少し年齢が高かったため僕とツアーリーダーは1軒の普通の家に泊まることになった。普通と言うのは、他の子供たちはフィリピンの非常に貧しい家族に振り分けられていたからである。キッチン・ベットルーム・ダイニングが全て一部屋で収まっているような家も多かったような気がする。玄関なんかは、腰をかがめないとは入れないようなところも多くあった。そんな中、僕が泊まった家はもともと地主の家系で、部屋もちゃんとベットもあり、シャワーやトイレなども何の不便もなく出来た(ただし、水は自分で汲んでこなければいけなかったが)。その家の両隣、向かい全てが親戚である。そこの娘さんが今の嫁である。母親にしてみれば、軽い気持ちでプレゼントした海外旅行だったのかもしれないが、僕にとって見ればそれが初の海外であり、カルチャーショックであり、出会いであり、そしてダイビング触れることになるきっかけでもあった。

そこから始まった日本国外への興味が、大学の休学・結婚・ダイビングへと続いていくことになり、気がつけばオーストラリアへの移住となったわけである。1年休学中にセブ島に住み、ダイビングのインストラクターまで取得し大学へ復学したときには、週末は全てインストラクターの仕事で明け暮れた。大学の就活なんかは無縁、教授には「退学したらフルコースやな」とまで言われていた(ちなみに浪人・休学・留年をしていたからである)。理系の大学を出ながら、卒業名簿の就職欄にはサービス業なんて書いてある。

ケアンズでワーキングホリデーの人を見ていると、昔の僕と同じような経験をしているんじゃないかなと思ってしまう。ワーホリの1年が、その後の人生のどれだけを占めていくのか。

僕の場合、そこから始まった海外生活は合計20年ほどになる。人生の半分だ。日本に帰るときは帰国と言うよりも海外旅行といった感じのほうが強い。渋谷に行っても道頓堀に行っても、完全に外人である。

写真は、大阪ミナミの法善寺横町。もちろん昔住んでいたころに行ったことがあるはずなのだがその記憶がない。知人に連れて行ってもらったのだが、ここで食った串焼きは最高だった。入り口のすぐ前の角にある4人も入ればいっぱいになる立ち飲みバーもかなり感動。バーマンのお兄ちゃんはオーストラリアに行ったことがあるらしく、ちょっと会話が弾んだ。

オーストラリアに住んでいるのは仕事のためである。どこまでこの仕事でやっていけるのかを試しているだけだ。海外で長くいればいるほど日本のよさが見えてくる。これからはケアンズに住みつつ、その日本のよさを楽しめるようなライフスタイルにできればいいなと考え中。永住権はとったけど、僕は市民権は取れないなぁ。どうしても日本のほうが好きだから、日本人でい続けるんだろうなと。そんな感じでオーストラリアと日本を移動中のダイビング小僧である。

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その24 マイホーム

2007年09月05日

●お料理:ラミントン

日本でも景気の回復に伴って、都内の高層マンションの売れ行きが良いとか。特にIT関連企業や株長者の若い人たちによって、高価な不動産物件が購入されていると聞きます。

ケアンズでもここ数年、ミニバブルとでも呼べるような不動産ブームが起きていて、サトウキビ畑がどんどん宅地に変わってきました。このブームを支えてい るのも、やはり若いオージーたち。

とはいっても、仕事に追われ忙しい日本人と比較的時間に余裕のあるオージーとでは、“マイホーム”にかける情熱、思い入れがかなり違うような気がしま す。

高校を卒業すると同時に実家を出て独立し、結婚して子供ができるまでノンストップで働いてきたという友人のミシェル(Michelle)は、自分の意見 をはっきりと主張し、強い意志を持ったたくましい(?)オージー女性です。

 
 

▲プレイグループのメンバーと一緒に

 
 
 

▲夫婦でデザインし造園した前庭

   

 時 にはふたつの仕事を掛け持ちし、自分の夢をかなえるためにひたすら頑張って働きました。ご主人のマイク(Mike)と結婚する時には、「△年後にはまず小 さな家を持ち、○年後には子供を持とう。そして次にはさらに大きな家を建てよう」と将来の生活設計をしっかり話し合いました。

