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エッセー

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之定異聞 Vol.92

2009年05月11日

首にはロープが付いていた。

日本人、それも軍人のようだ。

 

垂れ下がったままの死体を下側から見上げるように写し、大きく引き伸ばしてある。

 

ヒデエ写真だぜ、と思った。

 

パービス氏は何かの写真を私に見せたかったに違いない。

 

ところがこの死体の写真が偶然に、私の目に飛び込んで来た。

氏は眉一つ動かさず、さりげなく古びたアルバムのページを閉じた。

 

日本人の私には、見せたくない写真であることがそれでも感じられた。

 

 

ジャパニーズのカタナが出たンだけど、見たいかエ、という電話は、チャンネル10のインタビュアー、グレイム。

 

10年近く働いた木曜島の真珠会社を思い切って退職し、ケインズに下って空手道場を開いたのが34年前。

道場を軌道に乗せるのに2年以上かかった頃、あるテレビ番組に出演。その時グレイムと知り合った。

 

大東亜戦争の末期、インドネシア領バリ島の日本軍が降伏したとき、その調印式はデンパサールで行われた。

豪軍側の責任者が空軍幕憭長のパービス氏。

 

その彼が何と、ケインズのEdgeHillに住んでいた。

降伏の証しとして日本軍司令が差し出した彼の佩刀をパービス氏が保存していたのだ。

 

たまたま他の番組で彼を取材したグレイムがその刀を発見。

私に連絡してきた、という訳だ。

 

30余年前のケインズ。人口6万。

信号機わずかに2基。

ビール1カートン9ドル。

クリフトンビーチの最初の分譲地の値段、1区画2千ドル。

そんな時代だった。

 

戦後30年、日本人に対する偏見もまだ根強く残っていたものだ。

パービス氏は60代半ば。

 

私に見せるために用意していたのだろう。

厚く古びたアルバムが出してあった。

 

氏自体、日本人の死体の写真等忘れていたに違いない。

さもないとあらかじめその写真のページを隠しておいたはずだ。

 

今思うと、あの死体の写真は日本軍兵士、それも将校だ。

 

敗戦で自らの命を断ったのか、捕虜として絞首刑になったのか、今となっては判りようもない。

 

その夜、パービス氏の軍刀をジックリと調べてみた。

と言っても当時の私、日本刀に関する知識は皆無だった。

軍刀はパービス氏の好意で借用出来たのだ。

 

柄にある目釘を抜くと柄はゾロリと外れ、錆びた中心が出る。

刀工は満足のゆく作品に仕上がると、中心に自身の銘を切る。

なるほど、銘が見える。

 

サテ、なんと読むのだろう。濃州開住魚 作、と読めるけれど、意味が判らない。

ウ冠の中が之の時に切ってある文字は、定のくずしだろうか。

 

私がラッキーだったのは、私の身近に日本でもトップレベルの刀剣鑑定家がいたことだ。

私の妻の妹の亭主。

当時、刀剣と歴史、という雑誌の編集長だった。

 

そのころはファックス等という便利なものはなかった。

 

美濃の関に住む古刀期(1600年以前の作)の兼定ではないか、という義弟からの返事が届いたのは、しばらくたってからである。

なる程、濃州は美濃の略。

開と見たのは、関。

 

兼の字を極端にくずすと、魚という字に近くなる。

ウ冠の中を之の字に切るのは、兼定二代目の特徴で、俗に、之定、として知られる名刀だと言う。

 

だからこそ偽物も多いがネ、と付け加えてあった。

新選組の土方歳三が探し求めた刀が、この之定である。

 

確かに現存する彼の佩刀は兼定だが、これは四代目兼定が仙台に移住して鍛刀し、君主から和泉守兼定という刀工名を拝領した後の一振り。

歳三はそのことを知っていたのだろうか。

 

次にまた義弟からの便り。

コリャ魂消た。

 

義弟が厚生省の知人に無理を言って調べてもらい、日本軍降伏時のバリ島司令官の名前が判明。

 

その司令官が何と、大阪で小児科の開業医として存命だった。

 

