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エッセー, 遺品が語る日本

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2007年09月10日

  第二次世界大戦中、日本軍の捕虜施設があった、ラバウルに勤めていた元豪州軍より、受け渡された手ぬぐいの数々。
勤務先で、捕虜だった日本軍人と仲が良くなり、これらの絵をもらってきたのだという。1946年とあるので、戦後捕虜に取られていた際に描いた物だろう。
手ぬぐいが足りなくなったのか、包帯に描かれたものも。ラバウル富士や、日本の女性といったモチーフと共に雅号"佳心”が。捕虜の生活には多少余裕があったのだろうか、と想像させる品である。

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旧軍刀

2007年09月10日

  明治維新の後、日本政府は西欧諸国に追い付こうと、陸軍はフランス、海軍は英国方式を採用した。士官の軍刀も従来の日本刀の外装を変え、サーベル式を採用し、古来の日本刀身を仕込んだ。これを旧軍刀、という。
写真の旧軍刀、1904年の日露戦争に使用。この凱施した士官の孫が、第二次大戦中召集され、出征する事になった。彼は祖父の旧軍刀の刀身を98年式軍刀拵に再使用(新軍刀)。新しい外装が完成し、イザ出征、という時、終戦になった。以来この未使用の新軍刀は、戦後60年以上そのまま眠り続けた。
刀身は天和年間(1681-1683)の物。私はこれを今年、偶然に入手する機会を得た。衣装2つに体は1つ。由来のあるこのような品が豪州に住む私の手元にまでやって来る時代になった。戦後は歴史という大きな流れの中に、否応なく、流され始めたようだ。

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特攻鉢巻きと自決用短刀

2007年09月10日

 大戦中、陸海軍を通じ、特攻で死んだ人達は6千を越える。軍の無謀でずさんな作戦計画で、消耗品のように死に追いやられた。戦後、これらの人たちは、米の占領政策と180度態度を急変させたメディアを媒体として、戦争犯罪人とか無駄死と決めつけられた。若者達は軍の為でも天皇の為でもない。彼らの本当に大切な人、家族、恋人達を守る為に死んだ。軍の方針、米の占領政策、特攻の若者達と巻き添えで死んだ民間人の現代史が分かると、戦争が本当に嫌になる。

血染めの特攻の鉢巻き。特攻隊の自決用短刀は、朴の木の白鞘で作られ、ハバキも金属ではなく、木製だった。この短刀は白鞘の作りが違うので、特攻隊員のものではない。鉢巻きの、神風、の字体が、私には何やら現代の印象をうける。本物であればいいのだが。

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KokodaからのWallet

2007年09月10日

 豪州に住む日本人に、知っておいてもらいたい地名がある。ココダ・トレイル。1942年、珊瑚海海戦とミッドウェー作戦の失敗で制海権を失った日本は、PNGの北部、ブナ地区に上陸し、オーウェン、スタンレー山脈を越えて、ポート・モレスビーに背後から迫る作戦に出る。
ココダ村からオワーズ・コーナーまでの山越えの難所200kmを、ココダ・トレイルと呼ぶ。豪州人にとって第一次戦ではガリポリ、第二次戦では、ココダと、彼等のナショナリズムを刺激する地名なのだ。
この手作りのサイフ、激戦地ココダから生還したDiggerから入手した。サイフの中に、祝入 、柴田和男君、と書かれた小旗。サイフの上には、撃ちてし止まん、のスローガンの刺繍がある。友人からの送別の品、かと思う。ニューギニア戦では、12万人以上の日本軍兵士が死んだ。これはケインズの人口に匹敵する。

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ゼロ戦13ミリ機銃弾

2007年09月10日

「そのゼロ見つけた時、ウソじゃネエかと思ったゼ」 ジャングルの隙間に、ポッと空いたような草原だった。ゼロ戦は、胴部や翼にアチコチ穴が開いていたものの、ほぼ全型を留め、まるで滑走路に待機しているかのように機首を空に向け、眠っていたという。
ニューギニア北部のウィワックで、戦闘機を集めていたヨ、という妙な男と知り合ったのは、もう25年も前になる。多分被弾したゼロ戦が、草原を見つけて不時着したのだろう。パイロットはどうなったろうか。その男の持っていた日本刀を見てやったので、そのゼロ戦に残っていた機銃弾を御礼にくれた。31年前、ニューギニアが独立した時、彼の集めた戦闘機は、「全部アイツらに取られちまったゼ」 写真の実弾は、ゼロ戦63型13ミリ機銃弾。一つは薬莢部の腐蝕がひどい。持っていると危ないかな、とチョット心配。

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ドクターの軍刀と刀袋

2007年09月10日

ドクター、シリル・スウェインは第二次大戦中、豪州軍軍医としてボルネオにて参戦。その折、捕虜になっていた日本軍将校の傷の手当をしたという。

その男、英語が少ししゃべれた、というから、たぶん学徒出陣兵だ。終戦になり、その将校と別れる時、彼は泣いて別れを惜しみ、彼の軍刀をドクターに送ったという。
ドクターは豪州への復員船の中で、病室の包帯を傷口を縫合する手術針で縫い、刀袋を作った。軍刀は当時の姿のまま、私の手に渡るまで、戦後を眠り続けた。
写真は日本陸軍九八式軍刀。柄頭の刀緒の色で、官位が識別出来る。この刀緒は茶色と青。尉官の持ち物だ。

袋の端の方には、今でも血痕がハッキリと残っている。この尉官、生きていれば80才と少し。あり得る話だ。

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vol.45「なんで海外に住むことになったのか?」

2007年09月10日

7月に伊豆に行ってきた。伊豆で潜るのは10年以上ぶりだったが、約2週間毎日温泉・講習・ダイビングと満喫してきた。ケアンズに来て以来、仕事はオーストラリアが舞台と突っ走ってきたけれど、今回チャンスがあり日本での仕事となったわけである。いわゆるインストラクターの逆輸入。

40歳を過ぎケアンズに住んでダイビングの仕事をしているなんて20年前には想像していなかった。そもそも海外に住もうなんて考えは全くなかったわけで、人生とは不思議なもんである。こうなった原点を思い出してみると、全ては大学に入る前に行ったセブ島ホームステイにある。その当時、セブ島と聞いてもどこの国かも知らず、とんでもない無人島に行くような気がしていた。スーツケースの中にはトイレットペーパーまで入っていたような覚えがある。今考えるととんでもない無知で偏見があったと恥ずかしいばかりだが、初めての海外旅行でもあったので結局トンチンカンな準備をして出かけていった。
その旅行は、「アジア自然塾」と言う団体が主催したもので、普通のパッケージ旅行とは違った。参加者は全て小学生が中学生。いろいろな問題を抱えた子供たちが海外の異文化に触れて何かを感じ取ってもらおうと企画されたものである。そんなツアーに、何も学校でも家庭内でも問題のなかった(たぶん・・)僕を母親が参加させてしまったのである。1週間あまりのホームステイであったのだが、少し年齢が高かったため僕とツアーリーダーは1軒の普通の家に泊まることになった。普通と言うのは、他の子供たちはフィリピンの非常に貧しい家族に振り分けられていたからである。キッチン・ベットルーム・ダイニングが全て一部屋で収まっているような家も多かったような気がする。玄関なんかは、腰をかがめないとは入れないようなところも多くあった。そんな中、僕が泊まった家はもともと地主の家系で、部屋もちゃんとベットもあり、シャワーやトイレなども何の不便もなく出来た(ただし、水は自分で汲んでこなければいけなかったが)。その家の両隣、向かい全てが親戚である。そこの娘さんが今の嫁である。母親にしてみれば、軽い気持ちでプレゼントした海外旅行だったのかもしれないが、僕にとって見ればそれが初の海外であり、カルチャーショックであり、出会いであり、そしてダイビング触れることになるきっかけでもあった。

そこから始まった日本国外への興味が、大学の休学・結婚・ダイビングへと続いていくことになり、気がつけばオーストラリアへの移住となったわけである。1年休学中にセブ島に住み、ダイビングのインストラクターまで取得し大学へ復学したときには、週末は全てインストラクターの仕事で明け暮れた。大学の就活なんかは無縁、教授には「退学したらフルコースやな」とまで言われていた(ちなみに浪人・休学・留年をしていたからである)。理系の大学を出ながら、卒業名簿の就職欄にはサービス業なんて書いてある。

ケアンズでワーキングホリデーの人を見ていると、昔の僕と同じような経験をしているんじゃないかなと思ってしまう。ワーホリの1年が、その後の人生のどれだけを占めていくのか。

僕の場合、そこから始まった海外生活は合計20年ほどになる。人生の半分だ。日本に帰るときは帰国と言うよりも海外旅行といった感じのほうが強い。渋谷に行っても道頓堀に行っても、完全に外人である。

写真は、大阪ミナミの法善寺横町。もちろん昔住んでいたころに行ったことがあるはずなのだがその記憶がない。知人に連れて行ってもらったのだが、ここで食った串焼きは最高だった。入り口のすぐ前の角にある4人も入ればいっぱいになる立ち飲みバーもかなり感動。バーマンのお兄ちゃんはオーストラリアに行ったことがあるらしく、ちょっと会話が弾んだ。

オーストラリアに住んでいるのは仕事のためである。どこまでこの仕事でやっていけるのかを試しているだけだ。海外で長くいればいるほど日本のよさが見えてくる。これからはケアンズに住みつつ、その日本のよさを楽しめるようなライフスタイルにできればいいなと考え中。永住権はとったけど、僕は市民権は取れないなぁ。どうしても日本のほうが好きだから、日本人でい続けるんだろうなと。そんな感じでオーストラリアと日本を移動中のダイビング小僧である。

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その44 おバレエ

2007年09月05日

 娘が生まれたらバレエを習わせたい、という夢があった私。バレエをしている人は、ちょっとした動きがエレガントで姿勢もすてきだから。自分にないものを子供に求める愚かな親の性とは知りつつ…。

幸い、バレエが何なのかはよくわかんないけど、ふわふわしたスカートをはきたい、という娘の意向とこちらの意向が一致し、見学に行くことに。

それまで、息子のラグビーや水泳や空手などの活動に慣れていた私にとって、スタジオのスイートな雰囲気は初体験。

ひらひらのレッスン服を着て、髪の毛も可愛らしくおリボンなどでまとめた女の子たち。この日は、ちょっとしたステップを習ったり、楽しく体を動かしている、という印象だった。

早速、コスチュームの店にも足を運んでみたが、「高っ!」。こんなの布を買ってきたら簡単に作れそうじゃん(でも私は裁縫ができない)。で、おもちゃのバレエシューズだけ買った。10ドルでやる気が出ればしめたものなのだ。

私のこういう性格を知っている日本の母から翌週には可愛い手製のチュチュが送られてきた…。

 
 

▲同じ教室に通うゆりあちゃんとにいなちゃんと。クリスマスの妖精役でした。

   

  念願のふわふわスカートも手に入り、さあ晴れてレッスンだ! ところが初日から、クリスマスコンサートに向けての集中練習になってしまったのである。一番 年少のクラスなので複雑な動きはないのだけれど、週を追うごとに先生のテンションが上がり、生徒の気が散ると親の見学も禁止に…。なんか、ただ事ではない な、とこのときから予感はあった。

娘は何度目かのレッスンの時、止めると大泣き。先生の言うバレエ用語がわからないのと、先生が怖いのが原因なようだった。

が、「動きだけ真似すれば大丈夫」と慰め、何とか普通に戻っていった。お友達がクラスにいたのも大きな支えに。でも本当は私がチュチュを日本に返しちゃうよ、と脅したのが効いたのだ。我ながらヒドい親だ。

その後は土曜、日曜、と集中レッスン。舞台の週はなんと水、木曜日も練習で、金曜は衣装をつけたリハーサル。はっきりいって親も子もクタクタである。本 気度100%だ。尤もリハーサルさえチケットを買った観客が入るのだから、先生の本気度が上がるのも無理はない。

前日は、仕事の後に舞台用のファンデーションや指定色のアイシャドウなどを買いに走った。「髪型は「クラシックバン」って書いてあるけど、それは何?」 ダンナに聞くと、「ホットクロスバン(イースターのパン)なら知ってる」。…こういう時、男親は使えない。そういえば、リハーサルの日、横にいた男性が娘 さんの白いシューズをピンクのクレヨンで塗っていた!「ピンクでないとダメなんだって?」と。うーん、厳しい。

周りのお母さんたちに助けてもらったお陰で、なんとか当日を迎える。時間をかけてメイクしてもらったのだが、会場でポテトチップを食べ始め、「口紅が落ちちゃうよ」と言ったら驚いて泣いてマスカラも落ちた…。

でも笑顔で舞台に登場した娘を見て、それまでの苦労が吹き飛んだ。親ってこんなものです。

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■その51「夏休みは退屈?」

2007年09月05日

 

▲授業の合い間も退屈?

