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エッセー

ケアンズとその一帯に住んでいた中国人

2007年09月10日

(左)1903年頃ケアンズに移住してきたWong Su Duck一家。4人の妻、24人の子どもがいた

(右)ドラゴンダンス アボット通りにて1910年撮影

 

 1870年代、ゴールドラッシュのあったパーマーリバーにはたくさんの中国人が働いていました。金が採れなくなった後も、その多くがケアンズとその周辺に在留。1881年には、サッシュ通り(現シールズ通りとスペンス通りの間)がケアンズのチャイナタウンとなりました。粗末な小屋が並ぶこの通りに、およそ700人の中国人が暮らし、ほとんどの人々がサトウキビ・プランテーション、Hop Wah Estateで働いていました。マルグレーブロードとイシュメール通りの間、チャイナマン・クリーク近くにあったこのプランテーションは1〜2年後つぶれてしまいましたが、管理人の住んでいたマクロード通りから畑までの道は、閉鎖後もしばらくHop Wah Roadと呼ばれていました。
1880年代までには、掘っ建て小屋はなくなり、チャイナタウンにちゃんとした建物が建ち始めます。ストリートの西側の真ん中にあったのはSun Wo Tiyが所有する2階建ての大きな建物。その向かいにはSam Singの2階建ての建物。また道の両端にJoss Houseが建てられました。道沿いには中華パン、焼豚、食べ物屋などの店舗が並び、角をスペンス通り側に曲がった所にはChin Bonの仕立て屋(現Cummins & Campbellビル)があり、軽いシルクでできたスーツを売っていました。
ほとんどの中国系の店は後ろに長く伸び、右側が細かく別れていて、多くの人がそこで寝、横には男性がオピウムのパイプを吸う場所がありました。奥の部屋ではギャンブルが行われるのが常で、Fan Tan やChee Farと呼ばれるゲームが好んで行われました。
前後に籠のついた棒を肩に背負って野菜やフルーツを売る人もチャイナタウンではたくさん見られました。彼等は籠に合計で65kgほどの物を入れて運ぶことができ、歩くたびに籠を一緒に持ち上げて、肩に重みがあまりかからないようにうまく歩きながら、ケアンズの町中の一軒一軒を回って野菜や果物や、時にはpak-a-puと呼ばれるギャンブルの券をこっそり売って歩きました。
中国新年は1週間に渡って祝われ、チャイナタウンでも毎日午前6時から午後10時まで祝賀が行われました。この期間は歩行者天国で、各店ともベランダから滑車付きの爆竹を地面から少し離れた所まで下げました。約30センチごとに8個ほどのボンボン付きのふさで飾られたこの爆竹は、発火すると大きな音がなるようになっていました。爆竹が通りに投げ込まれたり、スカイロケットや花火が夜空を飾ったり、白人も店に招待されてビール、ワイン、スピリット、中華菓子、ジュースなどと一緒に中国新年を祝いました。
サッシュ通りの他に、小規模ながらカントン通り(現ドレーパー通り)とHop Wah Road(現マルグレーブロード)との角にもチャイナタウンがありました。
チャイナタウンの外でも野菜やフルーツの栽培、サトウキビ・プランテーションで活躍する中国人がいました。Lum Jimという人は、フレッシュウォータークリーク近くにあったBill Bannings’フルーツ果樹園を所有し、100エーカー程のこの土地で5人の中国人を雇って果物を栽培。レインコートや帽子をワラで作っていたと言います。1880年頃Fairview Hillんに住んでいたJimmy Ah Singは丘一帯に果樹園を持っていました。Pine Creek に一家で暮らしていたWah Dayは80才を超えた老翁で、フルーツやライチを栽培。彼の家族は現在も同じ場所(Glen Boughton)でサトウキビ畑を営んでいます。Green Hill にいたSee ChinはCSR社がサトウキビのために土地を買い上げるまで、大々的にバナナを栽培していました。
現在、チャイナタウンは姿を消してしまいましたが、白人と結婚した中国人も多く、現在も多くの一家がケアンズに暮らしています。

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