そこまで判明したらする事は一つ。

 

パービス氏に事情を説明し、その刀を譲り受けて持ち主に返してやろう、と思った。

氏の返事は簡潔明瞭だった。

 

日本人には売らぬ。

 

その言葉、私の魂にまでカチンと響いた。

ヨシ、ソンなら豪州中にある日本刀を集めてヤる、と思った。

 

豪州にある日本刀は大半が大東亜戦争の戦場からの戦利品。

他は戦後日本へ進駐した者達がミヤゲとして持ち帰った物だ。

 

日本刀は日本の歴史に密着して千年。

日本が世界に誇る事が出来る最古の歴史的文化遺産だ。

 

専門的には関ヶ原の戦いの1600年以前の作を古刀、幕末への序章となる文化文政期の1804年までを新刀、1868年の明治維新までが新々刀、明治以降現在までを現代刀、と分類する。

 

道場の門弟達に依頼する、古物屋、アンティーク店を探す。新聞に広告を出す。

それだけでも何とか薄皮をはぐように、ポロリ、ポロリと戦場の臭いがするような刀が出てくる。

 

一振りごとに日本の義弟に詳細を送り、鑑定を依頼した。

 

日本刀の知識が皆無の私でも、少しずつ塵が積もるように刀を見る目が肥えてきた。

と同時に私の日本歴史に対する理解度の貧しさも身につまされてきた。

特に現代史、大東亜戦争は当時からわずか30余年前の出来事なのに、学校では臭い物に蓋式の教育で、日本は侵略国家であるという自虐史観でウヤムヤにされただけだった。

刀はニューギニア、ラバウル、ソロモン、ブーゲンビル、ボルネオ等々様々な戦場から集められていた。

その戦史も知らねばならなかった。

 

日本史と大東亜戦史は、刀という文化遺産を理解する上での必須条件になった。

そして当然の結果、戦前までの日本の歴史と価値観が180度変えられた、戦後の東京裁判に付き当たる。

 

 

判かり易く言えば、喧嘩両成敗が徳川幕府の条理であったように、国を上げての戦争には、その国なりの言い分がある。

 

それでもお互いに殺し合いをやっているのだ。

米軍も豪州軍も十分に戦争犯罪として裁かれるべき残虐な行為を日本軍に又日本一般市民に行っている。

 

それらも何も一切を引っくるめて日本が悪かったからだ、と判決を定め、日本を侵略国家と決めつけて戦勝国の汚点をも日本に背負わせたのが東京裁判だった。

 

加えてこの裁判は国際機関が承認した正式の裁判ではなかった。

勝てば官軍なのだ。

 

日清日露戦争から大東亜戦争までの現代史を正確にひもとくと、誰もが現在の左翼主義歴史教育と全く反対の、この結論に辿り着く。

 

私にとって全く当たり前の常識的論理だと思った自衛隊田母神幕憭長の論文。

そんな文に日本は大騒ぎ。

 

おまけに政府は田母神氏を罷免し、彼の年金さえも取り上げた、と聞いた。

アホか、と言うより暗澹たる気持になる。

 

東京裁判の一方的判決をソックリそのまま受け継いだ日本の左翼教育。

国家破壊教育論者のように私には見える。

 

又アンザックDAYがやってきた。政府の人気取りタダ金に慣れすぎて、全く本気で働こうとしない人間の多い豪州。

 

労働党とユニオン、グリーニーの癒着は、中小企業経営者に様々な難問を提起しないかと心配である。

 

そんな豪州でも第一次大戦中に豪州が出兵したトルコのガリポリの慰霊祭に集った豪州人、なんと7500人。

豪州各地では国のために死んだ兵士達の慰霊行事が盛んに行われている。

 

自国を侵略国と決めつけ、国のために死んだ若者たちを顧みようともしない私の母国日本。

この日は唯一、豪州という国がうらやましい。

 

 

パービス夫人から之定を譲るという連絡があったのは10年程も前。

最初にこの刀を見てから20年の歳月が流れていた。

 

早速連絡を付け、刀を再び見せてもらったら、なんと一目で偽銘の之定と鑑定出来た。

 

