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1997年10月号・其の24 豪州刀
日本刀というものは、素人が見ても何となく自然なバランスの良さを感じるものである。ところがその刀は、柄が異常に長かった。鞘に被せてある皮袋も片側はキャンパス地、反対側はどうやらヘビの皮らしい。
もう20年も前の事である。シドニーのHurstvilleにある小さなアンティークショップ。店の隅に埃をかむっていた四振りの日本刀を見つけた事があった。その奇妙な刀は、その中の一振りだった。
第二次世界大戦の末期、バリ島の日本軍の降伏調印式は、豪州軍の管轄下、デンパサールにて行われた。日本軍司令が降伏の証として、豪州空軍の指揮官に彼の佩刀を差し出し武装解除となる。その時日本軍司令が手渡した彼の刀が、何とケインズにあった。テレビ局の友人が偶然取材中に見つけ、取材していた男が当時の豪州指揮官だった。
私は日本と連絡を取り、防衛庁の資料の中から当時の日本軍司令の名前を捜してもらい、本人が大阪の開業医として健在、とまで突き止めた。何とかその刀を取り戻してやりたい。
交渉は何度やっても駄目だった。日本人には絶対渡さない、と言う。悔しかった。豪州は米国につぎ、没収された日本刀が大量に持ち込まれた国である。ヨシッ、それならば豪州中の日本刀を集めてやる。これが私の日本刀収集のきっかけになった。
ゾロリ、とその刀を抜いてみた。少し錆があったがまず健全。身巾(刀身の部分)の広い割には短く、ずんぐりとしていかにもバランスが悪い。刀を集め始めた頃の私には、鑑る目がなかった。何か不自然だと感じながらも、その奇妙さに引かれて購入。
私は1966年、大学卒業と同時に日豪合弁の真珠会社に採用され、豪州北端の島、木曜島分場に赴任。そこで9年半働いた。子供の頃から空手の修行をしていた私は、島でもクラブを作って指導。その内空手への夢捨てがたく、思い切って退職。
21年前、ケインズに下って空手道場を開いた。私の人生への賭けだった。武道では食えない、と言われていた。運が良かったのだろう。今でも好きな空手をやって、何とか生きている。
支部道場も少しづつ増え、ケインズ周辺に数カ所、Innisfail, Townsville, Gympie, Nanbourと広がった。道場には様々な人間が入門してくる。私はいつも彼等に日本刀の所在を聞いた。
ところが、ポツリ、ポツリと、あちこちから出てくるのである。刀と共に旧日本帝国陸海空軍の遺品も見つかり、見過ごすにしのびなく、入手出来る遺品は少しづつ集めていった。日の丸寄せ書き、三八式、九九式歩兵銃等々、今私の手元には100点にも及ぶ遺品がある。
その男も門弟が紹介してくれた。10年程も前の事である。刀の持ち主は、ほとんどが旧豪州兵である。日本人を嫌っている連中も多い。その男は家具職人で、いかにも職人らしい頑固そうな面構え。取り散らかした彼の仕事場に入ると、見るともなく、壁に無造作に掛けられた古びた軍刀が目に入った。身は大戦中に大量生産された、いわゆる昭和刀、だったが、安く譲ってくれたので購入。
男は無口そうに見えたが意外にも話好きで、仕事をしながら戦時中の思い出話をしてくれた。私も買った刀を手に、座り込んでしまった。
「ニューギニアは俺達勝ち戦だったでョー、時間があった。こんな刀、たくさん作ってヤンキー共に売りつけたもんよ」
エッ、と思った。シドニーで見つけた奇妙な刀はその後ケインズで二振り、Innisfailで一振り見つけていた。刀の勉強をするにつれ、その刀が焼きの入っていない似非刀とは分かったものの、終戦前の物資のなかった頃、刀も不足していた為、有り合わせの材料で形だけでも整えたものではないか、と思ったりしていた。
「ヤンキー共はョー、俺達より何倍も給料を貰っていやがった。いつもウィスキーを飲んでョー。野郎共、戦場の土産物にするってんで、ジャップの刀を取りあっていたよ。そんなら俺達で作って、ヤンキーに売ってやろうじゃねェか」
材料は破壊された軍用ジープのスプリングを使用。軍隊だから様々な職人もいる。鍔にいたる何から何まで、「全部俺達が作ったよ。能のない奴らは、ブッシュの中に入って、ゴアナやヘビの皮集めよ」。
そうだったのか。それで何となく奇妙な感じの日本刀の説明がつく。あの日本刀は、豪州兵が小遣い稼ぎのために自分達で真似て作り、アメリカ兵に売りつけた、豪州刀、なのだ。
「俺達はヨ、それでウィスキーにありつけたもんよ」
豪州刀の製造は、恐らく日本軍の攻撃がなくなった終戦前後の頃だと思う。それにしても戦場で日本刀を作ってウィスキーに化けさせた豪州兵の発想は、殺伐な戦場でこんなトボけた詐欺の話もあったのか、といかにも豪州人らしい面白い秘話だと思った。
3年程も前、日本で有名な政治評論家の竹村健一御夫妻が、ケインズに来られた事があった。お会いするチャンスがあった私は、氏に豪州刀の話をしたところ大変興味を持たれ、個人の家には来られる人ではないと聞いていたが、わざわざ私の家まで足を運んで下さった。
氏は豪州刀と日本海軍が第一回のダーウィン爆撃に使用した爆弾に大変興味を持たれ、何枚もその写真を撮って帰られた。日本ではその事を色々と話題にされたそうである。
戦後50年、軍刀や遺品は歴史の彼方に消えゆく物。かっての敵国、豪州に30年以上も住むと、消えさせてはならないような気持ちがして、今も集めている。収集品をどうしよう、という意図もない。外国で死ななければならなかった日本人。それも、お国の為だ。どんな気持ちで死んでいったのだろう、と思ったりする。
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