 

 日本の子供達は、夏休み冬休みなどのホリデイはもちろん大好きだ。しょうがなくて塾に通うことはあっても、「早く学校が始まればいい」と思っている子は少数派だろう。
ところがオージーの子供達の中には、「早く休みが終わらないかな〜」とか「家にいるより学校に行きたい」と思っている子が多いのである。

ホリデイ中、うちの子供達には「boooooooooooooard(退屈だ〜)」という内容のメールが頻繁に送られてくるし、インターネットにログインするといつでもチャットルームに誰かいる。
近所の男の子は、「今日は遊べる?」と毎日のように玄関ベルを鳴らし、女の子はいつ訪ねてもコンピューターの前でチャットやゲームなどで時間をつぶしている。

 

受験戦争も塾通いもなく、スポーツも気軽に楽しめ自宅にはプールがあって広い庭で友達とも思いっきり遊べる、という恵まれた環境であっても、「夏休みがたいくつ」な理由は、どうもこの恵まれた環境が作り出しているのではないか、と思うのである。

広大な大地を持つオーストラリアでは、どこへ行くにも車での移動が必要になる。バスや電車はあまり発達していないし、学校の友達も自転車で行ける距離には住んでいない。
ショッピングセンターには車なら10分で行けるが、徒歩や自転車で行くのはほとんど無理。子供達がどこかへ行きたいときには、全ての移動が親の車での送迎になる。
もちろん学校への送迎は親の仕事。通学時間帯にはスクールバスの運行もあるが、親が共働きだったりすると放課後のお稽古事に送迎してくれる人はいないの で、結局家にいるしかない。同様に長い夏休みも1日中家で過ごすことになるのだ。

これじゃあ確かに退屈だ。日本なら土地が狭く人々が密集して生活しているので、友達の家だってセブンイレブンだって自転車ですぐの距離にあるし、バスや 電車も発達しているから映画館だって遊園地だって、友達と一緒に遊びに行けるのだ。

時間がたっぷりあるオーストラリアの子供達は、その時間を有意義に使うことができず、色々な時間の使い方ができるはずの日本の子供達は、塾通いで休みは暇なし。なかなかうまくいかないなあ。

 

 

Dorota:(語学学校教師。現在学校は日本からの学生で大忙し!)
■コメント:"You have to understand that Australia is a very new country and it’s very vast. Japan has had many years to develop their public transport system and Australia cannot compare to that. Cairns’ system is very wobbly if I may say so, so sadly it is hard for kids to do the same things as Japanese kids do if their parents work. Another point is that there are around 6 times more people in Japan as there are in Australia so their need for a transport system is much greater than Australia’s. So most Aussies prefer to have cars."
(オーストラリアは、建国してまだ間がないし、とっても広い国だということを理解してもらわなくちゃ。日本は長い時間をかけて交通手段を整備してきたけ ど、オーストラリアはそうではないわ。特にケアンズはひどいわね。親が共稼ぎの場合には、日本の子供達のように出歩くことなど、ほとんど不可能よ。オース トラリアの6倍もの人口を持つ日本は、それだけ移動手段が必要なので発達したわけでしょ。オージーはむしろ車の方が良い、と考えているのよ)

Aimee:(教育実習を終えてホット一息)
■コメント:"It was very hard for my mother because she would go to work early and not finish until after 7pm most nights. She couldn’t pick us up from school so we would go to after school care until she could pick us up. It was very expensive to send us to this school care but she did not want us at home by ourselves."
(母が私達の送り迎えをするのは、とても無理だったわ。だって朝早くから7時過ぎまで働いているのだもの。学校のお迎えには来られなかったから私達はいつ も学童保育に行っていた。費用も随分かかったようだけど、子供だけでお留守番するよりは良い、と考えていたみたい)

 

 

Cathy:(現在新居を建設中。「たくさんの日本人学生をホームステイさせたいわ!」)
■コメント:"Parents are always driving their kids somewhere, to sports or tuition or dance class. Sometimes you hear them joke that they feel like a taxi service. There is a sticker that I have seen on the back of cars that says ‘mums taxi’. On the topic of student’s workload, I think that it is very hard for some students because they are under a lot of pressure to study hard and do well at school and most of them have a part-time job as well. Some kids are very busy."
(スポーツ教室だろうが塾だろうがダンス教室だろうが、親は車で子供の送り迎えをしなくちゃいけないわけ。親はまるでタクシーの運転手みたい、と自分たち でジョークが言っているくらいよ。後部に「ママのタクシー」というステッカーを貼った車を見たことがあるわ。でも、子供の負担という面で考えると、そう いったことが子供のためになっているばかりではないと思うわ。学校では勉強のプレッシャーがあって、放課後はアルバイト。子供達は忙しすぎると思うわ)

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■その19「信号まで停電!」

2007年09月05日

 

▲ここはずっと停電中

 

 先日ニューヨークでの大停電が紙面を賑わした。こちらでは、システムがまだ未熟なためか、停電は日常茶飯事だ。
問題なのは、交通信号も"停電"してしまうこと。街の明かりは点灯しているのに、信号だけが動いていないこともしょっちゅうである。
工事や大災害の時を除いて、信号が動いていないのを見たことがなかった私は、それだけで焦ってしまう。それでもオージー達はパニックにもならず、普通に運転して特に問題も起きていないようだ。

私がよく利用する道にある信号も、故障したまま2週間くらい放置されていたことがあった。そこは繁華街だったので、人ごと(?)ながら事故につながらないかとはらはらしたほどだ。
交通量が多く、いたるところで渋滞している日本でこんなことが起こったら一大事!どころか大パニック!

 

John :(ダイビングのインストラクター。二児の父)
■コメント:"No problem really. Sooner or later it will get fixed."
(別に問題ないでしょ。だってそのうち直るんだから)

 

 

Bill:(元空軍のエンジニア。趣味はラジコン飛行機作り)
■ コメント:"When the traffic lights are out of order you often see a orange flashing light which tells us to take care. When the power is off at the traffic lights, we simply use our normal roads rules and give way to anyone on our right hand side."
(信号が故障しているときには、注意を促す点滅信号が点灯するよ。停電した場合には、右側優先のルールに基づいて運転すればいいんだよ)

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■その8「モーニングティーはいかが?」

2007年09月05日

 

▲なんと、エレガントな雰囲気

 

 こちらに来て驚いたことのひとつに、年輩のオーストラリア人の生活の中には、私が思っていた以上にイギリスの影響が残っている、ということがある。
たとえば、今でもモーニングティーとアフタヌーンティーの習慣がきちんと守られている。ティーの時間になると、テーブルにはレースのテーブルクロスがひ かれ、上品なカップとソーサー、お揃いの砂糖入れとミルクピッチャー、ティーポットなどが、さりげなく置かれる。手作りのビスケットやケーキは、店で買っ たものと違って、甘さが控えめでとてもおいしい。
あるご近所の年輩のご夫婦は、お客さんがいない時でもこのスタイルを変えていない、というから驚きである。

ところが…、次の世代(彼らの子供達)になると、テーブルセッティングなど全く気にしないようである。気にしないどころか、ひどい人になるとカップが茶 渋で真茶色でも平気でゲスト(の私)に出してくるので、飲むのに閉口したこともあった。
ちゃんとした家庭でも、ティーに呼ばれると今ではマグカップがほとんどである。いつの時代も「昔は、良かった」との声がよく聞かれるけれど、ゲストに呼 ばれる側としては、やはり昔ながらの、イギリス式がいいな〜と思う私は贅沢でしょうか?

 

 

Arja:
■コメント: "On my first Birthday after marriage, my mother in law gave me a tea set which included a little cup, saucer and a cake tray. The next year she gave me another one, but I think she realised that I didn’t use them because she stopped giving them !"
(結婚して最初の私の誕生日に、義母が小さなティーカップ、ソーサー、ケーキ皿のティーセット一式をプレゼントしてくれたの。次の年にも一組。でも、その 次の年からくれなくなったのは、私が(ティーセットを)使っていないのがバレたからかもね)

 

 

Edna :(掃除大好き、お料理手作り、主婦のカガミ)
■ コメント: "This is an old English tradition. I was brought up to sitting down to a beautifully prepared morning or afternoon tea. Nowadays, though, I don’t think that the younger generation can be bothered with such a tradition."
(これは、古い英国式の習慣よ。私も小さい頃には綺麗にセッティングされた午前と午後のお茶の席にしっかり座らされたわ。でも、最近の若い年代にとっては、こんな習慣は煩わしいだけだと思うわ)


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2000年11-12月号・其の42 ゆとり、という名の堕落

2007年09月05日

一、二年前、ある男から電話があった。日本刀を持っていたのだが、盗難にあったので、保険請求の為の見積も りを書いてもらえまいか、という。私も日本刀を集めているので、大切な物を無くした男の気持が分かる。気の毒だから、何とか助けてやりたいと思ったが、肝 心の刀が無い事には、値段が付けられぬ。刀は、ムネチカ、と言った。宗近か宗親。どちらも良刀で、その男の持てるような刀ではない。偽銘(偽物)だと思 い、一応最低限の見積もりをしてやった。
刀を盗まれたので、もし該当するような刀を見つけたら、知らせて欲しい、という虫の良い電話は、年数回もかかってくる。つい最近、ニ件。一件はタウンズ ビル。残りの一件。どうも男の声に聞き覚えがあるように思った。大概の事はすぐ忘れてしまうのに、何か、ポッと気になったりした事は、妙に記憶の襞の中に 残るものである。男、ウヘラウヘラと鼻にかかった薄っぺらなしゃべり方をする。もしかしたら、と思った。

私は25年、ケインズで空手道場をやって生きてきた。趣味で日本刀の勉強もしてきたので、その関係では、豪州内でも何となく知られているようだ。様々な問い合わせが、豪州各地から来る。

道場に顔を見せた男、やはりあの時の男だ。トニーと名乗った。目がチマチマ、と忙しく動く。

「お前さんに会ったのは、一、ニ年前だったナー」、と言うと
「ノーノーノーノー、10年位前のLONG TIME AGOでござんしたヨ」

ウヘラウヘラと、慌てて打ち消してきた。おかしいナ、そんなはずはない。この野郎、俺の記憶力をみくびったな、と思った。

日本刀を持っているのだが、保険をかけたいので見積もりをして欲しい、と言う。最初は盗難刀の保険請求、今回は持っている刀にかける保険の見積もり。刀 は又、ムネチカ。おかしい。この刀は盗難にあったはずだ。善意に解釈して、盗まれた刀が戻ってきたのかも知れない。刀を実際に持って来たら、値段を付けて やるよ、と言っておいた。

トニーはニ、三日して我が家に来たが、刀を持っていない。銀行に保管してあるので、すぐには取りだせない、と言い訳をする。この時ハッキリ、トニーは何かの目的の為に、私を利用しているのだ、と確信を持った。

「刀を見ずに、見積もりは出来ネエ相談だぜ」それ以後、ピタッ、と来なくなった。

GSTの導入で、今年の7月から税制が大きく変わった。自営業の国民全部が、税務署の為の税金徴集人となるようなこのシステムは、従来の帳簿の付け方 を、ガラリと変えてしまう。私も友人のボブから、MYOBファーストアカウント方式をすすめられ、毎週、彼から頭の痛いコンピューターの使用を習ってい る。

丁度彼が来て、コンピューターのキーを叩いている時、電話が鳴った。市内のコンピューターショップ。ある男が私の書いた見積もり書を持って来て、新しい コピーを作成して欲しい、との事だが、金額がどうやら勝手に書き直してある。それでいいのか、とコッソリ聞いてきた。

覚えがなかった。ファックスされてきたのを見ると、何と私がトニーの盗難刀に見積もってやった物。日付けは昨年の8月。書類の隅に、保険会社の処理済のスタンプが、ウッスラと見えた。ナル程ナー、と思った。

あの野郎、盗難という名目で私の見積もり書を利用し、保険詐欺をやったらしい。うまくいったので味をしめ、もう一度私の所に来たものの、私が見積もりを 出さなかったので、古い見積もりをコピーし直して、使用するつもりだったのだろう。犯罪人に甘い豪州の法律でも、保険金詐欺(INSURANCE FRAUD)は、すぐブタ箱入りになる程、かなり重い。

それにしても刀とは、ウメエ物に目を付けたナー。豪州人なら、誰も本当の価格は分からないし、保険会社としては、私の見積もりを信じるより手はなかった のだろう。コリャーあのウヘラのトニーに、一本やられたよ。あの嘘が見抜けなかったとは、私も何ともトロイ。まあ一応、保険会社にだけは連絡しておくか。

その後、トニーがどうなったのか、知らぬ。

しかし、最近軽犯罪が増加した。私の隣人も、つい最近やられた。犯人は16才のアボリジニー。この国の法では、17才以下は罪にならぬ。書類送検のみ だ。それも面倒で、やらないケースがほとんどだ。ガキもそれを知っているから、平気でやり放題。盗みに入ったガキをブン殴ったら、逆に少年虐待で罪になっ た、という笑えない笑い話もある。

詐欺も多い。結構巧妙になった。私は過去ニ回、一万ドル程やられた。トニーのような間の抜けた詐欺なら、まだ愛嬌があるものの、自分から生きる努力をしないで、他人から奪って楽しようと思う根性なんザア、とんでもネエ。

私の家にはライフル等の武器が沢山あるので、警報機は家全体にセットし、大きなガードドッグを放って、十分な用心をしている。結局、自分のテリトリーは、自分で責任を持って守るしかない。

政府のレポート等を見ると、豪州経済は上り坂、失業率も久々に低下した、という。

ソーカナー。豪ドルの国際的信用の無さ、とその価値の低さを見ると、そうは思えないし、実際には相変わらず低迷しているように思う。それでもこの国には、まだ十分のゆとり、がある。