私の目も良くなっていた訳だ。その事実を正直に夫人に説明し、それでもかなりの金額を申し出たが、夫人からの連絡は戻ってこなかった。

 

もしかしたら夫人は、私が値段を落とすために偽銘の話をした、と取ったのではないか。

この偽銘之定は私の心にしこりを残す一振りになった。

 

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人間も自然の一部なり人間も自然の一部なりVol.91

2009年03月10日

力まかせにむしり取ったような傷口から、青白い腸が垂れ下がり、亀の動きと共に、ブヨブヨと揺れた。

大きな海亀だった。

 

私の体重の3倍もありそうだ。

 

特大の団扇よりも大きい後鱗は、甲羅と一緒に噛み裂かれ、赤黒く変色した血肉に、団子のようになった砂がこびり付いていた。

私がスッポリと入る青黒い甲羅にも、鋭いのみで引っ掻いたような跡が何本も見える。

 

 

惨劇の主が残した歯跡だった。
ケープヨーク半島突端、豪州北端の町、木曜島。そこから船で5時間。

 

PNGとの中間点に、トーレス海峡で2番目に大きな島、モアがある。

 

セントポール、クビンの針で突いたような島民の村落を除いて、無人。

その島の一画に、私が働いていた南洋真珠養殖木曜島工場の分場が設置されていた。

 
分場前の海峡を隔てて、島民の村落のあるバドー島がある。

養殖場の労働力は彼等島民で、毎朝小舟でやって来た。

 

養殖場は彼等にとって唯一の現金収入の道で、我々日本人は彼等に一目置かれていた。

 
その朝、いつも早目にやって来る彼等の様子が、何やらおかしい。

いやに騒々しい。彼等は前日に海亀を捕獲していた。

 

ジュゴンと並び、彼等の大切な蛋白源だ。

 

多分、その亀をカプマウリ(石焼料理)にでもする相談をしているのだろう、と思っていた。
前夜は潮が高かった。波打ち際から作業場まで、わずかに10メートル。

 

その間の砂の上に、何か重く長い物をこねるように引きずったおぞましい跡が、クッキリと残されていた。

「コリャ3メートル以上、あるべ」島民がつぶやいた。

 

海亀をアタックした惨劇の主。

ワニだ。

 
日本人宿舎の私の使用していた部屋から現場までは、目と鼻の先。

私がもし目を覚ましていたら、ワニが甲羅を噛み砕く音が、聞こえたに違いない。
自然の中で距離をおいてワニを見物するのは楽しいものだ。

 

しかし人間様の住居にまで侵入して来るようになったら、コリャ少々ヤバイ。

 

私はサメとワニの危険度を3メートル、と考えている。小さい個体なら一緒に遊んでもやろうが、これを超すあたりから、私はいい餌になってしまう。

 

ヨシ、こ奴を掴まえて、尻の1つもぶっ叩いてやれ、と思った。

 
宿舎の両側は延々と続くマングローブ沿いの泥地である。よくワニが甲羅干しをする。
ワニは遠くから見ると、白っぽい流木に見えた。その頃、かなりの大きさのワニが、宿舎の近辺に上っていた。ア奴に違いない。

 
陸上から近寄るのは、マングローブの森に遮られ、不可能に近い。舟を使うと近付く前に逃げられる。

それならば、50メートル程手前まで微速前進。そこからエンジンを全開。

 

一挙に近付き、舳先から射つ。
鎧で被われたようなワニの頭部。無表情なくぼんだ目。そのすぐ後部。

豆腐のように軟らかい箇所が一カ所だけある。

そこを狙う。

ゴルゴ13じゃあるまいし、万が一にも命中する事はない、と判っていながらも、一度だけ試みた。

 

ライフルはセミオート。小口径ながら10連発。
スコープの中にワニの頭部が見えた。50メートル。

エンジンを吹かせ!!銃を構えたまま、叫んだ。

 

エンジン音が鳴った。

体がグンと反った。

ワニが動いた。

 

射った。

 

