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エッセー

岩田軍医のお箸

2007年09月10日

 クランダに住んでいた豪州軍の一指揮官であった退役軍人に、松本先生が軍刀とともに譲ってもらったお箸。[ニューギニヤ上陸記念 岩田 昭和十八年九月三日]の彫り文字が見られる。ブラックパームという木でできており、まだ日本軍が優勢であった頃、軍医であった岩田氏が手慰みに小さなナイフを使用して自分で作った物と思われる。
先の退役軍人が語ったところによると、その後日本軍が劣勢になり、捕虜に取られるのを苦とした岩田軍医は隊員の首を刎ね、最後は自らの命を絶ったとのことである。ただし、「軍刀の切先の刃こぼれの状態からすると、野戦病院にいた負傷者が寝ている間に軍医が刺し殺したのではないか」と松本先生は推測する。

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日章旗の寄せ書き

2007年09月10日

 25年程前、松本先生がゴードンベールの元従軍兵士から譲り受けた日章旗。ニューギニアから持ち帰ったものだという。旗とともにもらった日本刀がとても良い刀だったことから、持ち主は将官レベルの方であったと思われる。  当時、戦地に赴く兵士のために、知人が旗に寄せ書きをするのは珍しいことではなかった。この旗には、「矢部大作君」「禧武運長久」「東京市大森区大森八丁目4035興亜製作所 渡辺正夫」「砕身奮闘」といった文字が見られる。

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日本軍の爆弾の一部

2007年09月10日

 ダーウィンが日本軍に爆撃された時に残された爆弾の一部。「飛行場に務めていたオーストラリア人の知り合いが、倉庫の屋根裏の修理をしている時に突然爆撃が始まって、命からがら逃げた、と話していた」と松本先生。1942年2月のことである。真珠湾攻撃のように、まったく不意打ちの攻撃だったのだ。
この爆弾のテールは、キュランダに住んでいたある人がわざわざダーウィンから持ち帰ったものだ。

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特攻隊員が身に付けていた短刀

2007年09月10日

 ある侍がお城に途上中、馬ごと堀に落ちてしまったのに、かすり傷だけですんだ。そのとき、その侍が持っていたお札が「サムハラ」で、以降、危険な目に会わない安全のお札として定着していったと言う。
松本先生の知り合いがシドニーで見つけたこの短刀にも「サムハラ」の字がしっかりと彫られている。戦地へ赴くにあたって造らせたものなのだろう。首から下げるようになっており、こうしたお守り刀は戦争中、兵士のために主要な神社で売られていた。この「サムハラ」を身に付けていた特攻隊員の安否は今は知る由もない。

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陣中電話

2007年09月10日

 ある豪州兵がニューギニアから持ち帰ったもの。九二式野戦用有線電話機と呼ばれ、昭和7年に制定され、終戦の年まで、現在エレクトロニクス業界の大手メーカーが製造していた。戦場での味方同士の連絡に使われ、電話機同士は電線でつながっていた。双方向通信はできないので、レバーで送受信を切り替える。副受話器は戦闘中など騒音のひどい所で両耳に当てて使う場合と2名で聞く場合を想定して付けられている。
写真左はオーストラリア製の陣中電話。受話器や全体の造りを見ると、日本の電話より技術が発達していたのがうかがえる。

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日本刀

2007年09月10日

 この刀は、松本先生の知り合いの、豪州軍軍医であった人から授かったもの。
ボルネオで行われた降伏調印式が終わった際、そっと1本持ち帰ったものだという。軍医だった彼は、治療で使う糸と針、そして包帯で袋を作り、その中に刀を隠して豪州へ帰る船の中でもベッドのマットレスの下に置いて運んで来た。
よくみると袋には血の後も残っている。グリースをぬぐい取ったらきれいな刀であった。フサの色(青と緑)からすると、将官クラスの人の持ち物であったことが伺われる。