簡単にもらえる失業保険で生きている若者の何と多い事。たるんだ学校教育。国情も考えず、平気でストをくり返すユニオン。この国のガンだ。不景気といいながら、ポーカーマシーン産業に消えていく金額の凄さ。贅沢な事だと思う。

ゆとり、というものは、誠に大切で何とも有り難いものだが、それにしっかりとしたモラルの土台が伴わないと、余裕があるが為に追い追いと曲がった方向に流れるものだ。

アメリカ、然り。日本、然り。オーストラリアよ、お前もか、となりかかってはいないか。

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2001年1-2月号・其の43 それからは、ボーナス

2007年09月05日

高校時代の親友、小池邦夫、からの便りが届いた。久し振り。松山東高校時代、小池は書道に、私は空手に情熱を燃やしていた。彼は東京学芸大書道部に入学したが、授業に失望して中退、苦労して、絵手紙、という分野を創始する。

絵手紙、は彼の造語。現在、日本絵手紙協会会長。売れっ子の有名人だ。3年前、ケインズにも来て、講習会を開いた。

私は東京水産大卒業後、日豪合弁の南洋真珠会社に採用され、豪州北端の木曜島分場に赴任。9年半在籍したが空手への夢捨てがたく、退社して1976年1 月、ケインズに空手道場をオープン。小池は大成して時流に乗ったが、私は空手をやって何とか生きてきただけだ。ただ高校時代からの夢を通して生きてきた人 生だけは、共通している。

小池兄。久方振りにて書状拝受。小生、相変わらず空手をやって、時代遅れの生き方をしている。お互い、もうすぐ60才。小生の生き様は、もう変えようがないし、今さら変えようとも思わない。稽古後のビールがうまい。そんな毎日であればいい。

先日、俺の道場の25周年記念クリスマスパーティを地元のリゾートでやった。参加230名。古い門弟達もやって来て、祝ってくれた。パトロンのケインズ 市長も、毎年必ず参加してくれる。有難い。十分な準備をし、テーブルの席順も、合う人間を考えて、ピシッ、と決め、リゾート側に前もってファックスしてた のに、幕が開くとどうだ。リゾート側の不手際で席がバラバラになり、何とか皆を席に付かせ、落ち付くのに40分もかかった。ところがフロアマネージャー。 手前ェ達には手落ちはネェ、と言い張って謝りもしネェ。カチン、ときたぜ。

ケインズは観光都市として売り出しているが、評判は今一つ。一度来るとそれまでで、リピーターが少ない。地元にいるんだから、行く先々で、ケインズの サービスの悪さは、鼻に付く程経験している。それでも以前に比べると、ズッと良くなったんだぜ。観る所も少ないし、ミヤゲ物もオリジナリティの乏しい、何 処にでもあるような物しか売ってない。

ケインズの良さは、ノースクィーンズランドの素朴さにある。だからこそ、遠路はるばるやって来た客には、少なくとも気分良く過ごせる位の従業員への温か いサービスの仕付けを、真剣に考えて欲しいと思う。来てくれ、と頼んでおいて十分のサービスの無いのは、まァ我慢が出来るとしても、客を不愉快にさせるな んざァ、詐欺みテェなもんだ。俺はもう絶対にあのリゾートには行かネェよ、となるのは当然だろう。

ところで正岡、脳梗塞だってナァ。そうか、俺達もう、そんな年になっているのか。もう少し正岡の様子が知りたい。回復を祈る。正岡が高校の時、俺に呉れ た刀の鍔(ツバ)、今も大事に持っている。あの時には、鍔の持つ良さ等まったく分からなかったが、今見ると、見事な透かしの面白い作品で、俺の愛刀に付け ている。昨夜、取り出して眺めたよ。もうあれから40年か。鍔を柄から外し、両手に挟んで擦った。鍔はこうするのが、一番ツヤ出しにいい。擦っていると、 俺達の高校時代の思い出が、両手の間からポロポロこぼれ出て、あの正岡のダミ声が聞こえてきたよ。

今年は2000年。不思議に良い事は一つもなく、悪い事ばかり続いた年だった。道場も今までで最低。でも最後にたった一つ、朗報あり。何処でどうなったのか、俺、表彰されたよ。

豪州連邦政府が、2000年、という年を記念して、各分野のスポーツの発展の為に貢献度の高い人物、又はコーチを今年の始め、豪州全土よりノミネート し、年間を通しての選考の結果、つい先月、北クィーンズランド域からは9名が受賞。ラグビー、ホッケー、水泳、サッカー、テニス、陸上等々、豪州でポピュ ラーなスポーツだけだと思っていたら、その中に何と、俺の空手が入ったよ。

空手の技術を、正しく指導する事自体難しいが、一番大切なのは、技術の背後にある日本の文化の伝達、という事だろう。子供には、キチンとした仕付けが大 切だ。今時のガキは、まったくやりたい放題。それを法律が保護してんだから、悪くなる一方だ。俺は今でも、何回言っても聴かないガキは、俺の体を張って ヒッパタく。母親がとんで来るぜョ。法律違反だもんな。それでも続くガキは、何とか物になるが、半分以上は道場に帰って来ない。地味な空手の稽古をコツコ ツと続けられるガキに、悪い子はいない。ハイスクールに入ると、皆優等生だ。それでアッタリ前だ、と思っている。

そんな俺の指導方針の道場が、国に認められた。本家本元の日本人でさえ、空手の師範と言えば、ヤクザか右翼位にしか見てくれない。そんな空手というスポーツを通して国に認識された事は、空手を知っているからこそ、凄い事だと思う。

俺は外国に出て来る日本人の全部に言いたい。日本には空手のみならず、外国で認められている素晴らしい文化が沢山ある。外国にいる間に外から日本を眺め、もう少し自分の国の良さ、というものを考えてみたらどうだ、とナ。

受賞は私にとって、25年目の良い区切りになった。私個人ではない。空手という日本の文化を通して、日本が認識された事だ、と思う。地元の小企業の経営が、徐々に難しくなっているように、道場を維持するのも簡単な事ではない。

来年2001年は、煩わしい道場運営は、信ずるに足りる門弟にまかし、私は自分の稽古をやりたい。60才まで後1年。最後の1年、私の空手人生の締め括 りとして、悔いのない稽古がしたい。それで体が動かなくなったら、立つ鳥跡を濁さず。アッサリと道場を閉めよう。

もし2001年の12月、26周年の記念パーティが出来たら、それからは、私の残る人生への、ボーナス、だ。

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2001年3-4月号・其の44 侠気

2007年09月05日

「見るのと聞くのは、大違い。いや、何とも気さくで、いい人でしたよ」

その夜、道場の稽古に来たギャリーが、私の顔を見るのを待ちかねたように、そう言う。目から鱗が落ちたような顔だ。さて、偏屈者の彼を心服させた女性…とは。

ワンネイション党々首のポーリンハンソンが、最初にケインズを訪問したのは、もう5年程も前になる。その時、彼女の護衛を担当したのが、武器携帯現金輸 送警備のアーマガード。マネジャーのピーターは、私の古い弟子。その関係で、彼の下で働いている連中も、私の道場の支部、と言える程、道場のメンバーが多 い。直接の護衛に選ばれたのが、ギャリーとクリス。ともに空手は二段の腕前。

ハンソン党首は、評判が悪かった。普通の民間人から立ち上がった彼女の事、言動の端々に、政治家らしからぬ過激な表現も多々ある。猫の目のような鋭い目 付きと重なって、マスコミへの当たりも手厳しく、それが独特のプライドを持つ彼等には、カチン、と来るのだろう。こぞって彼女の悪評を書き立てたし、それ が又、一般には彼女のイメージとして定着したように思う。

しかしナァ、ノラリクラリとしながらも、決してマスコミを敵に回さない政治家の多い中で、自分の言いたい事を喚いて嫌われているハンソン党首の方が、無知、非常識と非難されながらも、人間的には正直なのかも知れネェナー、と思ったりもする。

アーマガードのピーターが、私の道場に入門したのが、26年前。ガチャガチャとした男で、その上結構糞生意気。言いたい事を言う。私も道場を開いたとこ ろだし、その頃は血の気も多かった。豪州人なんかに負けてたまるか、と突っ張っていたものだから、この野郎、とピーターを怒鳴りつけるのが、習慣のように なっていた。ところがピーター、怒ってもひっぱたいても、相変わらず稽古にやってきて、懲りずにへらず口をたたく。

「今日は、いっテェなんでセンセイ怒ってくるかナァ、とビクビクしながら道場に行ってましたぜ」

そうとはまったく見えなかったけれど、今でも一緒にビールを飲むと、必ず当時の話になる。コラァ、ピーター!!と怒鳴りながらも、私自身の気持ちの中に、彼に対する奇妙な信頼感が湧いてくるのを、感じてもいた。

言いたい事は言うが、言うなりの行動力がある。荒削りでずぼらな面もあるけれど、真面目に物事を見詰める心も持ち合わせている。何よりも、人間的に信頼 出来る、という事で、Aussieは、He has his heart in right place.と、端的に表現する。私はこの言葉が好きだ。表面だけをうまく取り繕い、人間関係を自己の利益の為に、うまく利用しながら生きている日本人社 会とは、まったく正反対のキャラクター。以前はこんな本真物の豪州人〜Fair Dinkum Aussie〜が沢山いた。

1ヶ月前、西豪州の選挙が終わった。労働党の圧倒的勝利。GSTが原因である。クイーンズランドの結果も見えていた。これから連邦総選挙の結果も予測出来る。

20年程前、久々に労働党が政権を取って、以来15年。この間、国債は著しく増大、世界有数の借金国になる。おまけに社会保障の乱費で、働かない人間像 が増加。コリャヤバイ、と民衆の目がホンの少し目覚めて、リベラルに戻ったのが数年前。以来国債は大きく減少したそうだが、残る借金を片付け、膨大な社会 保障金をカバーしながら、国の財政を正常な基盤に戻すには、GSTしかない、として、よく踏み切ったものと思う。

確かに10%の出費は大きく、3ヶ月ごとのレポートは大変だ。しかし、その内慣れる。3ヶ月ごとに、正確に自分のビヂネスのポジションを知るのは、悪い 事ではない。それよりも、GST改革の結果が出るのは1年先、いや2年先かも知れない。次の総選挙で労働党が天下を取っても、GSTがなくなる訳ではな い。目先の損得で動くのは、豪州人も日本人も変わらないけれど、ここは一つ武士の情け。ハワード首相にGSTの結果を出させてやりたい、と私は思う。

「センセイ、又立ったぜヨ」
特徴のあるしわがれ声はピーターである。州選挙にワンネイション党が立候補したと言う。前回は惨敗だった。それでも、又出馬した。アーマガードでハンソン党首の警護をして以来、彼は彼女のノースの基点として頑張っていたようだ。

「負けると分かっている喧嘩でも、自分のスジを通さねばならネェ時は、買って出るのが生き方、というものでござんスヨ。それを誰かが続けネェと、世間という目は覚めませんぜ。おまけに豪州人の大半は、あまり頭がよくネェときてますしネ」

ピーターは、まるで日本の古い義理人情の世界に生きるやくざ者のようなセリフを、サラリと吐いた。この野郎、まったく変わらネェナ、と私は楽しくなった。この男を支えているものは、彼一流の侠気、なのだと思った。

私はワンネイション党のポリシーがどんなものなのか、よく知らない。たまたま見ていたテレビに、ハンソン党首のインタビューが出ていた。彼女の鋭かった 目付きも、スッカリ穏やかになり、質問の受け答えもそつがなかった。あれだけの悪評の中を切り抜いてきた彼女である。成長した、と言うべきだろう。

党のポリシーは、他の政党のように大きなものではなかったが、豪州人として当然、と思われるもので、好感が持てた。

ピーターは、やはり、落ちた。しかし惨敗の前回選挙に比較し、獲得票は大きく前進。特にアセタン、チャーターズタワー等のカントリータウンは、大半以上がワンネイション党支持に変わっていた事実は、これからの選挙に、何かを示唆しているようだった。

次の選挙にも、ピーターは、彼の、侠気、を引っさげて、又登場するだろう。ピーター、50才。

「オイ、又ビールを飲もうぜ」

私はそう言って電話を切った。心の中に、爽やかな風が吹いた思いがした。
 

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2001年5-6月号・其の45 空き巣に御用心

2007年09月05日

「刀はありませんかネ」

久し振りの電話は、マイケルからである。以前、私のタウンズビル道場の支部長をしていた男で、現在、ジェームスクック大学の動物学者。まァ、変わり種だ。人物は信頼出来る。

大学の仕事の都合で空手から遠ざかって、数年になる。

「あるよ」と言うと、ぜひ一振り譲って欲しい、と言う。何かあったナ、と思った。

彼の研究室への突然の電話は、ポリスからだった。彼の家が空き巣にやられ、現在犯人を調査中という。まったく寝耳に水の話で、前後の事情がよく分からなかったのも、無理からぬ話ではある。

その日、若い男がセコハンの店へギターと真新しいビデオ等を持ち込んできた。落ち着きがない。店員も心得たもので、品物を詳細にチェックすると、ちょっ と目には見えない箇所に、マイケルの住所と名前をプリントした小さなラベルが貼り付けてある。若い男の名前とは異なる。キャッシュを取りに行く振りをし て、ポリスに通報。男も気配に敏感であったようだ。品物をヒッ掴み、店から走り出た。車はエンジンをかけたままにしてあったそうだから、かなり手慣れた手 口ではある。