ワニの近くに着弾の泥が散っているのが見える。ワニは優雅に滑る。

スポンと水中に入ったら、鼻だけ又、スッと浮いた。

 

近くだった。

鼻を射った。すぐ横にボゴッと水が湧いたら、ワニはユックリと姿を消した。

 

全弾を射った。

手応え、なし。

ワニは翌日、場所を変えて甲羅を干していた。

 
「釣ったらよかんべ」 島民が言う。

 

サメ釣り用の大きな鉤を使用し、海面に突き出す上部なマングローブの枝から餌を垂らすだけだべ、と事も無げだ。どうやらその餌の高さがポイントになるようだ。

 
「餌、水の中つかる、良くないべ、水面からチョット高いとこ、吊るヨ。

 

ワニ、カイカイ(食べること)にくる。

ジャンプするヨ。そんでパタイ(死ぬるという表現)ヨ」餌は、と聞くと、「腐った肉がいいべヨ」。

ワニは用心深い。

 

そんなに簡単に釣れる訳はないべ、と思ったが、とにかく腐った肉の餌が手に入るまで待った。
その日が、来た。夜の満潮時の潮の高さを調べた。マングローブの木を選んだ。

 

大きなサメ鉤の道系に10番線を使用し、それにロープを結びつけた。

 

いかにも原始的な道具を木の枝から垂らした。
その翌日。夜明けを待って見に行った。ところが…掛かっていた!!潮が下がって、半ば宙吊りになっていたけれど、掛かっていた。

 

まだピンピンと生きていた。

 

それにしてもワニは2メートル程の小ワニで、私が狙ったあの大きなワニではなかった。
小ワニでもアタックする。食い付かれるとただではすまぬ。

釣り上げるのに夢中で、釣れた後の事を考えていなかった。

 

鉤を外すのが何とも大変だった。

 

ワニ釣りはそれで懲りた。
この後しばらくして、ワニは保護動物として捕獲禁止になった。

 

豪州の自然保護政策はこの時点から、徐々にエスカレートする事になる。

40年前の事だ。

 
「私しゃ、怖かったヨ」マーリーンが肩をゾクゾクと震わせながら、私に言ったものだ。

 

彼女の家はケインズから南に100キロ、イニスフェイルの郊外にある。今年は雨がひどかった。あちこちが洪水になった。
その夜彼女の地域は、チョットした洪水騒ぎになった。

仕事から戻ると一面の水。

 

車を高台に残し、かなりの距離を太股まで暗い水の中に入り、歩かねばならなかった。
家の近所にクリークがある。そのクリークも水の下になっているはずだ。

 

クリークは海の入江に開いている。

入江には…ワニがいる。

もしそのワニの一部がクリークに棲み付いていたら…。

 

暗闇の中、そこに考えが及んだ時、「胸がドキドキして、動けなくなりましたヨ」

 
私も何度か、ワニがいると判っている水中に入る羽目になった事がある。

 

いつ足をやられるかと、本当に怖かった。
ワニが保護されて40年。

ワニは静かにあらゆる海浜、クリーク、河川へとその棲息分布を広げている。

 

小さい内はいい。

それらが全部3メートル以上になる時を考えると、空恐ろしい思いがする。

 

事故はこれから増える。
捕鯨問題が又、表面化している。

 

日本側は何等法律、条約的に違反を犯してはいない。

日本政府の腰の弱さはもう誰もが認めている事実だけれど、操業中の日本船に汚物を投げ入れ、不法侵入した輩が英雄視される豪州側の感情丸出しの反対論。

 
こんな時だからこそ日本の捕鯨文化史を踏まえて、毅然とした態度に出れないのか。

今の世の中、こんな事を言う人間の方がバカなのだそうだが、言いたい事が言えなければ、年を取ってまでこの世に生き残るスジが通らない。
 

 

日本での夏休みの宿題の昆虫採集。

学校はガキの頃から自然破壊を教えるのか、と講義した団体があったそうだ。

 

