身障者として世界初の
エベレスト北ルート登頂に成功。
ガンと闘う人に
熱いメッセージを送る。

 

ポール・ホッケーさん
登山家

 

 

ケアンズで輝く人ーポール.ホッケー

Profile

Paul Hockey ぽーる・ほっけー

1963年4月5日キャンベラ近郊の町、セス生まれ、11歳からケアン ズに暮らす。
骨ガンのため、生後3週間で右腕を付け根から切断。
空手、カンフー、韓国合気道の3つの武道で黒帯を獲得。シドニーで空手師範として3年間道 場を運営した後日本へ渡り、結婚して再びケアンズへ。
ツアーガイドとして働きながら、アンデス山脈の最高峰、アコンカグア山の登頂に成功。2004年、長 年の夢であったエベレストを目指すも、頂上まであと248mの地点で酸素不足のため下山を余儀なくされた。今年3月、再びエベレストに挑む。信条は NEVER GIVE UP !彼の登山活動や講演は多くの身障者の人たちを励ましている。
今後も小児ガン研究所への寄付を目標に本の執筆、講演を予定。
www.paulhockey.com

※リビング・イン・ケアンズ 1995年3月号掲載

 

 

 

この3月の終わり、‘片腕しかない人身障者としては世界初’という大いなるゴールを抱いて、ポールさんはエベレスト登頂に再挑戦する。

 

 

 

「自分勝手な奴だ、と言う人もいる。そうかもしれない。だけど、夢に生きてもいい、不可能なことはない、そういうことを人々に伝えたいと思ってる」

 

 

けれども、彼のエベレスト登山の夢は、自分のものだけではない。その証拠に、彼の活動や講演を通して、多くの身障者の子供たちやその母親からメールが寄せられている。

 

 

自分はなんて不幸なんだ、なぜ障害を持って生まれて来たのか。と、生きる自信のなかった子が、ポールさんの登山の話を聞いて生きる希望の光を見るのだ。

 

 

「最近も、1歳で両足を失った子のお母さんから手紙をもらったよ。僕の記事を読んで、『この子はまだ自分の人生を生きられる。それも挑戦に満ちた人生を生 きられる、と気づきました』としたためてあった。こんなことがとても励みになっている。この子には、エベレストの山頂の石をプレゼントするって約束したん だ」

 

 

 

ポールさんの、自分の人生に対する真摯な在り方が多くの人々を動かす。

「NEVER GIVE UP, NEVER GIVE UP, NEVER GIVE UP!」

 

 

 

 

「チャレンジしがいがあるからやる」 世界で誰も達成していないことに挑戦。

1953年、史上初めてエベレストの登頂に成功し、歴史の一ページに名を刻んだ、エドムンド・ヒラリー卿の綴った本。この本を読んだ少年時代から、心の どこかで彼がヒーローであり続けたという。そして何年もあと、偶然、ヒラリー卿のインタビューをラジオで耳にし、彼の話す内容に感動。いつしか、エベレス トに登りたいという夢が具体的に膨らんでいった。

 

 

 

「その頃は空手道場を運営していて、武道にどっぷり浸かっていた。自分の心、体、魂に挑戦するという意味で、武道と通ずるものを登山に感じたのかもしれない」

 

 

 

その後、調べてみると、チベット経由は身障者で登頂に成功した人はまだいないということがわかる。そして、このルートは南ルートより遥かに厳しいことを承知で、大きな課題を自らに課すことに決めたのだ。

 

 

「簡単そうだったらやる必要はない。チャレンジしがいがあるからやるのさ」

 

 

 

その後のポールさんの行動は早かった。
登山家として世界的に著名なニュージーランド人、ガイ・コッター氏に、「自分の夢であるエベレスト登山に挑戦したいこと。同時に自分の登山活動によっ て、ガンへの関心を高めたいこと、登山活動の後の執筆や講演を通じて、ガンの研究費をオーストラリア小児ガン研究所に寄付したいこと」を書いた手紙を送っ た。

 

 

 

コッター氏からすぐさま「協力する。ぜひお会いしたい」という返事をもらい、借金をしてニュージーランドへ。

 

 

 

ニュージーランドの山を登った時は、007がディナースーツを着て、イブニングドレスを着た女性とドリンクを片手に手招きしている、という幻想を見たという。

 

 

「僕が崖っぷちに向かって歩き出したから、登山パートナーが驚いて引き止めてくれたんで助かったよ。今、思うとこれが登山中で一番恐かった体験かな。
空気 が薄くなってくると幻想を見る人は多いし、エベレストでは寝ている間に呼吸が止まってしまう人もいるんだ」

 

 

山の厳しさを物語るエピソードである。
2003年は、コッター氏の率いるアドベンチャー・コンサルタンツのメンバーと共に、エベレスト登山に向けたテストとして、6960mと南半球で一番高いアンデス山脈アコンカグア山に挑んだ。

 

 

 

体力的に問題がなくても、高山病に関しては実際に登ってみなければわからない。結果は良好で、帰国後、自信を携え、エベレストが一歩近づいていた。

 

 

登山には多くの資金も必要だ。35kgのバックパックを背負い、足首に重りをつけて山道を歩くという地道なトレーニングとツアーガイドの仕事を続けながら、寄付を募る活動も行う。

