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1996年7月号・其の10 ラバウルの日記

 1946年1月8日。日本陸軍第4、5、6部隊の視察。何一つ欠点なし。完全なる整理整頓ぶり。我が軍のキャンプが、日本軍の半分程でも整頓されていたら、と思う。約60人程の日本軍士官が、礼を尽くして私を取り巻く。かえって煩わしき思いなり。

「えらい刀が出てきたぜ」マカイの葬儀屋、ダグからの電話である。私の日本刀に関する情報網の一人だ。「ロキャンプトンにあったよ」。

 第二次戦の末期、ニューギニアからソロモン域の日本軍捕虜は、ニューブリテン島のラウバル収容所に集められていた。豪州軍の管理下にある。

 1月10日。今日は日本海軍の視察あり。陸軍に比較してだらしがない。栄えある日本帝国海軍も、地に落ちたものだ。

 豪州軍の司令官は、第42師団のマクドナルド少佐である。彼のラバウル収容所における克明な日記が、ダグの見つけた刀と共に保存されていた。他に少佐が親しくしていたと思われる日本陸軍々医大尉、松本祐之進の写真。古びた写真の裏の消えかかった記述には、千葉県市川市八幡新道と住所がある。彼の父は教会の牧師・・・と少佐の日記にあった。田辺という日本兵が少佐に贈った刀袋もある。田辺の妻女が、出征に際して縫い上げた物という。

 袋の内側には、技術滅私報国奉公、昭和17年12月、101設営隊とある。マクドナルド少佐は、日記からもうかがえるが、几帳面な性格だったらしく、これらの品々は、古びてはいたものの当時のままである。こんな貴重な遺品はめったにない。何としても入手せねば、と思った。

 1月9日。カミダ少佐に日本刀の歴史を聞く。軍刀は石原司令官の佩刀にて、摂州住藤原忠行、と銘がある。刃文は丁字乱れとか。家伝の一振りという。大阪にて300年程前、作られた刀なり。

 刀は石原大尉より、マクドナルド少佐に差し出された物だった。そしてその刀は今、日記と共に私の目の前にある。

 豪州人は全般的に性格が雑である。物を大切にしない。私の見つけたほとんどの日本刀は、保存状態が悪く錆だらけで、拵も痛みが目立ったが、この忠行の一振りは、完全に保存されていた。

 柄頭に石原、と銀像嵌がある。鞘は鉄製の軍刀鞘でズシリと重い。刀身はまずまず。物打ちに二ヶ所の刃こぼれがあった。明かりに透かしてよく見ると、刃から垂直に細かい擦り傷がある。何かを切った傷だ。

 刀は遠心力の原理で切る。従って半円を描いて切り込むので、擦り傷はやや斜めに付く。この傷は目の前に置いた何かを、据え物切りに真っ直ぐに打ち下ろして出来た傷だ。常人の切り方ではない。何を切ったのだろう。

 1月16日。Dust. Dust and more dust.

 収容所は、ラバウルの一画を切り開いて設置されたものらしい。毎日の日記に、埃のひどさが記してある。勝者の立場にあったにしろ、収容所の生活は決して楽なものではなかったらしい。埃や虫に悩まされながら、心の苛立ちをクリス、という女性からの便りに託している。今日も便りなし、という記述が至る所にある。

 1月31日。クリスから便りあり。何回も何回も読んだ。今日は良い日だ。I love that little woman. 妻女だったのだろうか。

 少佐は日本軍捕虜にとって、良き敵国の大将であったらしい事は、日記を通して感じられる。それでも彼は、日本人を一貫してJAPと形容している。日本人への蔑称である。当時の軍人としては仕方のない表現であろうけど、驚くほど多くの豪州人が、今でもこの言葉を日本人の背後で使用している。

 私は豪州人が、頭脳的にみて賢い人種とは思わない。むしろ、雑で、徹底して利己的で、一見親しみやすい性格に隠された、強い意味の分からないプライドをよく感じる。

 飽食の国、日本。豪州に来る多くの若者の中には、豪州が以前、日本の敵国であった事実さえも知らない者もいる。豪州人には考えられない事だとよく聞く。外国に来るという事は各々が個人としての顔のみでなく、その国を代表する公の顔も同時に背負っている、という事だ。

 人なつっこい豪州人という観光的イメージの背後には、豪州建国以来、最初の侵略国である日本と日本人に対し、未だ複雑な思いと、ある種の蔑みが残念ながら存在するという事実も、知っておいて欲しい。

 マクドナルド少佐は、1973年、ロキャンプトンにて没。

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