人間と自然との関係、人間の倫理というものが、まったく判っていないズレ人間だ。

 
何が何でも動物を殺すな、という事が本当の自然保護ではない。世の中平和になりすぎて、人間が少々ズレた感覚で妙に優しくなり、何事にも神経過敏になりつつある。

 
保護とは自然界とのバランスを考慮し、動物のみならず人間への思いやりも含めて、成立するものだ。

 

人間も自然の一部という事を、人間自身がしっかり認識しなくてはならぬ。

 

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ケインズのお父さんVol.90

2009年01月10日

ウワー、ハンサム!! 私の道場に新しく入門した青年を見た当時の日本人女性群。

手を打ち頬を染めて、囁き合ったものだ。

 

年の頃、24、5か。
3ヶ月程ケインズに滞在するので、その間稽古を見てもらいたい、という日本人青年。

 

スラリとした体付き。

私への受け答えも礼儀正しく、爽やかな印象を受けたが、と同時に、線のやや細い、繊細な感じの性格のようにも思えた。

 
稽古は熱心だった。

 

初心者という触れ込みだったが、動きの中に癖がある。

空手には様々な流派があるが、大きく分けて、伝統的空手とそれから派生したコンタクト系のニューウェーブ的空手になる。

 

伝統空手も流派により癖は異なるが、その動きではない。

コンタクト系の何かを噛ったナ、と思ったが、黙っていた。

 

どちらにしろ全くの素人より指導しやすい。

体の動きのスジは良かった。

 

あの時からもう7、8年経ったろうか。

 
その青年、別に働いている様子でもなかった。

「何をしにこの町にやって来たンだエ」ある時、聞いてみた。

 

答が振るっていた。

日本では出来ない色々の経験をして、人間性の幅を広げたい…とか。

 

この年代の若者らしからぬ答だと思った。
「日本で何をしていたンだエ」と聞くと、「俳優です」
そして彼が出演した映画の題名を何本か、サラサラと述べた。

 

日本の現状にあまり縁のない私には、まったく馴染みのないタイトルばかりだったが、何本かの主演作もあるそうだ。

出演しました、と言うところ、出させて頂きました、と言うあたり、青年の性格の一端が読み取れた。

 

空手の稽古は、映画のアクションシーンに使える体の動きを勉強する為、らしい。
私はこの年になるまで、その時代の社会の動きとか話題、流行等にまったく無頓着な人生を送ってきた。

 

興味がないのだ。
朝稽古は10時からだから、朝はユックリと起床する。午後は5時から稽古。それまでは私の自由時間。

 

こんな生活を33年間、続けてきた。
時間が止まっているかのように静かでノンビリしていたケインズの町。

 

ある日突然、日本人が大挙して押しかけ、開発業者が入って土地の値上がりが始まった。

 

コンピューターが必要不可欠な文明として定着し、携帯電話なるものが当たり前のように普及し、今頃は持っていない人間の方が珍しくなった。

 
生活は派手に何とも便利になってきたけれど、その反面、人々は止まっていたかのようにゆるやかに流れていたケインズの時間を見失うようになった。時間や機械は人間が創ったものなのに、知らぬ間に、人々は人間の創った物に支配される生活になってきた。

 
贅沢になった物質への憧れは、人々の出費を促し、以前のように亭主だけの収入では食えなくなり、共稼ぎが増えた。

 

生活のリズムが変わってくると、それは人々の精神面へのストレスとして蓄積されてくる。

 

これに拍車をかけるのが、必要以上の人権への主張と保護政策。権利を与えるという事は、その背後にしっかりした責任観念、義務感があってこそ、生きてくる。

その観念なくしてのママゴトのような権利の主張は、無責任なモラルの低下を助長するだけだ。

 
こんな時代の推移の中にあって、私は相変わらず33年間培った私の時間の観念の中で生きている。

 

ただ年をとるにつれ、忙しくなってきた。

自分の仕事ではない。

全部、他人の頼み事の為だ。

 
コンピューターは、私の頭には複雑過ぎる。

 

メイルの受け渡しと、MYOBのアカウントにしか使用出来ない。

 