マイケルの家は閑静な住宅地、アールビルにある。いい家だ。ビッタリと六尺程の板塀に囲まれ、中がまったく見えぬ。いかにも安全そうに見える家なのに、そこが盲点だったようだ。

男は、マイケル夫妻が昼中働きに出ているのを調べていた。反動をつけて板塀に取り付き、難無く乗り越えて侵入。透き間のない塀の為、外から見られる心配 はない。雄々と仕事をしていったようだ。プライバシーも大切だけれど、塀は、ある程度外部から中の様子が見える方が、安全、という事かも知れぬ。

男が不用心に残していった指紋から、身元が割れた。前科があった。ここのポリスもちょっとしたもので、数日内に男を上げた。男は、マイケルが一番大切に していた二振りの日本刀も持ち去っていた。ところがその男、刀をどうしたのか、吐かぬ。ポリスもあまり強い尋問は出来ない。今流行の、人権、に引っ掛かる からだ。それのみか、犯人にも、人権侵害として訴える権利がある。

まったくナァ、ロクに働きもシネェで人様の財産をかっぱらい、ノウノウと暮らしているような人間に、人権なんザァもったいネェナー、と私は思う。そんな腐った根性を持っている奴等は、ブタ箱にブチ込んで、出所まで強制労働にでも使ってやればいいのに。

こんな話もある。場所はマリーバ。ケインズから約一時間の高原の町。男が同棲していた女性と喧嘩。殺してしまう。殺し方がひどい。死体の顔は無惨に腫れ 上がり、鼻はつぶれていた。倒れたところを所かまわず踏んづけたのだろう。内蔵は損傷し、ほとんどの肋骨が折れていたそうだ。

裁判で、男は殺す意志はなかった、と主張。結局、法廷は男の殺意を証明出来ない、として過失致死で二年。死体の惨たらしさが、殺意の有無を証明してい る、と思うのだが、法的にはシッカリとした証明が必要になるらしい。生きている人間は、少々悪さをしても、立派に人権は存在するのに、殺された人間にはな いのだろうか。

人権とは何とも重い、大切なものだ。しかし人権を濫用しるぎると、本当に人権を必要とされる立場の人間を、逆に軽視する結果にもなりかねない。人間である、という理由だけで、人権が与えられるものでもあるまい。

人間として、その社会に生きる義理と責務に裏打ちされてこその人権、と私は思うのだが、まァこれは理想論かも知れぬ。

マイケルの刀は、出てこなかった。男が数ヶ月たってブタ箱から出てきたら、適当に処分するのだろう。盗られ損だ。自分の持ち物は、自分で責任を持って守らなければならない、という事だ。

同じ頃、私の左側の隣人がやられた。私の家は隣人同様、道路から約30メートルのドライブウェイがあり、前に一軒、前面の隣家がある。背後はブッシュ で、ケインズで真ん中の住宅地なのに、大変プライバシーがいい。その分、不用心でもある。隣家侵入の犯人は、ドアのガラスを割って難無く侵入。各部屋を物 色して金庫を発見。鍵がないので、納屋からガーデン用の荷車を持ち出して金庫を運び、車に乗せて運び去った。昼中三時頃。まったく堂々としたもので、昼中 が意外に危ない。私はそのとき在宅してたのに、物音一つ聞かなかった。プライバシーがいいのも、こんな時は困る。

右側の隣人がやられたのは、数ヶ月前。15才のガキだった。早朝、物音がするので出てみると、ガキがまるで自分の家のように、釣り竿等を両手いっぱいに抱 えて立っている。ガキに手荒い事をすると、逆に訴えられる。ポリスに引き渡しても17才以下。そのまま釈放だ。罪にならない事を知っているから、この年頃 の盗みが、今一番悪い。ポリスも手を焼いているそうだ。親には、子どもをキチンとした社会人に育てる義務がある。ガキを罰する事が出来ないなら、両親には 何等かの責任体勢をとらせてもいい。ガキの事は知らネェよ、では、人権を重んじる国にしては、スジの通らない話だ。

最近NSW州では法律が変わり、賊の侵入に対して、いかなる防衛も認められるようになった。当然だ。QLDは、まだ駄目。万一の為木剣を用意しておく、 とする。それを賊に使用したら、人を殴る為の準備行為だった、として法に触れる。冗談じゃネェよ、と思う。賊が入って来たら「HELP YOURSELF(お好きにどうぞ)」というのが、一番安全みたいだぜ。世界中様々なトラブルのある中、豪州にはまだまだ素晴らしい生活環境があるけれ ど、犯罪者にとっても、有り難い国である事は確かのようだ。

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2001年7-8月号・其の46 ワニも捨てたもンじゃない

2007年09月05日

突然、水面が音を立てて盛り上がった、と思えたそうだ。暗い水面が、夜目にも白く泡立ち、渦を巻くように激しく動いたら、すぐ横に座り、ついその瞬間まで話していた女が、消えていた。一瞬、何が起こったのか、残された男には、分からなかった、という。

ケインズから北へ車で2時間。デイントリーリバー・ナショナルパークの内懐にあるような小さな村、デイントリー。村落の少し手前。幅5メートル程の小さ なクリーク沿いに、古びた家が四、五軒、チマチマッと肩を寄せ合うように立っている場所がある。惨劇は、そこで起こった。ソーサナー、もう16、7年も前 になッか。

その夜、一軒の家でパーティーがあった。何のパーティーであったのか、は知らぬ。家の背後は、2メートル位の土手になっていて、簡単な木製の階段を数 段、トントンと下りると、小さなボートを舫う、ジェティとは名ばかりの、狭い桟橋が設置されていた。クリークの延長はそのまま、メインのデイントリーリ バーに、支流のようにつながっている。

12時過ぎ。一組の男女が、フラフラと裏庭に出てきた。かなり出来上がっている。酔い覚ましのつもり、だったのだろうか。ジェティへの階段を音を立てて下りると、狭いプラットフォームの上に座り込んだ。

動物は、この時から、獲物を感覚で捕らえていたに違いない。長い尾部が、ユックリと左右に動き、闇に開く無表情な目は、極く小さな波切りを起こし始める。

女はプラットフォームの端に座り、足をジェティから投げ出した。あいにく、水位はかなり高かった。女の足は、丁度脹ら脛位まで、暗い水中で動いていた。

ワニが獲物をアタックする時、一定距離まで目だけ出して、用心深く近付き、射程距離に入ると、一気に潜って勝負に出る。私も狙われた経験がある。獲物が大きいと、喰らい付くと同時に体を回転させ、噛み切る効果を増大させる。このアタックは、恐い。

動物の目がフッ、と水面から消えた。音もなく、まったく何の兆候も獲物に知らせず、動物は、鼻のすぐ先に、動く女の足を見た。

このアタックと前後して、もう一件ある。どちらが先だったのか、もう忘れた。

ある朝、二人の男がボートランプからスピードボートを下ろし、フィッシングに出る。白人と黒人。エスキーの中は一杯のビール。日が暮れてから、帰ってき た。一日中飲んで、ベロベロ。何とかボートをランプに上げたものの、心地よい傾斜のあるランプで、横になって酔い覚まし。そのまま寝入ってしまう。

ポートダグラス。デイントリーとケインズとの丁度中間点。今でこそ観光地だが、当時は小さな漁村だった。

黒人が目を覚ますと、白人が消えていた。家にも戻っていなかった。どこにも男の痕跡がない。モ、シ、ヤ、という事になり、ランプの入江沿いを翌朝捜索したところ、80メートル程上流で、太股から切断された男の足が見つかった。

私しゃ物好きで、その後現場を見に行った。一目見て、コリャ駄目ダ、と思った。どのアタックも、自然を甘く見た人間の責任。死んだ者には悪いけれど、同情の余地はない。

グレイムが来ていない。週2回の朝稽古。何かがないと、まず稽古を休まない彼の事。共に稽古に来ている父親のロンに、聞いてみた。ロン、67才。体が動 かなくなったら、俺の人生は終わりだ、とその年で頑張っている一微者。聞くと、グレイムはローラまで、バラマンディ釣りに出たと言う。エッ、ローラでバラ がつれるのカイ、と思ったが、考えてみるとその通りだ。

ローラはケインズから、4WDで約5時間。アボリジニーの聖地。プリンセスチャーロット湾に口を開くノーマンビイ川が、2百キロほどさかのぼり、支流共 々、ローラの近くを流れている。完全な淡水域なのに、バラはそこまで棲息しているのか。ヨシ、俺も様子を聞いて、行って見よう。ローラには宿泊設備はな い。野宿だ。あそこは、星が美しい。いいナー、と思った。

ローラは、寒かったそうだ。つい、2週間前。バラは寒いと食いが悪くてネー、と言い訳をした。彼は以前、ナショナルパークのレインジャーを勤めており、ローラ近辺は彼の庭の一部のように、熟知していると言う。アボリジニーとのコンタクトも強い。

「知り合いのアボちゃんが、9尾も釣ってくれましたヨ。でもネー」

ヒッヒッと笑っていた顔を、急に真顔にすると、「イヤ、久し振りに行くと、ワニッコの何と増えている事。びっくりこきましたゾネ」

豪州のワニが捕獲禁止になったのが、約30年も前。増えて当然、まだまだ増える。

「ローラに行ったら、まず水辺からは絶対に釣らない事。土手を捜す事。アルコールは、飲み過ぎないよう。酔うと大胆になり、水辺に近づきます。野宿は水辺より必ず2〜30メートル離れましょう。残飯は川に捨てないよう。ワニを呼びます」

「オス」私は彼の生徒のように、返事をした。まったくその通りの常識ばかりだ。そう〜豪州で自然に親しむ第一歩は、人間としての常識を守る事からスタート する。危険なワニの増加が、人間に自然と接する為の常識を考えさせる一助ともなるとしたら、それはそれで良い事だと思う。それまでは、北部クイーンズラン ド、何処に行っても、底の見えない濁った水辺に立つ事は…要注意!!

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2001年9-10月号・其の47 オーイ、青空

2007年09月05日

 バイクが付いてくるのに気が付いた。パーキングを探していた時だ。近所のショッピングセンター。ユックリ走っていたので、道を譲ってやろうと思ったが追い越さない。私がトロトロ運転していたものだから、文句でもあるのか、と思った。

用を済ませてセンターを出てくると、その男、入り口にバイクを止めて誰かを待っている様子。ヘルメットの下の目が確かに私を見ている。横を通り抜けた。何も言わぬ。10メートルも歩いた。男が追ってきた。

「…センセイ…」

エッ!そう私を呼ぶからには、私の生徒だったのだろうか。ヘルメットを取った髭面に見覚えがあるようにも思った。

「センセイ。俺はあの時、根っから頭にきましたよ。何時かセンセイを倒してやろう、そう思って自分で稽古を続けましたぜ。でも年を取るにつれ、だんだんそ の気がなくなって、俺のした事の方が悪かったんじゃネェか、と思うようになったんですよ。そう思わせてくれたのは、やはりセンセイだった、と分かってきた んです」

一気にしゃべった。そうか、髭で分からなかったけど、あの時のガキだ。ジョンだ。あの時のこの野郎の攻撃、まるで鎖の切れた番犬みテェだったぜ。

あの時…。ソウダヨナー、もう15年も前になるか。私の道場が毎年、北クイーンズランド州空手選手権を主催していた頃だ。ジョンは確か、15〜16歳部門のイベントにエントリーしていたはずだ。

空手の試合は、大きく分けてたったの二通り。当てるか、当てないか、だけだ。当てない場合、寸止め、と言い、相手の急所直前に極めを集中させる。激しい 動きの中で技をコントロールせねばならず、技術的には高度のものがある、と言える。逆に審判の主観が技の判定に大きく作用するため、効果的でない技でも、 ただ単に急所まで届いた、というだけでポイントになる、というフェアでない面も出てくる。

まァ空手の試合というものは、相手を倒すのが目的というよりも、技を競う事により、お互いの向上を目指す試練の場、と解釈するべきだろう。だからこそ戦いの場において、人間性の基本となる、心、というものが大切になってくる。

ジョンが私の道場へ入門した時、10歳位。他の道場から来たので、もう茶帯を締めていた。稽古は熱心だったが、性格に少し問題があった。自分本位なのだ。強いものには萎縮するが、弱い相手は徹底していじめてしまう。

最近ベタベタと子供を可愛がるばかりの親が増えた。特に母親。何から何まで面倒をみて、子供の言う通りにしてやる。親自体にけじめがまったくない。本当 に子供の事を思ったら、子供の将来のため、しっかりとした性格の子に育つよう、子育てをすべきだと思う。無条件に可愛がる事と子育ては、別だ。甘やかした 子供は、当然我がままに育つ。面倒を見過ぎると、自主性のない依存性の強い子供になる。自分本位に育っているものだから、他人への思いやりはまったくな い。

ジョンの母親は、こんなタイプの親の典型だった。ジョンは悪いガキではない。しかしこんな母親のもとでは、悪い方にのびてくる。こんなガキは弱い者いじめ等、悪い事をした時に、一度キャンと言わせてやった方がいい。

