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1997年6月号・其の20 ハイ
私の道場はケインズで21年。10年程前のピーク時には、千人近い門弟がいた。入門しても止めていった人数を加算すると、これは驚く程の人数で、その当時ケインズの人口の約10%位は私の道場を通過したのではないかと思う。
ケインズが急激に注目を浴びてくるのも丁度その頃で、以後大きな変化を遂げる。それまでのんびりとしたライフスタイルを楽しんでいたローカルの多くは、その変化についていけず、評判のケインズへ豪州各地から移動して来る人々とローカルとの交代劇が起こる。
現在よりも2倍近くも膨らんだ人口の70%程は過去5年以内にこの町に住み着いた人々で、去っていったローカルの数が想像される。
年間を通し道場への入門者の割合には一つのパターンがある。3月まで増加し4、5月は横這い。6月頃から減少し、8月は最低。少し暑くなる9月頃から再び増加し始める。過去20年、このパターンは同じだったが昨年初めて年間を通し平均していた。
ケインズの一番良い季節に減少するのは何故か、と不思議に思う。今年も早いもので、もう6月。どうやら例年通りのパターンらしい。今年入門した連中が少し緩み始めるのもこの頃で稽古をサボりだすともう駄目だ。櫛の歯が欠ける様に知らぬ間に脱落してゆく。今年は今までに一番会員数が少なく、これは現在豪州を被っている不況の波と、ある程度関係がありそうだ。
ケインズの町にも、あちこちFOR LEASEのサインが目に付く。こんなに不景気な時には空手のような稽古事は食物や衣類のように必要不可欠のものではなく、一種の贅沢事になるのだろう。
空手は地味な稽古の積み重ねである。現代のような時代には、何年もかけてじっくり稽古する人間も少なくなってくる。厳しい稽古も考えものだ。子供は普通の礼儀作法と体力造りを中心に、大人は誰もが楽しんで出来る稽古体制を確立しなければならない。気を使って指導していても残るのは10人に1人。その年の入門者が毎年10名残ってくれたら、その積み重ねで十分である。その為には少なくとも年間百名程度の入門者が必要になる。残った1割の会員は地味な稽古に耐えられるだけに良い人が多い。
空手は日本の文化である。技術のみならず、文化の心の伝達、が大切になってくる。礼、という習慣のない豪州人にも、一応仕付けをしなければならない。日本流の押し付けだけでは無理が出る。豪州人がなる程、と思うような常識的な裏打ちが必要になる。
例えば、道場に入る時には礼をさせる。空手の稽古は喧嘩ではないのだから、技の背後に道場、先生、相手に対するRESPECTの観念が大切になる。その表現方法として日本では礼、という形をとるのですよ、と説く。
道場に少し慣れ、礼に不自然さを感じなくなるとThanks Mate. の豪州人が自然に私を見ると頭を下げるようになる。号令のかけ方、技の名称、挨拶等も日本語を通す。「センセイ、オヤスミナサイ」足を揃えて真っすぐに立ち、キチンと礼をして帰って行く。
道場での礼は正対して行うのを原則としている。挨拶が体の中から滲み出るように自然に、正対してキチッと出来るようになると態度が変わってくる。尊敬心が育ってくるのだ。ここまでくると現代の日本人より、はるかに良い礼をする豪州人が出来上がってくる。
子供は多い。日本人の子供もかなり入門してきた。豪州人の子供に比較して飲み込みは早い。言われた事は無難にこなす。優等生タイプだが温室育ち、プレッシャーにひどく弱い。豪州人の子供は滅茶苦茶だ。個性が皆違う。頭も悪い。上達も遅い。知識面では日本人の子供にはるかに劣る。それでも抜群に子供らしい。私はそこが気に入っている。
日本には素晴らしい言葉が多い。ハイ、という美しい響きを持つ返事もその一つで、道場では皆に使わせている。ところがまずほとんどの日本人の子供はハイ、という返事をしない。ウン、である。ハイ、には返事としての認識のみならず、相手に対しての心遣い、尊敬の気持ち、自分に対しては素直さ、謙譲の心が自然と含まれている。そういう気持ちを仕付けるには、子供が物心つく頃から親に対してハイ、という習慣を身に付けさせる事だ。大きくなってから覚えるハイ、は気持ちのないただの返事としてのハイ、だ。
私は子供の仕付けはハイ、から始まると思っている。ハイ、はソウデス、に続きウン、はソウダヨ、に続く。気持ちが違う。こんな簡単で大切な日本の仕付けを、どうして日本人は失いつつあるのだろう。ハイ、の中から日本人としての心も育ってくるはずだ。
国際化の時代だという。そんな時代であるからこそ、自国の文化を大切にする心がひいては相手の国への理解にも結びついてくる。金持ちの日本人、というイメージがある。その割には海外で尊敬される日本人像が出てこないのは、こんな小さな心構えにもありそうだ。
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