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千人針

2007年09月10日

 写真はニューギニア、ラバウルの捕虜収容所から集められたもの。千人針は出征兵士が無事に帰還できることを祈って作られたもので、国防婦人会が中心となって街頭に立ち、通行人に頼んで千人の人から一針づつ縫い付けてもらい、兵士に贈ったと言う。五銭コインが縫い付けてあるのは、弾避けの願いとともに、五銭(ごせん)は「死線(しせん〜四千)を超える」という願いがこもっているため。この千人針は血に染まっていないから、持ち主には、願いが届いたのかもしれない。

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家族写真

2007年09月10日

 今回ご紹介するのは、静岡からお越しの山本さんの感動のストーリー。オーストラリアでも、全国紙やテレビで取り上げられた。

話は山本(旧姓 芹澤)節子さんが10才の時、出兵する叔父様と一緒に撮影した記念写真に始まる。
「生きては帰れないから家族写真を、ということだったんでしょうね。当時18才だった叔父は、一緒に住んでいたこともあって私を可愛がってくれてました」
山本さんは、最後のお別れの面会のことも鮮明に覚えている。
「祖母と一緒に行きました。人参を刻んだものを巻いたのり巻きなど、折に入れた料理を持って。当時できる精一杯の御馳走だったんでしょう」
その後、出征した叔父様は、ニューギニアで消息を絶ってしまう。

ジャングルに逃げて行く日本軍が去った場所に、引き裂かれた家族の写真があった。前日は雨だったのに、濡れることなく残っていたと言う。
あるオーストラリア人兵士が、この写真を拾い、一つ一つをつなぎ合わせ、一枚の写真として50年にも渡って保管していた。
この写真こそが、山本さん一家の記念写真だった。その後、ブリスベン在住の日本人女性、ケアンズの松本氏を経て、邦人誌に載った記事を読んだ九州在住の方が、写真に写っている小さな名前だけを頼りに日本全国を探すという驚きの展開。ついに、この1枚は奇跡的にご一家のもとに返ることになった。
「ちゃんとしたお葬式もしていない私たちとしては、この写真が本当の遺品のように思えました」
山本さんは、写真を取っておいてくれた方に会ってお礼をしたいと夢にも見るほど強く願うようになり、今回それが実現したのである。
ビルさん(91)、セイラーさん(85)はともにお元気で、まさか見つかるまいと思っていた写真の主がわかったことに驚きを隠せなかった。
「お互いに泣いてしまう程、劇的な対面でした。日本人は敵だったのに、お孫さんまで呼んで歓迎して下さり、私達は皆家族だ、とおっしゃって下さって」
国同士の戦いであって、個人は殺し合いたくなかった。敵であっても家族がいるのだ…と思うと写真を捨てられなかったのだという。
「保管して下さったのはもちろん、骨を折って探して下さった方々もいらした訳で…人間って捨てたものじゃないなと思います。本当に感謝しています」
「家族の心の中では、まだ戦争は終わっていないのです。歴史を風化させず、若い人々の犠牲があってこそ、今の日本があるということを覚えておくべきではないでしょうか」。

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葉書

2007年09月10日

 海軍の軍刀とともにケアンズで見つかった軍事郵便。フィリピンの派遣部隊から濠北派遣部隊宛に投函されている。なぜケアンズから出て来たのか、今となっては知る由もない。

濠北派遣鯉第五一七三部隊本部

桶口教官殿

拝啓 久しく御無音に打ち過ぎ致して居ります
教官殿御健在でありますか 自分事益々元氣
旺盛として御奉公に邁進致して居ります
故御休心の程御願ひ致します
次に自分事 現在 當部隊に在ります
る事御報告申し上げます
大政本兵長への例の件確實にお届け致
しました では失禮致します
教官殿の御健在をお祈り致します
   敬具