体罰は法律で禁止されているけれど、どうしようもないガキには必要な時もある。現在の教育方針が最善のものだったら、子供の質は良くなっていなければな らない。ところが悪くなる一方だ。ガキの犯罪も増えた。人間も動物の一種。悪い事は悪い、と体で覚えさせる仕組みはどうしても必要だ。世の中、妙にアカデ ミックになり過ぎた。二歳や三歳の子供にいくら理屈を教えても、通らない場合もあるはずだ。そしてこの年頃が、人間としての性格形成に一番大切な時期なの だ。子供は国、そして親の財産。子供の財産は、親からしつけてもらった性格。これが子供の生き様を決める。

ジョンは残念ながら、その後私の道場をやめた。弱い者いじめをしていたので、私はわざと母親の前でひっ叩いてやった。私も子供を罰する時は、性根をすえ て体を張る。訴えられる、と分かっていても、道場の中では見過ごすことが出来ない。それ以降、ジョンを見ない。恐らく、母親が止めさせたのだ。他の道場で 稽古をしている、と何処からか聞いた。素質のある子だっただけに、私の意志が伝わらなかったのは残念だった。

試合に出場したのは、そのガキ、ジョン、だった。見違えるように大きく、荒々しく育っていた。ヌメッと光る目に、人を人とも思わない傲慢な光りが見える。私の道場を止めたのは、完全に間違っていたナ、と思った。

私が審判だった。ジョンの試合振りは、コントロールも何もない。ただ相手を倒したいだけの喧嘩空手だった。

「お前ナァ、何のために空手をやっとんジャ。人間あっての空手。もう少し、相手の事も考えてみろ。それまで二度と俺の道場へ足を踏み込むんじゃネェ。出て行けェ」

試合は中断。続行させると怪我人の出る恐れもあった。ジョンは失格。私も若かった。彼を試合場から、オっぽり出した。その時以後、ジョンに会った事がない。

ジョンとは15年振りだった。目から当時のヌメったような荒々しい光りが消えていた。しばしの間、私は何も言えなかった。

ソウカ、あの糞ガキのジョンが、こんな事を言う年になったのか。もうおっつけ、30歳位になっているはずだ。

「センセイ、俺に空手を教えてくれてありがとう。I REALLY LOVE YOU NOW」

そう言うと、彼はバッと私に抱きつき、慌てたように離れると、バイクの方に走って行った。男に抱きつかれるのは、あまり気持ちのいいものじゃネェナ、と 思いながら、私の道場を去った後の彼の15年を思った。悪ガキが、あんな事を言う。何だか、安物のテレビドラマのようだぜ。

私はそのまま立っていた。バイクのジョンは、手を大きく振って走り去った。私と知って、私の車について来ていたのだ。

ジョンの黄色のバイクを見送った。バイクが消えたその上の、空が何とも青かった。

色んな人間に空手を教えてきたものヨ。オーイ、青空。今日もいい日だぜ。

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2003年5-6月号・其の56 Wouldn’t be dead for the quids

2007年09月05日

あまりいい言葉ではないので、女性の前ではまず使用しない事。
その言葉を初めて聞いたのは、ケインズで空手道場を開いた頃だから、もう昔の事だ。それまでは日豪合弁の南洋真珠養殖会社の技師として、豪州最北端の小 島、木曜島に住んだ。会社のスタッフは、労働力としてのアイランダー以外は全部日本人で、毎日日本語で通せるものだから、9年半も働きながら、仕事に必要 以外の英語はあまり上達しなかった。

その男、実にうまい説明をした。
「牛には雌牛(cow)と雄牛(bull)がいますネ。雌牛が糞(スラングでshit)をすると、そのままペチャッと地面に落ちるのに、雄牛がすると何と、地面に落ちず、上へ上へと上がってゆくんですナァ」
真面目に聞いていた私、思わず
「ソンナ事あるモンか」
「ソー、ソレソレ、それがBullshit ですヨ」

馬鹿げた矛盾とか嘘っパチ、質の悪い冗談等をさす。豪州人の男達がごく普通に使っているスラングだ。ちなみに、こんな事をしょっちゅう言っている奴を、Bullshit Artistと言う。
日本人の英語はまず、キングイングリッシュ。正しい文法で正確にしゃべろうと努力し、英語学校等もその方針を基本とする。言葉はその国の大切な文化。他国の文化を教えるのなら、それを正確に指導する事が、教える側の良心としても当然の事だろう。

私が学生の頃の日本の英語学習は、読んで書くテスト用のみで、中、高、大学と十年近くも英語の授業に出て、まったくしゃべれなかった。言葉は人間のコ ミュニケーション。この一番大切な根本が日本の授業にはなく、従って耳から聞くという訓練がなかったからだ。
日本人は確かに正しい英語を学習するけれど、言葉というものはその上に、その国の生活風土から時間をかけて生まれてきたスラングや独特の表現法も数多く 使用されているものだ。これらは辞書にもなく、豪州人の中に入り込んで会話の端々から聞き取るしか方法がない。

日本語もそうだけれど、こんな言葉の中に、実に生活に密着したよい言葉があり、これが英語、という生きた言葉なンだと思ったりする。英語圏に住んでいる のだから、こんな言葉がサラリと出るような英語をしゃべりたいものだ。沢山あり過ぎて紹介出来ないけれど、例えば、メッチャ寒い天気やナ "What a brass monkey weather" と言う。昔の丸い砲弾を積み重ねるには、三角形のbrass(しんちゅう)の枠が使用された。これをmonkeyと言った。豪州南部の寒い朝は、砲弾が brassの枠に凍りつく事もあったから、この言葉が生まれた。

豪州人の誰もが各々の仕事に精を出し、豪州がまだ上向きに発展していた頃の挨拶のひとつ。
"Howya going, mate ?" (How are you?) "Wouldn’t be dead for the quids, mate" 金の為には死なネェよ、という直訳から、オラァやりたい事をやって、元気に生きてるゼ、という前向きの姿勢が目に見えるようだ。

余談だが、35年前の豪州の生活水準、世界第3位。日本なんかより遙か上で、豪1ドルは450円の時代。
私の好きな言葉の一つ。"Let’s put the nosebag on." 朝早くから働いて昼食時になった。馬にも餌をやらねばならぬ。袋の中に餌を入れ、馬の鼻づらに被せるようにして首に掛ける。これをnosebagと言う。
Nosebagを被せると人間も昼食だ。ヤレ、昼メシにしようゼ、という人間の合い言葉になった。

私がケインズに住み着いた頃には、こんな言葉を話す連中とよく出会った。ケインズが発展し始め、豪州各地から人が集まった。それを嫌ったローカルがこの 町を出、人間の交代劇が行われて以来、こんないかにも生活の臭いが漂ってくるような言葉は徐々に聞かれなくなった。寂しい事だ。
今でもハッキリしない言葉がある。二日酔い(hang over)の迎え酒(hair of the dog)。何で犬の毛が迎え酒になるのか、その語源を話してくれる豪州人に未だ出会わない。

 
   
 

▲左が一貴(かずき)さん

   

 一貴(カズと呼ぶ)がケインズに来た。彼は私の大切な友人、兄弟分でもある大阪の空手師範の息子。師範は会派の中でも重鎮的な人物である。
滞在1年。目的は例に漏れず、英語の勉強。英語学校に入学させるのは簡単だけど、費用の点と日本人同士が寄り集まって、ミイラ取りがミイラになる事もあるかも知れない、と考えた。
空手に大切なのがスピードを見切る目と勘であるように、語学に大切なのは発音を聞き分ける耳。一年の猶予がある。カズは私の門弟の家にホームステイさ せ、道場では毎日稽古。且つジュニアクラスを手伝わせ、とにかく英語の発音に耳を慣らさせながら自分から話しかける、という習慣を最初の3ヶ月の間に付け させるようにした。

日本人は引っ込み思案な性格が多い割には、チョット格好をつけ、他人の目を気にしてしまう。ある程度正しい文章を覚え、文法的にも正確にしゃべらないと 恥ずかしいと思うし、相手にも悪い、とさえ考えてしまう。まずほとんどの豪州人が日本語をしゃべれないように、日本人が英語をしゃべれないのは当たり前の 事だ。大半の日本人が英語の単語だけでもしゃべれる、という事実だけでも豪州人のレベルより上だ。文法的に無茶苦茶でも、気にする事はない。とにかく単語 を並べてでも、カズの意志を表現させる事が大切だと考えた。

カズが来て、もう4ヶ月が過ぎた。まったく英語の出来なかったカズの耳が、メッキリ良くなってきた。空手で言えば、突きが見えてきた。次は受ける事を教 えなくてはならない。次の3ヶ月は、カズが特に必要だ、と感じる分野の言い回しを勉強させる。簡単なスラングは、私が教える事にした。この調子で9ヶ月。 残りの3ヶ月は、好きなように遊ばせよう。その前に必ず中弛みが来る。マァ、その時はその時だ。

つい数日前、大阪でカズの父親、千政館道場師範と会った。朝の4時まで飲んだ。師範も間もなくケインズに来るそうだ。2人で又一杯飲めるのを楽しみにしている。
師範夫妻と支部長の山南君が、関西空港まで見送ってくれた。日本はゴールデンウィークの入口というのに、空港には人がいなかった。今まで日本でこんな空港を見た事がない。
イラク戦争、SARS、北朝鮮問題。世界が狭くなった現代では、一国のトラブルは世界のトラブル。ケインズの観光産業も、どうやら褌を締め直す時期に来ているようだ。

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2003年7-8月号・其の57 宝の持ち腐れ

2007年09月05日

ハンドーフ。過去数回訪ねた。行くたびにきれいになり、何処にでもあるような近代感覚の店が増えていた。キャラクターが無くなりつつある反面、観光客は大幅に増加し、著名な観光地として定着しているようだ。
アデレードからやや南、ハイウェイに乗ると四十分位で、ドイツ人移民の町ハンドーフに着く。最初に行ったのは、もう二十年も前。町ぐるみ観光客の誘致に 努力している様子が見え、個人住宅を改造した意匠をこらした店が軒をつらね、チョット変わった物も売っているので楽しい町だった。クイーンズランドで言え ば、サンシャインコーストの山の町、モントビルってとこかナ。
最後に訪ねた数年前、午後遅く着いたので、翌朝に備えて一泊する事にした。翌朝、ユックリと朝食をすませ町に入ると、何処も開いていない。手持ち無沙汰 な観光客がアチコチに見える。店は十時から。アンティークショップとなるとまだ遅くて、十一時以降の店もある。十時から四時までの六時間。有名な観光地に なったから、客はいくらでも来る。短時間で十分の商売が出来る、と考えての時間設定とは思わないが、そうだとしたら本末転倒もいいところだ。せめて普通通 り九時から五時までは働いて、遠来の観光客の便宜をはかってやってこそ、名の通った観光地と言える。

まるで一世紀前に逆戻りしたような錯覚に陥るニューノーシアの村を出、トゥデイの古いパブで一泊。翌日パースの東方約一時間の距離にあるヨークに入る。 1830年建設の西豪州で最古の町。当時の町並みが見事に保存されている素晴らしい町だ。パースから日帰りコースとして最適な地点にあるので、特に週末は 賑わうようだ。
ヨークには産業がない。立派に保存された町並みという魅力的な観光資源があるので、町としては何とか観光客を入れたい方針が見える。それにしても町の人 々の無愛想さはどうだ。並ぶ店も何等特徴のないものばかり。これだけの雰囲気がありながら、勿体ない話だと思った。おまけに店は三時を過ぎる頃から、パタ パタと後始末を始める。客がいても意に解しない。保守的な考え方をする人が多い、と聞いた。保守なら保守でいい。それに徹して筋の入った保守にすれば、 ヨーロッパのようにそれなりの解答が出てくる。中途半端な保守、というのが一番始末が悪い。

似たような観光地がケインズの近くにもある。クランダ。日本人にはキュランダ、と知られている。私がケインズに住み着いた28年前頃、クランダはヒッ ピーの巣。彼等が自分たちで栽培した野菜類や果物、手作りの品を持ち寄って物々交換したり売ったりしていたのがクランダマーケットの始まり。ケインズの ローカル達も、野菜が安いので、よく買いに出かけていたものだ。このマーケット、何が出てくるかも分からないので面白く、私もよく行った。
クランダが観光地として脚光をあびて以来、マーケットは何処にでもあるような安物やアジア等からの輸入品、アボリジニーの道具とTシャツとまったくキャラクターの無いつまらない場所になってしまった。おまけに皆、愛想が悪い。

つい先日、友人数人と私の生徒のパブで昼食をとりながら一杯やった。三時すぎ、クランダの町に散策に出た。この時間帯になると、メインストリートは人影 がまばらになる。あるカフェに入った。野郎共はコーヒー、女性はアイスクリームでも、と考えていた。その店、カウンターに客が二、三人いるだけで、応対し ていた中年の女主人、私達がドヤドヤと入って行くと、肩をすくめるようにして白い目で天井を見た。豪州人がよくする、ヤレヤレもう沢山、という軽い否定の 表現だ。私と友人の一人が目ざとくそれを捕まえた。私シャもう店を閉めたいのに、又客が来やがった、と女主人は言いたいのだ。カチン、と来た。友人がコー ヒーを頼むと、コーヒーはもう作れない、と言う。カフェにコーヒーがない。女達はアイスクリームを頼もうとしたが、物も言わずに皆をカフェから引き出し た。

