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1998年3月号・其の29 WANTED
「センセイ、私を覚えていますか」
受話器からキンキンと響くような、子供の声だった。その声に聞き覚えがあったものの、今一つ思い出せない。
「リヤですよ。リヤ」
それでもまだピン、と来ない。
「リヤ・デュトンですヨー」
それで分かった。彼女が私の道場で稽古していたのは、もう4、5年も前になる。子供にしては、うまい空手をしていた。稽古に戻って来たい由。私は複雑な思いでその声を聞いた。
その、つい数日前だ。朝の稽古中に、一人の男が道場に入って来た。見学かと思ったが、人相風体からして空手を稽古するような男ではない。門弟達に稽古を続けさせて会ってみた。
「お前さん、モーリスを知っていなさるかい」男の話し振りと油断のない目付きから、人生の裏街道を歩いてきた男の、独特の臭いがした。同じ臭いを持つ男を知っていた。あのモーリスだ。男は私の様子から、彼の質問が的を射た事を敏感に感じとったようだ。
「モーリスが麻薬を売買しているのを、知っていなさるかい」
知っていた。空手の道場をやっていると、あちこちから色々な地元の情報が入ってくる。モーリスを最後に見たのが4、5年前。その時まで数年間、私の道場で稽古をしていた。
入門してきた時は、まず絶対に続かないと踏んでいたが、感じるところがあったのだろうか。熱心に稽古に来る。その内態度も徐々に良くなり、私を見ると何処でも、直立でキチンと日本語で挨拶する。道場の催し物にも積極的に協力し、彼の妻子も入門して、これがあのモーリスか、と思う程の変わり様だったが、私には彼の体の何処かに潜む無法の臭いを、時折フッと感じる時があった<br> B
もしあの仕事中の事故で背骨を傷めなかったら、彼はまだ妻子と共に、私の道場で稽古を続けていたかも知れない。大した事故ではなかったのだが、失業保険で生活するようになって、怠惰な面が顔を出してきた。
「あの野郎が麻薬を売る時や人を威す時は、必ずお前さんの名前を使うんだぜ。マツモトは俺のベストフレンドで、空手はブラックベルトだって、ね」
なかなか真面目に私の事を宣伝してくれているらしい。空手は少し使えるようになっていたが、熱心にやっても今一つ彼の性格に納得出来なかったので、茶帯の審査を落とした事がある。その時のモーリスの不満気な様子から、私の直感が間違っていなかった、と思った。
その男もモーリスに何か恨みでもあったに違いない。かと言って腕っ節ではかなわない。だから私に会いに来たのだ。
「モーリスには釘を刺した方がいいぜ。あんたの道場の名前にも良くネェし、その内ポリ公が、お前さんに会いに来るぜ」
そう言い残し、肩をゆすって帰って行った。
空手の道場のように、日本を振りかざして一人で豪州で生きていると、中傷には慣れているものの、それでも気持ちのいいものではない。道場の財産は人脈である。こんな時にはポリスの門弟もいる。
「ビックリしましたよ、センセイ」
翌日、ポリスのスコットが道場に寄ってくれた。モーリスの記録を調べると、「指の先から肩の付け根位までありましたよ」
腕の長さ程、モーリスの犯罪歴が残っていたそうだ。彼には道場に来る前に、すでに前科があった。道場に来なくなってから、窃盗その他で数回、御用になっている。彼を捕まえたポリスにも「俺はマツモトのベストフレンドだ」まったく無意味な啖呵を切ったそうだ。現在は麻薬売買の容疑で「WANTEDですよ」指命手配中だ。
世の中、力でしか物を分からせる事が出来ないタイプの人間もいる。モーリスもその類の人間だったのだろう。
道場の入口に小さな人影が見えた。数年振りに見るリヤだった。オズオズと道場に入り、見物席の端に腰かけた。稽古に戻りたい、という彼女を、私が見学だけに留めておいたのだ。
3日目に彼女をクラスに入れた。動きの癖は以前と同じだったが、練習態度に荒みが感じられた。稽古を止めてからここ数年の、彼女の生活振りが分かる思いがした。リヤはモーリスの娘である。14歳。モーリスと母親は、現在アリススプリングに仕事に出かけていると言う。逃げたな、と思った。簡単に居場所を私に話す事から考えると、リヤはモーリスがWANTEDである事を知らないのに違いない。
「子供に罪はないしね」と妻も言う。
これから難しい年頃だ。遅かれ早かれ、リヤに父親の悪が分かる。その時に空手と私の道場が、少しでもリヤの気持ちの支えになってやらねば、と思ったりしている。
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