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野砲照準器

2007年09月10日

箱に収めて携帯していたと見受けられる、野砲の照準器。砲弾を発射させる前に標的の位置を確認するために使われたものと思われる。

ミッションビーチの人から松本師範が譲り受けたもの。箱の扉の内側には緻密な作りのドライバーなども備え付けられている。

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サーベル

2007年09月10日

 1886年頃、日本初の騎馬兵が使ったとされるサーベルは、馬に乗りながら扱うために長い。 日露戦争にも使われたこの刀は、どうやら第二次世界大戦でも依然使われていたようである。
ニューギニアのラバウル捕虜収容所から集められたのが写真右のサーベル。
左は、中国製で、日本のものをほとんど模倣したのがわかる。日露戦争での日本の奇跡の理由を、このサーベルにも見たのだろうか。

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軍票

2007年09月10日

 日本軍がフィリピンを支配したときに発行した紙幣(軍票)。
「THE JAPANESE GOVERNMENT」と書いてあるが、貨幣の単位はペソだ。戦前はアメリカ系の自治国であったフィリピンに、『アジア解放のための戦いだ。日本軍が先頭になって闘うから、フィリピンの人々も協力してくれ。』と日本軍が侵攻する。
しかし40年間アメリカ型の民主主義教育を受けたフィリピ人には、天皇崇拝は結果的に全く受けいれられなかった。1942年5月、日本軍は緊急紙幣流通禁止令を出し国内を大混乱させ、軍票を乱発してフィリピンの貨幣経済を破壊した。3年間に物価が100倍になり、円・ドル・金と交換できない軍票は『おもちゃ』と呼ばれたと言う。

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日本上陸記念

2007年09月10日

 ニュージーランドで見つかった小さな記念品。上に穴があるのは、チェーンを通してネックレスにしたのだろうか。富士山、塔と言った日本的な彫り物が施され、裏には In Memory of Landing in Japan 1946 とある。
戦後、占領軍が日本に降り立った時に配られたものと見られる。
占領軍と言うと、マッカーサー率いるCHQをまず思うが、1946年2月から中国・四国地方はアメリカ軍にかわって英連邦占領軍(イギリス、オーストラリア、 ニュージーランド、インドから派遣。主力はオーストラリア軍)に支配されていた。
多い時には人数が約37,000名に達していたと言う。同軍は作戦上は連合国軍最高司令官の指揮下におかれながら、独立した軍団として存在した。この記念品は、元英連邦占領軍がニュージーランドに持ち帰ったものかもしれない。

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2007年09月10日

  第二次世界大戦中、日本軍の捕虜施設があった、ラバウルに勤めていた元豪州軍より、受け渡された手ぬぐいの数々。
勤務先で、捕虜だった日本軍人と仲が良くなり、これらの絵をもらってきたのだという。1946年とあるので、戦後捕虜に取られていた際に描いた物だろう。
手ぬぐいが足りなくなったのか、包帯に描かれたものも。ラバウル富士や、日本の女性といったモチーフと共に雅号"佳心”が。捕虜の生活には多少余裕があったのだろうか、と想像させる品である。

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旧軍刀

2007年09月10日

  明治維新の後、日本政府は西欧諸国に追い付こうと、陸軍はフランス、海軍は英国方式を採用した。士官の軍刀も従来の日本刀の外装を変え、サーベル式を採用し、古来の日本刀身を仕込んだ。これを旧軍刀、という。
写真の旧軍刀、1904年の日露戦争に使用。この凱施した士官の孫が、第二次大戦中召集され、出征する事になった。彼は祖父の旧軍刀の刀身を98年式軍刀拵に再使用(新軍刀)。新しい外装が完成し、イザ出征、という時、終戦になった。以来この未使用の新軍刀は、戦後60年以上そのまま眠り続けた。
刀身は天和年間(1681-1683)の物。私はこれを今年、偶然に入手する機会を得た。衣装2つに体は1つ。由来のあるこのような品が豪州に住む私の手元にまでやって来る時代になった。戦後は歴史という大きな流れの中に、否応なく、流され始めたようだ。