ケインズにはリーフ以外に対して見る所がない。別にクランダが世界的に有名な観光地、という訳ではなく、近くに手頃な場所がないからクランダに連れて来ざるを得ないだけだ。
何処にでもあるような特徴のないマーケット。最終列車が駅を出ると、パタパタと閉店の準備をする。スカイレールは四時半まで運行。車で来る客だってある んだゼ。何処の店でも愛想が悪い。フレンドリーなノース、クランダビレッヂ、というイメージを売るのなら、もう少し真面目に雰囲気作りを考えたらどうだ。 町議会で決定し、店やカフェ、レストランに入って来る客、道で会う観光客には誰でも彼でもつかまえて、G’DDAY, MATE, HOW’YA GOING ? 笑って挨拶ぐらいはさせる事だ。クランダで働く者は全員、女性は往年のロングドレスにエプロン、グラニーハット。野郎はカウボーイハットの牧童でも金 鉱捜しのスタイルでもいい。それぞれ職場に似合った扮装を強制させる。ポリさんは腰にサーベル、鞍の横には303(旧豪州軍主力小銃)をブチ込んで、馬で 町中をパトロールさせる。町中の建物にも規制を設け、何処にでもあるようなギラギラした安っぽい建物は建てさせない。昼食だからと行って、食べ物には絶対 に手を抜かない。

こんな雰囲気作りに努力している男がいる。クランダの駅を上った所にある1880年建立のパブのオーナー、バリー。私の道場の生徒だ。往時の雰囲気を出 来るだけ忠実に残そうとしているパブ。前を通る観光客には誰でも、従業員共々、フレンドリーに挨拶をさせる。パブの食事もチョット面白い物を安くサービス している。チャンスがあれば彼のパブに寄り、ギネスパイ、を試してみるといい。往年のアイリッシュシチューにヒントを得たようなこのパイでギネスを一杯、 タップからグラスでもらう。これが又よく合って、オリジナリティを感じさせる昼食である。

サービスとかイラク戦争の煽りで、ケインズもグッと静かになった。平常になるのは、年内一杯かかるだろう。観光客が少ない、とか不平不満の声をアチコチ で聞く。これはむしろケインズにとっては良い薬で、ローカルの観光業者は、ケインズやクランダを長い目で見て向上させるには、何が大切なのか、よく見直し てみる事だ。ケインズがいい、と言っても未だ三流観光地の域を出ないのは、意外と身近なところにも問題があるように思う。

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2003年9-10月号・其の58 ブームの仕掛人

2007年09月05日

チョイト見せたいものがある、と言いながら娘が持ち出してきた物は、新聞の半ページ位の大きさの不動産広告。あまり興味もなかったのでヨクも見ないまま、見覚えがないか、と問う娘に、ウンウンと生返事をしていると、娘、呆れたように、
「チャンと見なさいヨ。コレ、私の家だったンだヨ」

娘達が郊外に広い土地を購入して新居の準備に取り掛かったのが、昨年の10月。それまで住んでいた家は小綺麗なクイーンズランダーだったので、場所も良 かったし、売り急ぎするなヨ、と言っておいたのに、新居の図面を引いた段階で早速売りに出してしまった。値段も安過ぎる。案の定その翌日、ポンと売れた。 購入者は南から転勤になったという夫婦者で、至急住める家を捜していたと言う。私には、多分そういう名目で投資物件を捜しているのではないか、とも感じら れていた。

成る程、よく見るとチョイト手を加えてあるものの、娘の以前の家だ。
「ホラ、私のカーテン、まだ使ってあるヨ」 売り値、35万ドル。持ち主が急に南に転勤の為、手放したくはないが至急売りたし、とある。やはり投資家だっ たナ、と思ったが、もうそんな事は他人事だ。娘達から購入後1年ももたない内に売りに出し、7万ドルを上乗せしてある。チョット悪どいゼ、と思ったけれ ど、これが今日の相場ならば、私なんかが文句を言うスジもあるまい。

私の空手道場に現在、不動産関係者が3人いる。建売りの業者は、1ヶ月に4件の契約が取れれば何とか生き残れる。ところが7月中は20件以上の契約。以 前に家を購入した客が値段が上がったので売りに出し、その分少しいい家に建て替える例がかなりあるらしい。不動産販売の生徒は、早く売れるので売る物件が 少ない、とこれ又嬉しい悲鳴。

娘の新居は7月に完成。もう移り住んだ。ところが1ヶ月も経たない内に、アチコチ業者の手抜きが見えてきた。
安い家ではない。それなのにシャワーの排水が悪かったり、屋外に出すべき臭気孔が天井裏に開いている等という非常識的ないい加減な仕上げぶりだ。業者に 文句を言っても、もう金は先渡し済。仕事はいくらでもある。小さな修理なんかに時間はとれネェよ、テナもんで、このケインズでアフターサービスを期待する 方が、まァ無理というものだ。
娘が同僚にその話をすると、
「アンタの所はまだイイヨ。私んとこ、4年前に建てたけど、まだ悪い所直してくれないヨ」待つ方も待つ方。
こんな町に住んでいると、ある程度気長くやる気持ちがないとやってられネェヨ、と思う事にも、もう慣れっこになってしまった。
それにしてもこの不動産ブーム。しかしこれをブーム、と呼んでもいいのかナ、とも思う。

ケインズの不動産が下降線を辿り始めたのが10年前。それからは下がる一方。あちこちの建築業者がつぶれ、あふれていた不動産業者もかなり姿を消した。 豪州は面積は大きいけれど人口は少なく、その地方のリーダー的存在になる都市の数は知れたものだ。その意味では大きくてもいかにも小さい国なのだ。

ブームの切っ掛けは投資家がつくる。人口の少ない豪州の投資家の数には限度がある。だからこそ彼等がタライの中の水のように、片側が上がると同じ水が反 対側に移動し、又、逆に戻ってくるという動きを、周期的に繰り返す仕掛人ともなり得るはずだ。つまりシドニーなどの大都市が落ち着くと、彼等の目は株か地 方に向く。地方が静かになると、元に戻る動きが出てくる。

シドニー、メルボルン域の不動産の急騰ぶりは、3年程も前から徐々に落ち着いてきた。それに拍車をかけたのがアメリカのテロ。株価がドッと落ちた。仕掛 人の目が地方に向かないはずはない。まずブリスベンとその近郊が動き始め、余波は1年位前からケインズにもやってきた。

地方のブームは普通3年。よく持って4年。という事はここ2年程はケインズの不動産ブームは続く、という予測が出てくる。投資として家を購入するのな ら、2年以内に売る方がいい。逆に自分の家の購入は、この高値の時期に、銀行等から融資を受け無理して入手すると、数年後には値が落ちて気苦労の種になる 可能性も大きい。

私はまだケインズに28年しか住んでいないけれど、この田舎町の移り変わりをジックリと見つめてきた。今のこの町は見違えるように便利になり、日本人居 住者の数も増えてきた。その反面、出費や経費は増大し、税金対策も難しくなった割には、収入の増加は少ない。私の道場のメンバーは、ほとんどが自営業。ビ ジネス間の競争も激しくなったので、以前と同じ収入を得る為には、さらに長時間働かなくてはならない。子供のクラスは多過ぎて困る位なのに、大人の減少で 一般の生活ぶりがタイトになってきた事が感じられる。ケインズはもうノンビリした以前のような田舎町ではなくなってきた、という事だ。

私の生徒の1人に、最近大きな家を購入した男がいる。その家の持ち主、夫婦別れをしたそうで、まったく手入れされていなかった為、3階建ての10部屋も ある凄い家なのに、50万ドルをきれる値段で入手したそうだ。数ヶ月間自分でコツコツと修理し、見違えるようになった。1年間住み、その後すぐに売りに出 すという。多分70万ドル以上の値が付くはずだ。1年間、自分の持ち家として住むと、売った時点で税金はつかない。1年間の利益としては悪くはない話だ。

豪州人達、よくボロ家を出来るだけ安く購入し、そこに住みながらコツコツと自分で修理する。1年経って売りに出す。これを繰り返してその都度レベルを上 げてゆく。狩猟民族末裔の彼等は、1カ所に執着しない。平気で精力的に、簡単に移動する。その土地に定住する農耕民族末裔の日本人には、なかなか真似の出 来ない生き方だ。

娘の新居のすぐ隣は私の土地だ。そこに我々夫婦の家も建てることになった。家の図面も出来上がったのに、私はなにやら気乗りがしない。糞面倒くさいし、 今の家でも十分に快適だ。その点、妻は頑張る。新居の設計もほとんど1人でやったし、気分転換にナルゾー!と意気盛んである。農耕民族末裔でも、芯は女の 方が強いのかも知れネェナー、と再認識しているこの頃だ。

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2003年11-12月号・其の59 子育てよりも親育て

2007年09月05日

娘が生まれた時、妻と話した事がある。赤ん坊はよく泣く。言葉のしゃべれない赤ん坊がよく泣くのは、悲しい とかつらい等という事ではない。ただ単に本能として、親の関心を引く為だ。泣くたびに抱き上げていたのでは、まだ意思のない赤ん坊の本能的な意図に従う事 になる。つまり、赤ん坊というものは、泣く事により親のコントロールを開始しているのだ。泣くたびに飛んで行って抱き上げあやす事は、意思のない赤ん坊の 言いなりになる訳だ。

これだけで終わればいいのだが、これを繰り返す内に赤ん坊の中に一つの意思が育ち始める。泣けば親が構ってくれる。よけいに泣く。そしてこの意思がやが て大きな意思、我がまま、という意思にふくれ上がる。親は精一杯面倒を見ているつもりで、逆に子供に我がまま、親の言う事を聞かぬ、という種子を植え続け ているのではないか。
ヨシ、泣き出したら少なくとも2、3分は、放っておく事にしよう。泣く事は赤ん坊の出来る唯一の全身運動にもなる。

赤ん坊が寝ている間の我々の生活も、特別に静かに等しないで、まったく普段通りにしよう。飲んべエ共も寄って来るは、ガタガタ音も立てる。私は当時フラ メンコをかなり弾いていたので、マラゲーニャ、ファルーカ、ソレアレス等の得意曲をよく弾いた。静かにしすぎると、神経質な子に育つ。
そのせいかどうかは分からないけれど、娘は数ヶ月でほとんど泣かない子になったし、何処でもスヤスヤとよく眠った。

私は38年前、日豪合弁の南洋真珠会社に採用され、大学卒業と同時に豪州最北端の小島、木曜島分場に赴任。1年半を働いて一時帰国した時結婚し、妻帯赴任のテストケースの第一号として、新妻と共に再赴任した。
日本人宿舎と仕事場は木曜島の隣島の金曜島にあった。会社は私達の為に、小さな集落のある木曜島にフラットを捜してくれ、私は毎朝早朝、小舟で仕事場に通った。

クリスマス前のその日。暑かった。妻のお産が迫っていた。木曜島の病院は、金曜島の仕事場から真正面に見える小さな鼻にあった。妻のお産、という個人的な理由で仕事を休まなかった私は、昼休みになるのを待ちかねてスピードボートに飛び乗った。
汚れた仕事着のまま、海風でカーテンの揺れる妻の病室に入ると、もう娘の里味は生まれていた。私は何も言えなかった。言葉の分からない妻は、一人で里味を産んだ。海と空が競い合うように青い日だった。

島では我々二人だけの生活だった。私は仕事を休まず、妻は退院したその日から、産後の痛む体を引きずり、ガランとしたフラットで一日里味の面倒を見た。
娘がヨチヨチとようやく歩き始めた頃、又妻と話した事がある。私達はチョットした事が、子供の性格形成に大きな影響を与えるのではないか、と考えた。
子供はよく転ぶ。転ぶと必ず泣いて、親に頼る。こんな時には心を鬼にして、自力で立ち上がるまで放っておく事にした。立ち上がった時に誉めてやる。親に 頼らず、親に甘えず。悪い事をしたら、叱る。叱るのは私が一手に引き受けた。但し私がどんな叱り方をしても、妻は助け船を出さない事にした。さもないと子 供は必ず甘い親になびく。子供に二面性を持たせない事も大切だと思った。

言葉は親子の間は日本語で通す。言葉はその国に生まれた人間が最初に接する文化だ。日本人でありながら、片言の日本語しか分からなくなったら可愛そうな 事だ。英語は私達がヘタクソな英語を教えるより、自然のまま放っておき、学校へ行くようになったら、正確な発音の正しい英語を自然と身につけるだろう。と 言えば格好がつくが、つまりは、何もしなかった、という事だ。

豪州出発の実にその前日、私の父が急死した。長男の私は残る家族の面倒を見なければならず、給料のほとんどを送金していたので、島では貧乏だった。里味 にオモチャひとつ買った事もなく、服は妻が手縫いの物だった。それでも娘は木曜島の自然の中で、スクスクと大きくなった。まったく手のかからない子になっ た。車もなかったので、何処に行くにも歩かせた。4才位になると、一日中何キロも歩かせても、黙々とついて来た。

9年半島で働き、会社を辞めた。弟や妹を何とか卒業させたので、今度は私の夢を追いたかった。ケインズに下りて来て、空手道場に懸けた。ゼロからのスタート。34才。

娘はケインズの学校に入学した当初、英語で苦しんだようだ。それでも1年も経つと、クラスで一番になった。九才になって、空手の稽古を始め、ハイスクー ルに入る頃には、ジュニアクラスの大切な助手になった。道場から帰ると九時過ぎ。夕食が終わると十時を回る。それから学校のホームワーク。寝るのは毎夜2 時過ぎ。テスト中も道場を休んだ事がない。ハイスクールの六年間、文句ひとつ言わず毎日続けた。
大学は自分で進路を決め、一人でブリスベンに行って入学手続き等全部やってきた。私達親は、入学式にも卒業式にも行かなかった。大学卒業後、一時ゴール ドコーストで働いていたが、その内カンタスに入社し、ケインズに戻って来た。妻が喜んだ。もうそれから十年が過ぎた。