 

 

 

死んだら終わり。 山はいつでもここにある、と気持ちを切り替えて。

 

そして、いよいよその日。

「本当に来たんだ…。エベレストの最初の一歩を踏み出した時は、そんな感慨があった」とポールさん。

 

 

 

山を登っている時は、とにかく一歩一歩に集中するだけ。登り始めは音楽を聞きながら。家族のことを考えながら。

 

 

 

途中にはいくつかベースキャンプが設置されているが、キャンプ1の後は、音楽を聞くのも止めた。雪崩が起きたり、ローブが壊れたり、山では何が起こるかわからないからだ。

氷点下30度の中、一歩一歩雪を踏みしめるのみ、なのである。寒く乾燥したエベレストでは1日に8リットルの水を飲まなければならない。

 

 

 

「たとえ6時間登山のしっぱなしで疲れて、喉が乾いていなくても、氷を砕いて水にして飲む。そんな風に自分を制することができないといけない」

標高7500メートルからは酸素ボンベも必要だ。一呼吸一呼吸が大きな意味を持つ。

 

 

 

自分を制する、自分に打ち勝つ、次の段階を目指す、と、空手を通じて学んだことは、全てエベレストという巨大な大自然と向き合うにふさわしい哲学であった。

そして、理念だけでなく、一瞬に焦点を当てて素早く決断を下す、という実際面でも武道が役立っていた。

 

 

 

エベレストの標高8100m付近での登山風景。

 

 

あと248メートルで8848メートルの頂上というその時、ポールさんの様子をベースから見守っていたキャンプリーダーが言った。

「酸素が足りない。今すぐ引き返せ。たとえ頂上へ行けても帰ってくるだけの酸素が足りない」

 

 

 

「…30秒くらい考えた。頂上はすぐそこに見えた。長い間夢に見た頂上が。でも、同時に3人の子供たちの姿が脳裏に浮かんで。タフな決断だったけれど、僕は生きて帰らなければならない、と思った」

 

 

 

写真を撮りたかったらあと30分くらいはそこにいても大丈夫だ、と言われた時は「ふざけんな。写真を撮るために登ったんじゃない」とかなり感情的に返してしまったという。

 

 

 

平地の250メートルと山頂では感覚がまるで異なる。たった数百メートルのこの距離を登るのに4時間、そしてその地点へ帰ってくるのに更に2時間はかかる。リーダーは、登山の速度から酸素の残度を計算したのだ。

 

 

 

8600メートルを登り、体力も知力も極限状態にある。

 

 

(左)エベレスト登山では、ひとつの簡単なミスが命取りになる。旗は危険区域の始まりを示す。(右)エベレストの標高8600m地点にて。この後、持っていた酸素ボンベでは酸素の量が足りず引き返す事に。

 

 

 

「雪の中から突き出た足、ナイロンにくるまった体、登山中はいくつもの死体を見た。実際、これ以上行くなと止めた女性はアドバイスを無視して二度と帰って これなかった。今回の旅でも知ってるだけで7人が亡くなってる。死んだら終わりだ。山はいつでもここにある、と気持ちを切り替えるしかなかった…」

 

 

雪焼けが痛々しい。この登山で体重が15kg減った。

 

無事下山した時は、もう二度とエベレストには来ない、と思ったという。

 

 

 

「でも不思議とね、シャワーを浴びたら、また挑戦するっていう気持ちになった。次はもう1本多めにタンクを背負うさ」

 

 

 

ポールさんの好きな日本語の一つに「七転び八起き」がある。今まで何度「無理だ」とう言葉を投げかけられたことだろう。片腕じゃ車の運転は無理。片腕 じゃ武道で黒帯を取るなんて無理…その彼は現在もマニュアルのジープを駆り、一時は武道で生計を立てていた。

 

 

 

「ネガティブな人の言うことを聞くな。人生は短い。エンジョイしたい。そして諦めずに夢に生きたい。ポジティブであれば、誰でも何でもできる。そう信じているから」

 

 

 

 

自分の腕、最愛の母を奪った ガンで苦しむ子供を助けるための再挑戦<

ポールさんは2005年3月、果たせなかった夢を果たすべくエベレストに再び挑む。今回は半年前にガンで亡くなった母、ドロシーさんと共に。

 

 

 

「またエベレストに登るの?」と聞くドロシーさんにポールさんは答えたのだ。

 

「行くよ。今度は頂上を目指すんだ」
「じゃあお母さんも一緒に行くわ」

 

 

…お母様が亡くなったのはその会話が交わされた数日後だった。
自らの腕を奪い、母の命を奪ったガンで苦しむ子供たちを少しでも助けられるよう、エベレストという立ちはだかる大きな挑戦を受ける日が今、刻々と迫る。

 

インタビュー後記
自分が背負っているものがわかっていて、突き進んでいる、そういう印象を受けたのだけれど、「いい人なんかじゃないから誤解しないでね」と言ったりして、あくまでも気取らない方でした(冗談もかなり面白い)。
そして、人間って自分の意志でこんなに変われるものなんだ、ということに気づかせてくれました。この号が出る数週間後に旅立つポールさんに励ましのお便りを送りたい方や資金をサポートしたい方は、ぜひ
paulhockey@hotmail.com までメールを!Keiko

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