日本語のメイルはまだうまく送れないが、別に不自由していないので、下手な英文で用は済む。
携帯は費用を毎月支払っているものの、使ったことがまずない。

持つのは面倒臭いし、オフィスにいるのならともかく、他所で何かをしている時に、他人の声に邪魔されるのは嫌だ。

 

それを便利と考えるかどうかは、時間というものに対する価値観の相違だが、マアー私のヘソはかなり曲がっているのかも知れない。
青年は3ヶ月後、後髪を引かれるように、私の道場を去った。

 

彼から、良い仕事をもらった、と喜びのメイルが入ったのは、それからしばらく経ってからの事だ。

 

トム・クルーズ(私は知らなかった)の THE LAST SAMURAI という映画の、日本人武士団の1人として採用された、と言う。

ロケはNZ。

ロケ地からロケの様子や彼の甲冑姿の写真等を送って来た。

 

良かったナア、と私も我が事のように喜んでいたのも束の間。

彼はロケ地で風土病にかかり、ひどい下痢と微熱が続いてロケにも出れず、日本に送還されたそうだ。

この時から、彼の連絡が途絶えた。

 

 
その時、古いビデオを見ていた。

数年前になる。

私の家には沢山のビデオがある。

一度見たものは処分してしまうけれど、特に面白かった分は保存し、忘れかけた頃に取り出して何回も見る。

 
「コリャ、いつ頃のビデオだエ」妻が時々聞く。

2000年以降の物だと知ると、「ソリャまだ新しいネ」 まアこんな感覚だ。

我が家では、古い新しいはまったく関係がない。

 

2、30年前の物は、ザラにある。

 

その時は、藤田まことの、はぐれ刑事、を見ていた。

このドラマ、日本のホームドラマに共通する生ぬるい愛情主義に流れ過ぎる時もあるけれど、藤田まことの人間臭い持ち味が気に入っている。その時突然、あの青年が飛び出してきた。

 

ラーメン屋の青年を演じて、藤田まこととからみあう。なる程、こんな仕事をしていたのか、とその時思った。
私はこのまったく偶然の巡り会いを、連載している豪州の日本語新聞に書いた。

 

ところがその青年からメイルが入った。

私の事を書いてくれて有り難う。

アルバイトをしながら、演技の勉強をしている、とあった。

 

何処で新聞を読んだのだろう。空手を続けたかったが道場が遠く、近所にあった合気道の道場に入門したそうだ。
「松本道場の稽古着をまだ使っています」道衣姿の写真が添付してあった。

 

嬉しくてすぐに返事を送ると、打てば響くように返事が来た。

そしてなぜか、それが青年からの最後の便りになった。

 

 
もうクリスマスか、と思った。

今年は何やらバタバタし通しで、アッという間に年末がやって来た。

 

生活のリズムが狂ったのか、年を取り過ぎたのか。

この調子じゃあ、死ぬのもすぐだぜ、と思う。

年月の経過を速く感じだしたら、今やっている事、これからやりたい事、やり残している事、等々、後から悔やむことのないように、しっかりと毎日を生きなさい、という警鐘なのだろう。

 
その夜は久し振りにノンビリと、一杯やりながらビデオを見ていた。

数年降りの、はぐれ刑事。

何度か見ていたので、ストーリーに覚えがある。

 

ソーダ、これはあの青年の出演作の分だ、と思っていたら、少しも年をとらないあの青年の顔が大写しになった。

彼からは数年前の便りを最後に、まったく何の連絡もなかった。

気になっていた。

 
セーブしてあった古いメイルを探すと、アッタ、アッタ。

丁度クリスマスだ。

 

メイルを送って見ようと思った。

 

そのメイルは返送されてきた。

どうやら使われていないようだ。

 

彼のメイルには携帯のメイルも書いてあった。

それに送信してみた。

 

今度は、通ったようだ。

それでも2、3日待っても、青年からの返信は届かなかった。

 
日本で名が売れて、私の事等、気に留めなくなったのだろうか。

イヤ、そうではあるまい。

 

あの青年、まったく芸能人らしくない真摯な面があった。演技に行き詰まりを感じ、もしかしたら道を変えたのだろうか。
人間にはいくら能力があっても、その時々の運、不運というものがある。