娘が21才になった時、日本人の父親として贈りたい物があった。娘は我が子ながら性格の良い、しっかりした明るい子に育った。豪州人達からも好かれ、信 頼されているという事は、大変な事だ。性格も豪州人らしい反面、今様の若い日本人女性より、はるかに日本人らしい面がある。

伊予松山の郷田刀匠。残念ながら故人になられたが、刀身彫刻では日本でも有数の人。刀匠に前もって短刀を一振り鍛えてもらい、焼き入れ前、日本に行って 私が実際に刀身に粘土を塗り、刃文の形取りをさせてもらった。これを染刃という。そして焼き入れ。その短刀に刀匠は一ヶ月かけて、ジックリと彫り物を入れ てくれた。見事な出来の短刀になった。
娘21才の道場のクリスマスディナーの席、皆の前で娘に手渡した。娘はその時初めて、私にすがってポロポロと泣いた。短刀の中心(なかご)の銘は表に刀匠の名前、裏に、長女里味二十壱才父松本主計之染刃、とある。

親が子供に贈る一番大切な贈り物は、物でも金でも財産でもない。その子の人生をしっかりと渡ってゆける性格の基礎を創ってやる事だと思う。外国において は特に子育ては難しい。それにしても今の世の中、子育てよりもしっかりした親、親育て、の方を先にしなくてはナ。

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2004年1-2月号・其の60 CHEEKY

2007年09月05日

のガキ、いかにも人を小馬鹿にした態度をとる。薄ら笑いを浮かべ、ヘラヘラと減らず口をたたく。何か言う と、必ず言い返す。他の子供にチョッカイを出す。少しの間もジッとしていない。まったく稽古の邪魔にしかならないのに、どこが面白いのか、決して稽古を休 まない。私はそのガキを"CHEEKY"と呼ぶ事にした。

私が豪州で子供達に空手を指導して、もう35年以上になる。以前は子供達に子供なりの集中力があり、私の言う事もキチンと聞く態度を持っていたので、何 等の支障もなく満足のゆく稽古が出来た。そんな素晴らしい子供達が、知らぬ間に、少しづつ変わり始めたのは、いつ頃からだったろう。

私自身、政治に関してはよく分からないし、大して興味もないのだが、これには豪州内の政党の交代劇と大きな関係があると思う。
それまで国民党中心だった豪州政府が、反国民党の労働党に政権を譲ったのが、もう15年以上も前。自由、国民党連合のハワード首相がそれを取り戻しても う数年になるが、各州の政党は以前として労働党が多いので、党の方針は州の法律の中に強く打ち出されている。
労働者層の保護、人権、特に子供の権利の尊重を強く押し出す労働党の法律は、理論的には一見正論に思え、別に悪い事ではない。まず学校では体罰の禁止。 それまでは悪い生徒は物差しのような物で、手を叩かれていた。少しずつエスカレートする。生徒を怒れなくなった。生徒の体にも触れなくなった。子供がすが りついて来ると、先生は両手を上げなくてはならない。来年は声を荒げる事も禁止されるという。
それのみか、入学して来る幼い子供達にも人権を説く事が義務づけられた。何も分からない子供達に人権を説く。私達は何も強制出来ないし、例え両親でも、体罰を受けたら訴える事が出来る…云々。

ここまで来ると、私は頭をひねってしまう。子供の仕付けで一番大切なのは3〜4才まで。これは親の義務でもあり、責任だ。法律により親の義務たる仕付けにも制限を加えるのは、子供の人権を重視するあまり、親の権利を軽視する事にはならないか。

人間誰しも、相反する二面性を持つ。頑張る、努力するという向上性と、遊びたい、楽をしたい等の怠惰性。この二面をバランスよくコントロールする役目が個人の理性であり、正常の理性の発達に一番大切な時期が、子供の仕付け時期という事になる。
この一番大切な時期に、お前達には権利があるンだよ、と何も分からない遊び好きの子供の好きにさせると、取り返しのつかない事になりはしないか。素晴らしい子供達の資質を良くするのも悪くするのも、我々大人の責任観念にかかっている。

私は教育とは、押し付け、だと思っている。親から子へ、先生から生徒への一方通行なのだ。何も分からない子供達の好きにさせて、真面な教育が出来る訳が ない。要は押し付ける側に、その人の人生に裏打ちされたシッカリとした信念がなければ、子供も付いては来ない事になる。
子供を叱るのは好きではないけれど、何度注意をしてもジャラジャラとしようのないガキは、尻の一つでもヒッパたいてやらないと、ピッとしない。親の前で も遠慮はしない。一生懸命、叱る。叱って良くなる子と、ビックリして止めてゆく子とタイプは様々。叱って良くなるタイプの子供なら、例え体罰が法律違反と しても、体を張って子供と向かい合うのが道場、というものだろう。

幸い今まで、子供を叱って親から文句が出た事はない。親が私のする事に同意してくれているからだと思うが、叱る事自体が法律違反のこの国では、訴えられ る可能性はいつでもある。しかし厳しくするばかりが能ではない。子供の集中力というものは、長くは続かないので、適当に息を抜いてやる事も必要になってく る。アメとムチをごく自然に使い分ける事は難しいけれど、これが出来なければ子供の指導は出来ない。

豪州では子供は様々な法律により保護されている。教育の設備も環境も良い。新しい指導論も次々と紹介され、ありとあらゆる情報は簡単に入手出来る世の中 になった。教育が良い方向に改善されているのなら、子供の質はそれと正比例して向上しなければならないはずだ。しかし現実には子供の質は毎年低下し、少年 犯罪、校内暴力、自殺等々増加の一方。子供の性格も尊敬心はまったく無く、無気力、集中力皆無、我が儘な子供達が大量生産されている。何処かが間違ってい るとは思わないのだろうか。

世の中少しアカデミックになり過ぎたのかも知れない。評論家や心理学者などが入れ替わり立ち替わり、机上の空論のような教育論を打つ。ぼつぼつそんな物に耳を傾けないで、もう少し教育の原点をシッカリと見つめる時期に来ているのではないか。

教育の原点は理論ではない。3〜4才までの人格形成期に物事の善悪を判断出来る常識に基づいた仕付けを、シッカリとしておく事だ。これが子供を持つ親、 というものの一番大切な責任でもあり、義務だ。これを御座成りにして人権を与え、教育論をブツけても、子供にはそれを染み込ませる土壌がない。

CHHEKY 本当に糞生意気なガキだった。私も本腰を入れた。まず挨拶。それが出来るようになると、私の言った事に対する、ハイ、という返事。悪い事をすると罰として 腕立て50回。私が横にいてキチンとやらせる。30回を過ぎると泣き出す。そんな事では止めさせない。絶対に50回、正確にやらせる。私に反抗する時もあ るが、そんなガキの反抗など、まったく意に解しない。

この"CHEEKY"いつ止めるかナ、と思っていたが相変わらず稽古には来る。3ヶ月も経つと少し変わってきた。ジャラジャラしなくなった。4ヶ月で私 にニッコリするようになった。クラスでも目立たない程、大人しくなった。現在7ヶ月目。楽しんで稽古をやれるようになった。ボツボツ、"CHEEKY"と いう名前を変えてやらねばナ、と考えている。

「センセイ、いい加減で道場なんか止めヤンセ。今の世の中、信用出来る人間なんテ、いネェヨ。ガキを叱るのは、法律違反だゼ、この国では。その内、訴えられるヨ」
私の親友の弁護士がそう言う。ソウサナァ、と思いながら青空を見る。空が青いナァ。サアテ、いつまで私の信念、通せるかナァ。

※編集部注:CHEEKY(チーキー)とは「生意気」「あつかましい」の意

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2004年3-4月号・其の61 人、を残したか

2007年09月05日

でェ、しばらく会わネェ内に、頑固そうな顔になったじゃないか。心の中でつぶやいた。口をへの字に結んでいるから、そう見えたのかも知れぬ。
バーニーよ、もうおっつけ38年にもなるナァ。お互い知らぬ間に、年をとったものヨ。

私が日豪合弁の南洋真珠養殖会社の技術員として採用され、豪州最北端の木曜島分場に赴任したのが1966年。当時、木曜島の人口約3千人。今度採用され たジャパニーズは、カラテのブラックベルトだそうだ、という噂は狭い島内にすぐに広まり、カラテという東洋の武術を見た事がない島民の事、アレコレと期待 していたそうだ。

養殖場は隣島の金曜島にあり、日本人宿舎もあったので、二つの島の間は目と鼻の先の距離と言っても、木曜島に行けるのは週末に限られていた。

この時代は木曜島の真珠産業の最盛期で、島の産業は真珠一色。六社の日本企業の技術員だけでも、60名を超えていた。週末には皆、パブのある木曜島に集まってくる。

空手クラスはまずこれら日本人に依頼され、会社の事務所の一部を使用し、20名程でスタートした。
ところが当時の日本人、マージャンと飲む方が忙しく、週一回の稽古をしよっちゅうサボる。私も若かったので、人を担ぎ出しておきながら何たる無礼、と怒って止めてしまった。

空手クラブを本格的に組織したのは、その一年後の事。一時帰国した時に結婚し、妻帯赴任。会社は木曜島にフラットを捜してくれ、金曜島の養殖場には毎朝小舟で通勤した。

きっかけは子供達。ある日、何もないガランとした私のフラットに、数人の子供達が訪ねてきた。空手を教えて下さい、と言う。子供の頼み、イヤダとは言えぬ。
その時の子供の一人、ケイ。今はケインズの学校の先生で、最近彼女の高校生の息子を入門させて来た。当時9才のケイと知って、ビックリ。

子供達でスタートした空手クラブは、アッという間に多人数になった。道場は教会の厚意でホールを借用。入門無料。その代わり、ビシビシと厳しい指導をした。

この頃入門した一人がバーニーである。トーレスストレート、アイランダー。稽古はエラク熱心だった。この男、妙な癖がある。

「センセイ、センセイは私が黒人だから、道場であまり話をしてくれないのでしょう」飲むとカラんで来る。
一般のアイランダーには良い人間が沢山いるが、皆飲むと駄目。ほとんどがグデグデになるまで飲み、からみ、喧嘩をする。まァ喧嘩は飲んだ時の彼等のスポーツのようなもので、私もよく楽しんだ。

バーニーは賢い男だった。それだけに黒人である事へのコンプレックスが大きかったのだと思う。だからこそそれが原動力となり、空手の稽古も身を入れたのだろう。

島では9年半働き、退社した。空手の夢がふくらみ、プロの道場に人生を懸けたくなったからだ。木曜島の道場は私の育てた有段者の連中が継続し、その後15年余続いた。

バーニーは大学に入って文化人類学を専攻、博士号まで達する。アイランダーの文化紹介のアンバサダーとして、豪州国内はもとより、米国、ヨーロッパ諸国等々にも派遣されるまでになった。プロフェッサー、バーニーである。
私達はドクター、バーニーと呼称した。このドクター、私に会うといつもキチンと立って、ペコッと礼をする。何を言っても、オス、オスと返事するのが、オシ、オシと聞こえる。黒い目をキロキロさせ、よくしゃべった。

最後に彼に会ったのは、もう10年位前になるかナァ。島へ帰った時、私の育てた弟子達が集まって、ビールを飲んだ事がある。皆、島の中心人物的な存在に成長しているのが嬉しい。

バーニーの頑固そうな顔は、まったく生きているように見える。心なしか胸も上下しているようだ。それでもソッと顔に触れると、もう人間の温かみは残っていなかった。

私はバーニーが死去するまで知らなかったが、心臓麻痺でケインズの病院に運ばれていたそうだ。

「バーニーが病院へ送られる少し前、町中で会いましたヨ。私の顔を見ると、今でも必ずオシ、オシと挨拶して、一緒に稽古していた頃と同じですヨ。必ずセンセイの事が話題になりますネェ」

バーニーの死を知らせて来た島の弟子のトニー、そう言って寂しそうにクックッと笑った。遺体は島へ運ばれ、島を上げての葬儀になるそうだ。幸い私はその前に、ケインズで最後の対面が出来た。

「センセ、バーニーのお棺は私達空手クラブの連中が、稽古着姿で担いでやりたい、と思っていますがいいでしょうか」

現在ではウォータータクシー会社を経営する髪の毛も白くなったトニー。
私が島を去る前に入門し、ホンの少しの間しか指導しなかったのに、彼の態度は今でも稽古を続けている弟子だ。私が島へ行くと、必ず彼のウォータータクシーで送り迎えしてくれる。頭が下がる。

LIVING IN CAIRNSの私の駄文を読んで、私に色々として下さる方が九州の肥後におられる。私は勉強という事をまったくしないので、自分の思った事しか書けない。 その方のお便りからは、彼の勉強の深さが感じられ、同じ年代なのにその差を思い知らされる。

その方が、明治の元老、後藤新平の言葉を送って下さった。

——『金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり』——。

私はこの年になっても、金は残せなかった。ましてや残す事業等ない。空手で多くの人達を指導してきたけれど、それがすぐに人を残す事にはつながるとは思えない。

しかし、と考えた。バーニーは空手の稽古があったからこそ、その自信が黒人というコンプレックスを越えさせた。トニーは若い時、しょっちゅう牢に入れられていた暴れん坊だった。それが素晴らしい人間になった。

