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1997年12月号・其の26 真珠も自給自足

「何だ。こんな珠か」

 プラスティックバッグに入った、70個余りの真珠を見せられた時、少し期待していただけに、正直言ってがっかりした。サイズも小さいだけでなく、色も悪い。

 真珠の評価は、サイズ、色、形、そしてキズの有無で決まる。妻に見せたら、チラッと見ただけで、「私しゃ、そんなボロ珠、いらないよ」あっさり一蹴されてしまった。

 先月、1年半振りで木曜島に戻った。30年も前、私が島にいた頃は、週わずかに2便しかなかったのに、今では毎日2便、ケインズから飛んでいる。30余人乗りの、いかにもローカル線である。2時間の飛行時間。

 私は飛行機が大嫌いだ。おまけに、小さなプロペラ機となると、落ち着いて乗っておられない。島には、いつ行っても良いのだが、飛行機がいやだから、なかなか重い腰が上がらないほどだ。

 島に行く前の夜は、何となく落ち着かない。翌日、上天気だと、ホッとする。飛行機に乗り込むと、すぐにビールを持ってきてもらって、天気の神様に乾杯。

 こんな日の機上から見下ろすバリアリーフの、何と美しい事。エメラルド色に輝いている。サンゴ礁の中に小さな無人のサンドケイが見えると、そこに降りたってみたい気持ちになる。

 木曜島はケープヨーク半島の先端、トーレス海峡に位置する周囲20キロ程度の小島である。明治の始めから、日本人が採貝事業のダイバーとして出稼ぎに来ており、戦前は、日本でアラフラ景気と言われたほど、日本人で栄えた島である。

 2千人の日本人町があったが、第二次世界大戦の勃発と共に、全員NSW州の捕虜収容所に送られ、日本人町は、豪州軍の手により完全に破壊されて、その歴史の幕を閉じる。

 戦後、豊富な真珠貝資源の為、日本の技術を導入して、新たに養殖真珠の島として再出発、隆盛を取り戻す。私が島に渡ったのもその頃で、一時期は真珠産業一色の島だった。

 1968年頃、母貝の大量弊死が、大型タンカー座礁事故の尾を引いて数カ月後に発生。決定的な決め手のないまま、各社の養殖場は次々と閉鎖。現在では、わずかに日系の養殖所が2ヶ所の計4ヶ所が、かろうじて真珠産業の伝統を保っている。

 その1ヶ所は、木曜島の隣島の金曜島の一部をリースして、1人で頑張っている私の友人の養殖場である。私も経営に少し関与しているので、今でも時々島へ戻る事が出来る。
「サァ、昔とった杵柄。松本さんも挿核施術をして下さい」

 2年も前の事だ。300貝の母貝をもらって、自分で核入れをした。目も遠くなっているし、真円真珠の挿核施術は退職以来20年もやった事がなかった。技術者の腕が悪いと、挿核しても貝が核を吐き出してしまう。

 浜揚げまでには、貝自体が自然弊死することもあり、結局2年後の今日、何とか物になったのは、300の手術貝の中から70個余りの珠が取れただけだった。恐らくこれは私が最後に出した珠だから、良いのがあったら妻と娘に記念の指輪でも残してやろうと思っていたのに、捕らぬ狸の何とやら。残念。

 私の友人は島民を1人雇って仕事をしているのが手が足りず、丁度その時私の道場にワーホリの性分の良い若者が入門してきたので、彼の希望で養殖場を世話してやった。

 養殖場の仕事は肉体労働だから、きつい。そんな仕事に3ヶ月も堪えるような根性のある若者は、今時少なくなってきた。むしろ女の子の方が、ちゃっかりとしっかりしているように見える。仕事はきついが、自然相手の3ヶ月の生活。日本に住んでいたら、いや豪州に住んでいても、一生こんな経験は出来ない事請け合い。

 私はこの島で9年半を過ごした。退社してケインズに下り、私の夢を懸けた空手道場を開いたのは、もう22年も前になる。自給自足のような島の生活で私が学んだのは、自然、というものの偉大さのみならず、自分の生き様、でもあったような気がする。

 会社や他人に依存する事なく、自分の力で自分の好きな道を切り開いて生きる気概とその覚悟。島の生活は、人間の人生にとって真に大切な物は何であるのか、その確かな価値観を私に与えてくれたように思う。

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