そしてその通りに夢を実現させていったのです。昨年、30代前半でありながらオージーの夢のひとつであるエーカーハウスを手に入れました。

「私はラッキーだわ、主人が“good worker”だから。働くのがキライで、パブ通いばかりして酒びたりというオージー・ガイも多いからね」とノロケを聞かされましたが、自営業のマイクは この十年間まとまった休みを取ったことがないというほど(オージー男性には珍しい?)働き者です。

そんな頑張り屋のふたりが、しばらく熱中していたのが、「マイホーム」。仕事や育児・家事以外は、寝る間も惜しんで「マイホーム」に時間を費やしまし た。

 たとえば、家をぐるりと囲む計32本の生垣。生垣といっても想像以上に大きな木です。この木は家の建築中にすべてふたりで植えました。

まず掘削具(posthole digger)を借りてきて、ふたりで支えながら1メートル近くの穴を掘ります。激しいバイブレーションで手がしびれてしまったこともありました。そして 買ってきた木を植え土をかぶせ肥料をやる。

この繰り返しを32回。マイクが仕事から帰るとすぐにふたりで建設中の現地に向かい、日が沈む6時半ごろまで汗だくになって働き、ドロだらけで疲れ果て 家に戻るという生活。

また家の周囲の土留めも自分たちで作りました。2メートルの大木を何本も使って作る土留めの作業は、熱帯の炎天下の中かなりきつかったようです。

「こんな仕事はもう2度としたくないわ」といいながら、腕のTシャツのあと、足のサンダルのあとがくっきり残る日焼けした肌を「恥ずかしい」と言いつつ見 せてくれました。

 もともと宝石店勤務だった彼女は、愛娘ホーリー(Holly)が生まれてからも、いつもメイクをきちんとしてネイルアートを欠かさず、ファッションもビシッと決めているので、常々感心していたのです。

 

▲二人で植えた家を囲む庭木

 
   

 そんな彼女が自分の土地、家のためには泥まみれになって働くことをいとわないほどの、マイホームへの思い入れ。ふたりはガーデニングが好きなので外構工事を中心にやりましたが、壁の塗装やタイル張り、バルコニーの設置などを自分でやったという友人もいるそうです。

もちろんお金の節約という意味もあるでしょうが、豪邸を建てることのできたミシェルですから、お金を使って専門家に頼むこともできたはずです。でも、そ こが「マイホームを建てるオージーのプライドなの」と。

時間がかかり大変な仕事とわかっていてもそれを成し遂げた時、"Looks fantastic! We have done together. Look how much we have achieved!(最高!ふたりで仕上げたのよ、こんなにすごいことをやり遂げたのよ)"と言いながらその出来栄えを満足して2人で見る。これが最高の 喜びだそうです。

もちろんプロではないから、多少の失敗もありますが、夫婦はひとつのチームなのだから一緒に額に汗して、自分たちで決めたことを力を合わせて頑張ってや る。これこそが、これから新しいマイホームで暮らすにあたって「何より大切なの」と熱く語ってくれました。

今はもう家の内外とも完成し肉体労働をすることも少なくなったようですが、その代わりマイクは仕事から帰ってくると、広い庭で娘のホーリーと走り回った り三輪車で追いかけたりと、たっぷりと時間をとって遊びます。

「オージーにとっては、家族で過ごす時間がとても大事なの」

そんな発言を聞くと、折角マイホームが手に入っても、そのローンのためあるいはワーカホリックのため、毎日遅くまで働いて家族で過ごす時間のない日本の 家庭のことが頭をよぎり、時間に余裕のあるオージーたちが本当にうらやましく思えます。

ミシェルの家はエーカーハウスが立ち並ぶ地域に建っているので、庭からは遠くの山々が、そして隣の家で飼っている馬の姿が、見渡せます。その手前には家 の周囲を囲む32本の生垣。その生垣の最初に植えた木の根元にはお父様の遺灰が埋めてあるそうです。

「木の成長とともに私たちの成長を見守っていて欲しいという思いでまいたのよ」とミシェルは誇らしげに話してくれました。

 

▲ラミントンのできあがり

 
   

今回はオーストラリアならではのお菓子「ラミントン」の作り方をご紹介します。市販のスポンジケーキを利用するので、誰にでも簡単にできるのですが、普通に市販されているので、今ではオーストラリアでも家庭で作る人は少ないようです。

でも頑張り屋のミシェルは自ら主催するプレイグループ(同年代の子供を持つお母さんが集まる会)の集まりには欠かさず作って持って行くそうです。日本で はラミントンは売られていないようですので、是非作ってみて下さい。

ラミントン

材料
市販のスポンジケーキ…2個
バター…30g
沸騰した湯…1/2カップ
アイシングシュガー…3カップ
ココア…1/3カップ
バニラエッセンス…少々
ココナッツフレーク…2カップ

■作り方

1.

