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1996年8月号・其の11 PWJ 11001
「センセイ」
弾んだ声は、前日ケインズを去ったケンだった。アデレードからだ。アデレードの街の中心には、美しい大きな公園がある。そこを通りかかったケンは、3人の黒人にからまれている日本人を見かけたそうだ。皆、見て見ぬふりをしている。久しぶりで私と稽古をして少し自信を付けていたケン。
「3人位、やっつけるつもりでしたよ」黒人達の前に立って、バッと空手の構えをとったという。ところが3人の男、ケンの構えを見て尻込みしてしまい、「何もしないで逃げましたよ」。
この世知辛い世の中、他人の為に体を張るのは、なかなか出来る事ではない。上機嫌のケン、65歳。アデレードより北へ2時間Port Pirieという美しい町の、産業開発局の局長である。数年前私の道場を知り、それ以来毎年、South Australiaからケインズまで、その歳で泊まりがけで稽古に来る異才である。
「センセイ」さらに弾んだケンの声だった。武勇伝の時から数カ月経っていた。昨年の10月のことだ。
「市長になりましたよ」20年間、万は優に超える豪州人に空手を指導したが、市長になった門弟は初めてである。以来、彼は中国との交易交渉その他、精力的に頑張っている様子である。
Port Pirieは、第二次世界大戦中、豪州空軍の重要な訓練基地の一つだった。多くの若者がこの町で育ち、訓練中に死んだ。その記録を次の時代の若者達に残す為、ケンが市議会員に当選して以来10余年、市の協力を得て資料捜しに走ったという。その努力は、今年5月、Port Pirie Remembersの出版となって開花する。その中に日本人にも興味深い話があったので、今年51回目の終戦記念日に添えて紹介する。
大戦中、豪州攻略を重要視したのは日本海軍である。1942年2月、海軍は第一回のDarwin爆撃を敢行する。艦載機による攻撃は、朝10時から約1時間。引き続き、セレベスの基地等から飛来した重爆44機の追い打ち攻撃で、豪州側の死者約240名、重軽傷者300人以上を出す。
HAJIME TOYOSHIMA。香川県出身。当時22歳。空母KIRYUから攻撃に参加した18機のゼロ戦の内、唯一機、帰還しなかったパイロットである。第一次攻撃を終え、僚機と共に空母に引き返す途中、燃料機関の故障に遭遇、パラシュートを積んでいなかった為、Darwinの北方、Melville島に胴体着陸を余儀なくされたという。
HAJIMEは若いながら優秀なパイロットであったらしく、ほとんど無傷で着陸に成功。その後数日間、島の内部を彷徨う。そして蜂蜜を捜していたアボリジニーの女、子供のグループに出会う。HAJIMEは、腕時計を与えたりして彼女達のご機嫌をとろうとしたが、うまくいかなかったらしい。
翌日、彼女達の連絡で、青年達がHAJIMEを実質上の虜としたが、この時点では、彼が日本人でDarwin攻撃の隊員であった事は判明していなかった。しかしその後の捜索で、彼のゼロ戦が発見される。豪州における日本人捕虜第1号、PWJ11001、の不名誉なる名称を付けられることになる。
DarwinからNSWのCowraに、豪州縦断列車で輸送される途中、HAJIMEはPort Pirieに寄らされている。その時の写真が現存する。銃を持ち直立不動の2人の豪州兵の間に不安そうに立たされている彼の顔には、鼻と左のこめかみに大きな絆創膏が貼ってある。
着陸時の傷と思われるCowraの収容所でも、当然、日本人捕虜第1号で、その後次々と送られてくる捕虜達のリーダー格となっていった事は、自然の成り行きだろう。
シドニーの西方300キロの荒野の中に位置するCowraは、寒い。その酷寒の早朝、静寂を破ってトランペットの音が長く響くや否や、それを合図に大喚声と共に、数百人の日本人捕虜が、収容所を巡る鉄条網に殺到。たちまち監視の豪州兵の機銃掃射で、薙ぎ倒されてしまう。
Cowraの日本人墓地を訪ねると、累々と並ぶ小さな四角い墓標に刻まれた死亡日が、ほとんど同じなのに気が付く。1944年8月5日。戦後豪州人がひた隠しに隠したCowraの大脱走である。日本人死亡者231名。
HAJIMEの死体は、溝の中で発見された。被弾し、体を隠す為に溝の中に這い込んだ彼は、自らナイフで喉頚を切って自決。死体の傍らに、半分吸いかけたタバコの吸い殻があったという。波乱の短い生涯に別れを告げる、最後の一服だったのだろうか。HAJIMEが吹いた合図のトランペットは、今もキャンベラの戦争博物館に展示されている。
ケンからFAXが入った。今でも多忙の中、週3回は空手の稽古を欠かさないが、何としても8月中にはケインズに稽古に来ると言う。また二人でビールを飲もう。ケンは、豪州人が豪州人であった頃の、本当の豪州人である。
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