 

 

継続は力なり、という言葉がある。

私財を成し、有名になる事だけが成功、ではあるまい。自分の好きな事、やりたい事をコツコツと続け、努力する事。

 

努力に終着点はない。志半ばで倒れても、そういう人生を送れる人間は、人間としての成功者だ。

 

この辺りに、生きる、という言葉への人間の尊厳が存在するように思う。
あの青年、今でも演技の勉強をやっていて欲しい。年齢を重ねても、年相応の演技があるはずだ。そうであって欲しい。

何度も読み返した彼からの最後のメイル。

 

末尾には、・ケインズのお父さんへ・と書いてある。

 

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憧れ Vol.89

2008年11月10日

「それだけは、ダメ!!見つかったら、どうするのヨ」

私のする事にあまり文句を言わない妻が、その時は真剣に反対した。

 

そうだヨナァ、まァ無理もないか、とガキのように考えた。

 

物が物、なのだ。

 
ガ島(ソロモンのガダルカナル島)は第二次戦中の激戦地。

 

日本海軍が、フィージー、サモア攻略の足掛かりとして、この島に飛行場を建設、ところが、ミッドウェー海戦の敗北で無用になったが、反日抗戦にその利点を見いだした米軍との間に、凄まじい争奪戦が展開される羽目になった。

 

 

輸送能力が極めて弱少化していた海軍が、なぜ多大の犠牲を強いてまで無謀な作戦の下、この島に固執したのか。

 

私には名将と謳われた連合艦隊司令長官、山本五十六大将の意図がサッパリ判らない。 

 
私が日米の兵士達の血で洗ったガ島のホニアラ・ヘンダーソン飛行場に最初に下りたのが、三十数年前。

 

ガ島から太平洋の真ん中、世界最小の独立国、ナウル共和国に飛ぶと、そこから何と、まったく客のいない、鹿児島への直行便が運行されていた。週1便。

 
これは余談。

ナウル出発の朝。飛行場に行くと、誰もいなかった。

 

出発の時間が近くなっても無人。

聞く人間がいない。

その内たった一機しかない我々の便が、ユラリと動き出した。

私は慌てた。

何で私たちを残して飛び立つのかと、折からやって来た一人の職員に食いついた。

 
「心配ないべ。実はナァ、イミグレイション、オフィサーが夕べから釣りに出かけてノー、まだ帰ってないヨ。

チョット、捜しに行っただけだべ」

 
エッ、と私は彼の顔を見て、妻と顔を見合わせた。

ボーイング727が、たった一人の男を捜しに飛んで行った。

 

コリャスゴイ事だ。

 

こんな目茶苦茶な国が世界に存在していたのかと、何とも嬉しく、楽しくなったものだ。
戦後30年のガ島。島民達の平和な生活は戻って来ているように見えたが、戦禍の跡は、アチコチに残っていた。

 
知りあいになった男の家を訪ねた時だった。

 

入口に向うガーデンの中に、卵形の物が数個、ころがっていた。

何と、手榴弾だ。

 

完全な形が残っていたが、爆発する信管は抜いてあるに違いない。

どう言ってもらったのか、とにかく一個の手榴弾、ホテルに持ち帰った。

 

サテ、どこに隠そうか…と。妻に内緒でスーツケースの中に突っ込んでおけば良かったのに、物が物だけに、コレ持って行くゾョ。

 

妻に見せた。
彼女、怖がった。

 

爆発はしないゾ、と言っても、完全な手榴弾なのだ。

 

母親に怒られたガキのように、シブシブその家に戻しに行った。

 

ガ島を思うと、いつもこの手榴弾を思い出す。

まだあの家の庭にコロがっているのだろうか。
二度目にホニアラを訪ねたのは、もう15年も前。

 

私の道場の弟子が、専門学校の講師として二年間、滞在していたからだ。

 

その時はケインズから、ソロモン航空の直行便が運行されていた。
「マラリヤの予防して来ましたか」
弟子が聞く。

彼と彼の家族も全員、赴任以来マラリヤにやられたそうだ。

 