道場には何ともしょうのない、やんちゃな甘やかされたガキ共が次々と入門してくる。大半は、止める。それでも残った子供達は、知らぬ間に子供らしい良いガキになる。もしかしたら、私は少しでも、人、を残しているのかも知れない。

バーニーのお棺の中に、私の使っていた黒帯を入れた。俺より若エくせに、先に行きやがっテ。まァその内、俺も行くからナ。

この男と会って38年か。色んな事があったナァ、と考えていたら、急に涙がボタボタと落ちた。バーニーよ、俺の涙も持って行け。

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2004年5-6月号・其の62 新種

2007年09月05日

カラフルで美しい。大きさは30センチ程度。沢山いるのに口が小さいので、なかなか釣れない。チャイナフィッシュ、と呼ぶのだそうだ。私が豪州最北端、トーレス海峡にいた頃。30余年も前の話だ。
「何でダェ」と聞いてみた。中国の方には失礼だが、答えが面白かった。
「何処にでもいるもんネ」
ちなみにこの魚、食べてもあまりうまくない。

「日本の女の子、今ここではニューマーケット、ってえ男共が騒いでいるヨ」

西豪州ブルームの年間行事、シンジュマツリの責任者の一人、Aさん。数年前、マツリの40周年にブルーム市から招待され、空手演舞に行った事がある。

エッ?私はその意味が今ひとつピンと来なくて聞き返した事だった。
その男、界隈の鼻つまみ者だった。無職、ヤクの常習者、全身に刺青。生涯、政府からの失業保険を当てにして生きるタイプのようだが、こんな人間豪州には沢山いるので、別に珍しい存在ではない。

そんな男に日本人の女の子がくっ付いた。近所の住民達、興味津々と見ていたらしいが、二週間目で結婚までこじつけたのには驚いたという。理由は簡単。女の子のワーホリのビザが切れてしまうからだ。

「地元の俺達にゃ、いやに肩身の狭い世の中になってきたもんだゼ」とAさん。

ちなみに日本人の女の子を追い回すタイプの第一位は、当然無責任な遊び人タイプ。次が豪州人の女の子にあまりモテないタイプ。だがこの中に結構人間的にはいい者がいるようだ。
最後は一度結婚に失敗した中高年者層で、気の強い豪州女とは再度一緒になりたくない、と考えている男達。経済的には安定しているので、日本人女性が好む対象だという。

日本人女性でもピンからキリまである。いい娘がいい男を掴み、ボロはボロを掴む、とはまァ一般論だが、外国、特に豪州のような国民性では、なかなか常識通りにはゆかないのが現状のように見える。

狭っ苦しい島国、日本からやって来た。国土は開放的だし、男共は親切のようだ。社会保障はいいし、ゆとりがある感じ。他人の国と燐家の食卓は良く見える。この国に住みたい、と外国に憧れる若い子が思うのも無理はない。

サテと、手っ取り早く豪州に住めるようになるには、ソーサナァ、こっちの男と結婚すれば簡単ジャン。外人のハズなんテェ、カッコいいしネ。すぐに永住権は取れなくても、住む権利はあるモンネ。

ビザが間もなく切れるから、早いとこ男を決めなくちゃ。一緒になっても気に入らなかったら、その内別れればいいしネ。女性には寛大で有利な法律を利用しなかったら損。別れる時は、ついでに慰謝料も請求しようっと。

こんな子はごく一部だとは思うけれど、その筋の連中と話すと、結構いるそうだ。
豪州人の野郎だって適当にやっている。時々私の道場に写真を撮りに来ていた新聞社の若いカメラマン。上げ底のような男だ。見かけはいいが中身が少ない。

この男、ある夜日本人の女連れで道場に来た。結婚するンだ、という。私にはその男が見えていたので、嘘ぬかせ、と思ったが、ペターと甘い目をしてくっ付いている女の子の手前、黙っていた。

数日後、知人を見送りに空港に行くと、その二人がいる。帰国する女の見送りらしい。女の子、男にすがり付いてビショビショと泣いていた。ヤレヤレ、結末 の知れている芝居を見ているようなものだと思ったが、これは女の子自身が目覚めなければ、どうしようもない。

その数日後、又その野郎に街で出会った。別の日本人の女の子がくっ付いていた。野郎、私の顔を見て、ゴソッと横を向いた。
まァ最近、こんな男共掃いて捨てる程いるのだろう。

平和大国、日本。平和ボケして育った日本人の若者。良くも悪しくも警戒心がなく、無防備。道徳的にはかなりルーズで外国人には憧れる、とあっては、豪州 の男共にはまるで鴨が葱をしょってやって来るように見えるのかも知れない。そんな男達に、手を出すんじゃネエよ、と野暮な事も言えまい。

豪州人と日本人を二つの輪に例えて見る。
並べて置いた二つの輪を少しずつズラしても、この輪がピタリと重なる事は絶対にない。ただ、ズラした輪が部分的に重なり合って生じる共通の部分が、ホモサピエンスとして共有できる大切な領域になる。
この領域を広げるのも、せばめて消失させるのも、輪の重なり合っていない余白の部分の働きによる。

このお互いの余白の中には、各々の国民性や文化、人間性等が詰まっている。つまりこの余白の部分が豊かであればある程、二つの輪の共有するする部分に深みが出てきて、国際結婚であってもお互い尊敬しながらうまくいく。
ただし、その余白が貧しければ、共有する部分は少しずつ消滅し、やがて二つの別々の輪に戻ってしまう。だから、輪が違う人と暮らすには、覚悟と努力が必要だということを自覚して欲しい。

どんな形であれ、私は男女の仲をとやかく非難するつもりはない。忠告するだけ野暮な世界。失敗したって身から出た錆。私の見たところ甘く点を付けても、 今くっ付いている豪州人と日本人のカップル、六、七割の輪は近い将来二つに離れてしまうだろう。父親も母親も好きな事をやってきたのだから、とやかく言う 筋ではない。ただ一番の被害者は、子供、とだけ言っておこう。

「豪州は社会保障がいいから、貰える物は貰わないと損」

そんな日本人の女性に会った。損得勘定が人間としてのプライドより優先する世の中になりつつある。外国に住む事は、間接的にその国に世話になっている事 だ。何等かの形で、その国の役に立ちたい、とは思わないか。恩を返す。それがプライド、人の魂というものだ。

その魚、いくらでも釣れる。見かけの割には、まったくうまくない。
ジャパニーズフィッシュ、という新種だそうだ。そんな名前を付けられないよう、日本人としての自分の持ち味を磨いて欲しい。

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2004年7-8月号・其の63 珍味アラフラオオニシ

2007年09月05日

ズズズーッ、と小舟を浅瀬に乗り上げた。バシャッ。水の中に股まで飛び込むと、白い砂浜に透き通った海水が、キラキラと輝くように散った。ようやく来たゼ、と思った。
目の前に広がる広大な瀬。いつもは海の下だけれど、六、七月の冬季になると、昼中の潮が低くなり、時々ポッカリと顔を出す。

私が日豪合弁の南洋真珠養殖会社に技術員として採用され、豪州最北端の木曜島養殖場に赴任したのが38年前。この職場の分場が木曜島を出航して北方へ五時間、モア島のポイドという無人の場所に設置されていた。時々分場に出張させられる。

ある時、見慣れた水平線上に、白い帯状に横たわったものが見える。近隣の島から雇用している島民に聞くと、
「アリャSAND BANK(瀬)だべ。今ん時期になると、海ん中から顔出してくんべ」

その時は冬季だったに違いない。
養殖場の母貝を放養する篭の中には、色々な種類の貝類が入り込んでくる。豪州産貝類は美麗種が多く、それに魅せられて懸命に収集していた時があった。冬季の潮が引くのを待ちかねるように、収集に出かけたものだ。
普段海の底になっている浅い瀬は、干上がると絶好の採取場所になる。ポイド分場から沖の白い瀬を見るたびに行ってみたかったが、娘の里味が五才頃になるまで、そのチャンスは巡ってこなかった。

その時は私が分場の責任者だったので、一ヶ月程家族で分場に来ていた。冬季だった。絶好のチャンス。
ある日曜日、島民一人を案内役に連れて、待望の沖の瀬に出た。空と海の青い、冬でも太陽の熱く降る、素晴らしい快晴の日だった。
何やら砂の彼方に黒い物が見える。岩に違いネエ、と思ったが、近づくにつれ、横に長く、頭の先が尖っているのが見える。どうやら大きなホラ貝のようだ。 表面に付着生物が育ち、泥にまみれていた。50センチ以上もあるデッカい巻き貝だ。テッキリ死貝と思った。惜しいナァ、と思いながら足で蹴るようにして押 すと、ガポッと急激に空気を吸い込むような音を出し、ヒックリ返った。鮮やかなオレンジ色の殻口が顔を出し、その中にジューッとへたが入ってゆく。何と、 生き貝だ!!

ちなみにこの貝、和名はアラフラオオニシ。世界最大の巻き貝だ。
その日はバケツ二杯分の貝類と数個のアラフラオオニシの大収穫。小舟まで運ぶのが大変だった。オオニシの重量、6〜7キロ以上。この貝、どうやって身を取るか。島民に聞くと、「木から吊るしておくべ」。
数日たつと、なる程、身がズルリと真下に抜け落ちていた。今思うと、あの時は貝殻を入手するのに夢中で、せっかくの珍味を無駄にしてしまった。貝に悪い事をした。

木曜島養殖場はその後閉鎖になったが、その後を私の兄弟分の高見君が引き継ぎ、労力にワーホリの若い連中を雇用して、現在も頑張っている。これが時代の 流れというものだろうか。自然以外何もなかった木曜島にも、観光客が押しかける昨今。養殖場へのツアーの依頼はいくらでもあるが、ツアーを入れると仕事の 妨げになるし、人間相手は様々の規約があるので煩わしい。
木曜島には産地直売のギャラーをオープンし、どうしても養殖場から直接、という客のみ受け入れている。中間業者がいない分安くさばけるので、わざわざケインズや南の方から買いに来る客が増えつつある。

「イヤ、何ともウマイですネェ。私はアワビなんかより、ズッとウマイと思いますネェ」
金曜島の背後にも、冬季にポッカリと顔を出す広大な瀬がある。私もよく行った。潮溜まりにはサヨリ、ボラ、キス等の小魚。岩場にはタコ。砂地にはアサリ や小エビ。自然の恵みの宝庫とは、こんな所を言うのだろう。アラフラオオニシもよく見つかる。高見君が時々冷凍した身を送ってくれる。身の抜き方にコツが あるそうだ。
「ガポッ、という何ともいい音を出して、スポッと出て来ますヨ」
その身、ごく薄く切って、そのまま刺身のように食べるだけだ。コシコシとする歯触りが絶品で、たしかにウマイ。これに白ワインか酒でもあれば、もう言う事なし。

時々日本からの番組の録画をもらう。食べ物の番組が多く、最高の材料を使って贅沢な事だ。いい材料を使えば、誰でもうまい料理が出来るのではないか、と 料理オンチの私は思ってしまう。料理上手という人とは、庶民的な安い材料を使って、チョットした工夫でうまく食べさせてくれる人、と私は考えている。

食べ物は人間の本能に一番近い物。生まれてすぐの赤ん坊にも、必要な物。本能に近いだけに、好き嫌いをさせず、出された物は残さず、上手に食べさせる事が、母親にとって最初の躾になる。
物のあふれる時代に好き嫌いをさせないという事は、難しい事かも知れないけれど、親の料理した物は文句を言わず食べさせる習慣をつける事は、子供を我がままで横着な子に育てない基本にもなる。
私は何でも食べるし贅沢もしないけれど、食事に関する心の贅沢だけは、いつも心がける。

島で網を打って捕ったキスやサヨリは、海岸で刺身。カキは海水につかりながらコツコツと割り、レモンをチョットしぼってそのまま食べる。ウニはすし飯を 用意しておき、その場でウニの握りを作る。大きなエビは焚き火の上で焼く。アクール等の大きな二枚貝は、残り火の上に置き、口を開いた時にチロチロと醤油 を落として味を付ける。

大切な事は、全部自分達が体を動かして捕獲した物ばかりを自然の中で食べる。この時の一杯は、サテサテ、何物にも代え難い心のふくらむ思いがする。自然の有り難さが、無意識の内に心の中に入って来る一刻だ。

豪州で子育てをすると、自然の豊かなこの国では、こういうチャンスはいくらでもある。自然の中にいるから、その有り難さが見えないだけだ。ガキの時代に、自然からもらった物をおいしく食べた、という経験を出来るだけさせてやりたいと思う。
人間もその昔、自然の中から生まれてきた。人間も自然の一部なり。心の豊かさは、自然の中から学ぶ事の出来る大切な物のひとつだ。

チョットいい話。
動物の子供は、生まれるとすぐに立ち上がるのに、人間の子供はなぜ長い間這い回っているの、と疑問に思う子供がいた…ソウダ。
人間はネ、その昔自然から生まれたんだヨ。自然は人間には遠いお母さん。お母さんを忘れさせない様、お母さんの心をもらう様、這い回ってお母さんに触らせているんだヨ…と答えた人がいた…ソウダ。

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