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1996年12月号・其の14 小池邦夫の世界
「ヨシ、やろうぜ」ある放課後、相棒と共に学校に残り、書道教室に入ってたっぷりと墨を磨った。一番大きな筆を選んだ。
私は愛媛県の松山の出身である。受験の名門校、松山東高校に入学。勉強はそっちのけで、空手の稽古ばかりやっていた。似たような男が同期にいた。彼は書道に凝り、それで身を立てると頑張っている異才だった。表現こそ違え道は道。お互いに刺激し合える無二の親友となるのに時間はかからなかった。
書にしろ空手にせよ、修行は厳しい。修行を続ける事は、己に厳しくする事だ。これは我々の合言葉だった。冬でも素足に高下駄。雪の中を裸足で走って、道場に行ったものだ。今思い出すと、よくやったものと冷や汗が出る思いだが、何という事もない。二人の餓鬼が痩せガマンしながら、ツッパッていただけだ。それでも、われわれなりに真剣だった。
私は昭和35年に高校を卒業した。この頃の風潮は、石原裕次郎が新しい時代のシンボルで、太陽族という言葉が流行し、マンボズボンという、まるで股引のように見えた細いズボンに人気が集中した。東校の生徒もその例に漏れず、皆競うようにそんな風潮に乗っていた。
下駄履きの素足でツッパッていた我々には、何とも軽薄で自主性のない風潮に思え、我慢が出来なかった。かと言って、何も出来ぬ。指をくわえて見ているだけなのか。
「オイ、このたるんだ奴等に活を入れる、スローガンを書こう」
どちらが言い出したのか、今ではもう思い出せない。それしか方法がないような、素晴らしい考えのように思えた。看板は駄目だ。動かされてしまう。直接、建物に書こう。もう止めようがなかった。白い壁の方がよく目立つ。丁度工事が終了した新しい便所がある。20E程の大きな白い建物である。私と相棒はその白い新しい壁に、必死に且つ真正面にスローガンを大書きした。質実剛健、闘魂、押忍一道、不言実行、等々。
新しい白壁に、墨でこんな事を大書きする生徒と言えば、私と相棒位のものだった。特に相棒の書体は、書道の先生が見れば一目瞭然である。書き終えてから、事態の深刻さに気が付いた。まずは休学、悪くすれば退学かも知れぬ。
翌日の学校内は、そのスローガンの話題で持ちきりだった。ところが呼び出しも何もない。覚悟を決めていた我々には、むしろ拍子抜けの思いだった。
何もないまま数日が過ぎた。そして本当に、まったく何もなかった。学校側は、私と相棒のした事と分かっていながら、不問にしてくれた。この頃の学校の先生には、粋な人達がいたものだ。あれが単なる落書きだったならば、相当な処罰をくらっていたはずだ。
この相棒、小池邦夫。東京学芸大の書道部に学ぶ。卒業後、絵手紙、という分野に自分の才能をのばし、特にここ数年間、マスコミを通して有名になった。著作多数。ヘタでいい、ヘタがいい、というむしろ個性を尊重する画風に、時代の人気が集中している。
私は二浪して東京水産大に入学。大学でも空手ばかりやっていた。そんな自分の性格を考えると、とてもじゃないが型に入った日本の会社勤め等出来そうにない。外国に出たらもう少し自由に生きられるのではないか、と餓鬼のように憧れて外地での就職を捜した。
運良く、日豪合併の南洋真珠養殖会社に技術員として採用され、豪州北端の木曜島分場に、大学卒業と同時に赴任。あの時、もし他の外国から求人が来ていたら、私の人生はまったく違った方向に展開していたのだろう。人間の運命とは、何と面白いものだと思う。
木曜島赴任中も、島の人々の要請で空手クラブを組織して指導。養殖の仕事は面白かったが、空手への夢捨てがたく、9年半働いた会社を思い切って退社、ケインズに下って空手道場を開いた。以来21年。まだ空手で何とか生きている。
松山高校の便所の白壁に、墨を滴らせながら、必死の思いでスローガンを大書きしてからもう38年。初志貫徹、押忍一道のスローガンは、それはそのまま私と小池の人生に当てはまった。二人共、まだ馬鹿の一つ覚えのように、空手と書に生きている。私はただ単に、ケインズのような田舎町で、何とか空手で生きてこれただけだけれど、小池は苦労の末ようやく芽を出した。友の成功に乾杯。
つい最近日本へ行った。10年振りに小池に会った。東京の深大寺は、雨だった。小池に会うと、すぐに高校時代に戻る。家族ぐるみで良い酒を飲んだ。フランスで個展を成功させ、次はドイツを準備中という。豪州でも彼の個展をやらせたいもの、と考えている。
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