スポンジケーキを3〜4cm角に切り分ける

2.

沸騰したお湯にバターを入れ溶かす

3.

ココアとアイシングシュガーをふるいにかけ2を入れてよく混ぜる

4.

バニラエッセンスを加える

5.

4にケーキをフォークで転がしながらアイシングに浸す

6.

ココナッツフレークをまぶして固まったら完成

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その44 おバレエ

2007年09月05日

 娘が生まれたらバレエを習わせたい、という夢があった私。バレエをしている人は、ちょっとした動きがエレガントで姿勢もすてきだから。自分にないものを子供に求める愚かな親の性とは知りつつ…。

幸い、バレエが何なのかはよくわかんないけど、ふわふわしたスカートをはきたい、という娘の意向とこちらの意向が一致し、見学に行くことに。

それまで、息子のラグビーや水泳や空手などの活動に慣れていた私にとって、スタジオのスイートな雰囲気は初体験。

ひらひらのレッスン服を着て、髪の毛も可愛らしくおリボンなどでまとめた女の子たち。この日は、ちょっとしたステップを習ったり、楽しく体を動かしている、という印象だった。

早速、コスチュームの店にも足を運んでみたが、「高っ!」。こんなの布を買ってきたら簡単に作れそうじゃん(でも私は裁縫ができない)。で、おもちゃのバレエシューズだけ買った。10ドルでやる気が出ればしめたものなのだ。

私のこういう性格を知っている日本の母から翌週には可愛い手製のチュチュが送られてきた…。

 
 

▲同じ教室に通うゆりあちゃんとにいなちゃんと。クリスマスの妖精役でした。

   

  念願のふわふわスカートも手に入り、さあ晴れてレッスンだ! ところが初日から、クリスマスコンサートに向けての集中練習になってしまったのである。一番 年少のクラスなので複雑な動きはないのだけれど、週を追うごとに先生のテンションが上がり、生徒の気が散ると親の見学も禁止に…。なんか、ただ事ではない な、とこのときから予感はあった。

娘は何度目かのレッスンの時、止めると大泣き。先生の言うバレエ用語がわからないのと、先生が怖いのが原因なようだった。

が、「動きだけ真似すれば大丈夫」と慰め、何とか普通に戻っていった。お友達がクラスにいたのも大きな支えに。でも本当は私がチュチュを日本に返しちゃうよ、と脅したのが効いたのだ。我ながらヒドい親だ。

その後は土曜、日曜、と集中レッスン。舞台の週はなんと水、木曜日も練習で、金曜は衣装をつけたリハーサル。はっきりいって親も子もクタクタである。本 気度100%だ。尤もリハーサルさえチケットを買った観客が入るのだから、先生の本気度が上がるのも無理はない。

前日は、仕事の後に舞台用のファンデーションや指定色のアイシャドウなどを買いに走った。「髪型は「クラシックバン」って書いてあるけど、それは何?」 ダンナに聞くと、「ホットクロスバン(イースターのパン)なら知ってる」。…こういう時、男親は使えない。そういえば、リハーサルの日、横にいた男性が娘 さんの白いシューズをピンクのクレヨンで塗っていた!「ピンクでないとダメなんだって?」と。うーん、厳しい。

周りのお母さんたちに助けてもらったお陰で、なんとか当日を迎える。時間をかけてメイクしてもらったのだが、会場でポテトチップを食べ始め、「口紅が落ちちゃうよ」と言ったら驚いて泣いてマスカラも落ちた…。

でも笑顔で舞台に登場した娘を見て、それまでの苦労が吹き飛んだ。親ってこんなものです。

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■その51「夏休みは退屈?」

2007年09月05日

 

▲授業の合い間も退屈?

