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1997年1月号・其の15 日本遙かなり

「言葉に出すと、いつも泣いてしまいます。センセイには聞いて欲しい話です。だから書き留めました」。

 夜の道場の稽古は、8時半過ぎに終わる。道場正面に、キチンと礼をして帰って行く生徒に混じって、リオーニが分厚い封筒を私に差し出した。彼女は40も半ば過ぎ。思い出したように稽古に来る。バランスが悪いのに気は強い。怪我をするタイプの動きなので、彼女には目を配っていた。

 人のいい、陽気なAussieという言葉は、日本人の豪州人へのイメージのようだ。しかし彼等をもう少し知ってくると、豪州人は徹底的な個人主義で、意味の分からないプライドを体の奥底に秘めている、扱いづらい人種、という事が分かってくる。

 陽気なAussie。表面しか見ない日本人のイメージ違いだと思うが、リオーニは少なくとも、他人の為に、という気持ちのある日本びいきの一風変わった女だった。

「私の少女の頃、体に滲み込む程、何回も聞いた話です」。何枚かのコピー用紙に、ビッシリと書かれていたリオーニの手記。

 第二次世界大戦中。豪州でのある陸軍病院に、重傷の若い兵士が運び込まれてくる。ほとんどつきっきりで彼の世話をしたのが、若い志願看護婦。今で言うボランティアである。

 彼女の夫も又、兵士。結婚後間もなく夫は戦場へ。夫を知る暇もなかった。いつ死ぬかも知れない戦場に征く男達への労りの気持ちが、しばしば結婚という形になり、相手をよく知らないのに一緒になるのは、戦時中ではよくあった話だ、とリオーニは言う。

 故国を遠く離れて戦った重傷の兵士も、看護婦も、共に心の中に寂しい空洞があったのかも知れない。二人の意志が通い合うのに、あまり時間はかからなかったようだ。それでも彼女には、頑なに医者の手当を拒み続ける兵士の心情が、どうしても理解出来なかった。兵士は兵士で、たどたどしい英語で似て、何とか懸命に彼の意志を伝えようと努力したらしい。

 彼は、日本軍兵。英語が少ししゃべれたという事実から、多分学徒出陣兵であろう。彼の命は、天皇陛下に捧げたもの。敵の手に落ちたならば、速やかに死を選ぶのが日本の武士道。若い日本兵は、苦しい息の下で、苦痛に堪えながら、日本の軍人の生き方を説明しようとする。

 もとより豪州人の彼女に、理解出来るような論理ではない。それでも日本兵には、捕虜となった彼の話を真剣に聞いてくれ、生きてくれと励まし続けた彼女の人となりが、彼の心の中に伝わっていたのだろう。

「たった一つ、頼みがあります」。彼はもう、彼女に心を開いてしまったようだ。

「平和になって、もし貴女が日本へ行く事があったら、豪州で死んだ私の思いを、一緒に運んでほしい。貴女がもし、サクラの花を見る時があったら、その時に、私の死に様を思い出してほしい」。

 一切を拒絶し続けた日本兵は、間もなく死亡。彼女は、兵士の最後の息の音を聞いた、たった一人の人間だった。

 約束をしたものの、日本は遠い。戦後の事である。簡単に行ける日本ではなかった。その後彼女は女の子を出産。子供が物心ついた頃から、それまで彼女の胸の中に溜まっていた日本への思いや兵士の事など、折にふれ、繰り返し語り続けたという。その彼女も、遥かなる日本への思いを残したまま、若くして死去。レントゲン技師としての仕事が、むしろ彼女の生命を縮めたらしい。

「その看護婦が、私の母です」。そうか、そうだったのか。

「母は、敵国であった日本の、良い面ばかりを見ているような人でした」。リオーニが日本人を好み、日本の文化に興味を持つに至った背景には、こんな話があったのか。

 戦後わずかに50年。かっての敵国豪州には、毎日沢山の日本人観光客が押し寄せてくる。日本企業の投資も大きい。そして驚く事に、この豪州の歴史上、最初の侵略国が日本である、という事実を知らない日本人の、何と多いこと。たった50年前の、日本にとっても歴史上最も悲惨な体験。

 口を開くと平和を唱える良い顔日本の歴史教育は、恥部を隠して成り立っているのだろう。内容がなくとも、とにかく外見の良さが大切の見てくれ社会。自国の文化の良さには目を向けず、外国物を漁りまくる底のない人間性。日本語もまともにしゃべれない日本人が、英語なんか勉強しても、どんな意味があるのだろう。

 金や技術はあるけれど、何処へ行ってもかもにはされても、尊敬される人材の少ない日本人像は、こんな所にもあるのかも知れない。そんな日本人が、いかにも貧しく思えたリオーニの話だった。

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