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特攻鉢巻きと自決用短刀

2007年09月10日

 大戦中、陸海軍を通じ、特攻で死んだ人達は6千を越える。軍の無謀でずさんな作戦計画で、消耗品のように死に追いやられた。戦後、これらの人たちは、米の占領政策と180度態度を急変させたメディアを媒体として、戦争犯罪人とか無駄死と決めつけられた。若者達は軍の為でも天皇の為でもない。彼らの本当に大切な人、家族、恋人達を守る為に死んだ。軍の方針、米の占領政策、特攻の若者達と巻き添えで死んだ民間人の現代史が分かると、戦争が本当に嫌になる。

血染めの特攻の鉢巻き。特攻隊の自決用短刀は、朴の木の白鞘で作られ、ハバキも金属ではなく、木製だった。この短刀は白鞘の作りが違うので、特攻隊員のものではない。鉢巻きの、神風、の字体が、私には何やら現代の印象をうける。本物であればいいのだが。

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KokodaからのWallet

2007年09月10日

 豪州に住む日本人に、知っておいてもらいたい地名がある。ココダ・トレイル。1942年、珊瑚海海戦とミッドウェー作戦の失敗で制海権を失った日本は、PNGの北部、ブナ地区に上陸し、オーウェン、スタンレー山脈を越えて、ポート・モレスビーに背後から迫る作戦に出る。
ココダ村からオワーズ・コーナーまでの山越えの難所200kmを、ココダ・トレイルと呼ぶ。豪州人にとって第一次戦ではガリポリ、第二次戦では、ココダと、彼等のナショナリズムを刺激する地名なのだ。
この手作りのサイフ、激戦地ココダから生還したDiggerから入手した。サイフの中に、祝入 、柴田和男君、と書かれた小旗。サイフの上には、撃ちてし止まん、のスローガンの刺繍がある。友人からの送別の品、かと思う。ニューギニア戦では、12万人以上の日本軍兵士が死んだ。これはケインズの人口に匹敵する。

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ゼロ戦13ミリ機銃弾

2007年09月10日

「そのゼロ見つけた時、ウソじゃネエかと思ったゼ」 ジャングルの隙間に、ポッと空いたような草原だった。ゼロ戦は、胴部や翼にアチコチ穴が開いていたものの、ほぼ全型を留め、まるで滑走路に待機しているかのように機首を空に向け、眠っていたという。
ニューギニア北部のウィワックで、戦闘機を集めていたヨ、という妙な男と知り合ったのは、もう25年も前になる。多分被弾したゼロ戦が、草原を見つけて不時着したのだろう。パイロットはどうなったろうか。その男の持っていた日本刀を見てやったので、そのゼロ戦に残っていた機銃弾を御礼にくれた。31年前、ニューギニアが独立した時、彼の集めた戦闘機は、「全部アイツらに取られちまったゼ」 写真の実弾は、ゼロ戦63型13ミリ機銃弾。一つは薬莢部の腐蝕がひどい。持っていると危ないかな、とチョット心配。

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ドクターの軍刀と刀袋

2007年09月10日

ドクター、シリル・スウェインは第二次大戦中、豪州軍軍医としてボルネオにて参戦。その折、捕虜になっていた日本軍将校の傷の手当をしたという。

その男、英語が少ししゃべれた、というから、たぶん学徒出陣兵だ。終戦になり、その将校と別れる時、彼は泣いて別れを惜しみ、彼の軍刀をドクターに送ったという。
ドクターは豪州への復員船の中で、病室の包帯を傷口を縫合する手術針で縫い、刀袋を作った。軍刀は当時の姿のまま、私の手に渡るまで、戦後を眠り続けた。
写真は日本陸軍九八式軍刀。柄頭の刀緒の色で、官位が識別出来る。この刀緒は茶色と青。尉官の持ち物だ。

袋の端の方には、今でも血痕がハッキリと残っている。この尉官、生きていれば80才と少し。あり得る話だ。

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