 

 日本の子供達は、夏休み冬休みなどのホリデイはもちろん大好きだ。しょうがなくて塾に通うことはあっても、「早く学校が始まればいい」と思っている子は少数派だろう。
ところがオージーの子供達の中には、「早く休みが終わらないかな〜」とか「家にいるより学校に行きたい」と思っている子が多いのである。

ホリデイ中、うちの子供達には「boooooooooooooard(退屈だ〜)」という内容のメールが頻繁に送られてくるし、インターネットにログインするといつでもチャットルームに誰かいる。
近所の男の子は、「今日は遊べる?」と毎日のように玄関ベルを鳴らし、女の子はいつ訪ねてもコンピューターの前でチャットやゲームなどで時間をつぶしている。

 

受験戦争も塾通いもなく、スポーツも気軽に楽しめ自宅にはプールがあって広い庭で友達とも思いっきり遊べる、という恵まれた環境であっても、「夏休みがたいくつ」な理由は、どうもこの恵まれた環境が作り出しているのではないか、と思うのである。

広大な大地を持つオーストラリアでは、どこへ行くにも車での移動が必要になる。バスや電車はあまり発達していないし、学校の友達も自転車で行ける距離には住んでいない。
ショッピングセンターには車なら10分で行けるが、徒歩や自転車で行くのはほとんど無理。子供達がどこかへ行きたいときには、全ての移動が親の車での送迎になる。
もちろん学校への送迎は親の仕事。通学時間帯にはスクールバスの運行もあるが、親が共働きだったりすると放課後のお稽古事に送迎してくれる人はいないの で、結局家にいるしかない。同様に長い夏休みも1日中家で過ごすことになるのだ。

これじゃあ確かに退屈だ。日本なら土地が狭く人々が密集して生活しているので、友達の家だってセブンイレブンだって自転車ですぐの距離にあるし、バスや 電車も発達しているから映画館だって遊園地だって、友達と一緒に遊びに行けるのだ。

時間がたっぷりあるオーストラリアの子供達は、その時間を有意義に使うことができず、色々な時間の使い方ができるはずの日本の子供達は、塾通いで休みは暇なし。なかなかうまくいかないなあ。

 

 

Dorota:(語学学校教師。現在学校は日本からの学生で大忙し!)
■コメント:"You have to understand that Australia is a very new country and it’s very vast. Japan has had many years to develop their public transport system and Australia cannot compare to that. Cairns’ system is very wobbly if I may say so, so sadly it is hard for kids to do the same things as Japanese kids do if their parents work. Another point is that there are around 6 times more people in Japan as there are in Australia so their need for a transport system is much greater than Australia’s. So most Aussies prefer to have cars."
(オーストラリアは、建国してまだ間がないし、とっても広い国だということを理解してもらわなくちゃ。日本は長い時間をかけて交通手段を整備してきたけ ど、オーストラリアはそうではないわ。特にケアンズはひどいわね。親が共稼ぎの場合には、日本の子供達のように出歩くことなど、ほとんど不可能よ。オース トラリアの6倍もの人口を持つ日本は、それだけ移動手段が必要なので発達したわけでしょ。オージーはむしろ車の方が良い、と考えているのよ)

Aimee:(教育実習を終えてホット一息)
■コメント:"It was very hard for my mother because she would go to work early and not finish until after 7pm most nights. She couldn’t pick us up from school so we would go to after school care until she could pick us up. It was very expensive to send us to this school care but she did not want us at home by ourselves."
(母が私達の送り迎えをするのは、とても無理だったわ。だって朝早くから7時過ぎまで働いているのだもの。学校のお迎えには来られなかったから私達はいつ も学童保育に行っていた。費用も随分かかったようだけど、子供だけでお留守番するよりは良い、と考えていたみたい)

 

 

Cathy:(現在新居を建設中。「たくさんの日本人学生をホームステイさせたいわ!」)
■コメント:"Parents are always driving their kids somewhere, to sports or tuition or dance class. Sometimes you hear them joke that they feel like a taxi service. There is a sticker that I have seen on the back of cars that says ‘mums taxi’. On the topic of student’s workload, I think that it is very hard for some students because they are under a lot of pressure to study hard and do well at school and most of them have a part-time job as well. Some kids are very busy."
(スポーツ教室だろうが塾だろうがダンス教室だろうが、親は車で子供の送り迎えをしなくちゃいけないわけ。親はまるでタクシーの運転手みたい、と自分たち でジョークが言っているくらいよ。後部に「ママのタクシー」というステッカーを貼った車を見たことがあるわ。でも、子供の負担という面で考えると、そう いったことが子供のためになっているばかりではないと思うわ。学校では勉強のプレッシャーがあって、放課後はアルバイト。子供達は忙しすぎると思うわ)

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