ガ島では毎年五百人余りがマラリヤで死亡するという。

 
彼には何人かの政府の要人を紹介してもらった。

日本流に言えば、大臣なのだが、そこら近辺の肉屋やパン屋の親父と変わりがない。

 

 

豪州の委任統治国だったソロモン。

 

こんな国が独立する自体、どだい無理な話ではないか、と思ったものだ。

 
弟子の教え子の村からジャングルに踏み込むと、その村の連中だけが知っている戦時中の米軍陣地の跡があるという。

 

まだ未使用の砲弾がそのまま残っているらしい。

行きたいか、と問うので、一つ返事をした。

 

しかしジャングルの中には、マラリヤを持つ蚊が、到る所にいるそうだ。

 

私達は何の予防もして来なかった。

 
すぐに街中の薬屋に行った。

それは貧相な戦争博物館のすぐ近くにある。

 

この街としては一番ハイカラな店だった。

 

ところが即効性の予防薬はなく、一定時間服用してないと、効果がないそうだ。

それならば、蚊に食われないようにすれば良い。

妻は長袖長ズボン。

 

私は虫には結構強いし長袖が無かったので半袖に長ズボン。
ジャングルの中は獣道のような人の通った跡がある。

とてもじゃないが私達だけで行ける道ではない。

 

部落の男が案内に立ってくれた。
途中、上陸用舟艇や弾丸の跡だらけのジープが、放置されていた。

 

一時間も歩いたら、何やら密集していた木々が少しまばらになり、足元に爆発してアメのようにヒン曲がった砲弾が目に付いた。

 

そしたら何と、アルアル。

30センチ程の砲弾がゴロゴロしているではないか。

 

土の中から弾頭を突き出しているのも見える。
「お前様の立っている下にも、沢山埋まってるだヨ」そんな事してもまったく何の役にも立たぬのに、思わず爪先立ちになった。

 

あまり歩き回るなヨ。妻に注意した。

 

爆発はしてないのに、時々弾頭の真ちゅう部のない砲弾がある。

 

どうしたのだろう。見ていると、「オラ達が外すだヨ」
観光船が入港した時に立つマーケットで、売るのだそうだ。

 

爆発しないのかエ、と聞くと、「時々するヨ」当たり前の事を聞くナ、という顔をした。

死を意味する凄まじい返事だった。

これには、まいった。

 

爪先立ちした私が、何やら小心なアホに思えてきた。
注意はしていたが砲弾の周辺で、何匹かの蚊に刺されていた。

 

もしその蚊がマラリヤを持っていたら、10日前後で何等かの症状が出るそうだ。

 
「オイ、何ともないかエ」「インヤ、何もないゾ」、毎朝の挨拶のようになった。
10日たち、二、三週間たっても、私達に何の異状も出てこなかった。

 

ヤレヤレ、どうやらマラリヤの蚊に嫌われたらしい、と思った。
ガ島の海岸線のガタ道を走ると、ヤシの林の中に点在する小さな部落に出会う。

 

現金収入がないから、自給自足。

皆、貧しい。

恐らくマラリヤで死亡する大多数は、子供だろう。

 

この彼達、なぜか底抜けに明るい。

私達の車が通ると、子供達は走り出し、大人達は窓にかじり付くように手を振り、笑顔を送ってくれる。

面映ゆくなる程だ。

 
文明とか物質の豊かさにドッップリと漬かってしまっている私達は、人間の心まで曲がりかけているのだろう。

 

そんな無邪気な村人達の歓迎に出会うと、なぜ、どうして我々に、と考えてしまう。

 
子供の頃、遠くを走る汽車によく手を振った。

今頃、そんな事をするガキはいないだろう。

 

この村人達は子供の憧れを、そのまま体に残して大人になったように見えた。

 

貧しく何も無い生活と毎日は、そういう育ち方を彼等の人生に与えたのかも知れない。
私は時々旅に出るけれど、先進国にはまったく興味がない。

 

ニューギニア等の未開地とかベトナム等の後進国がいい。

危ない目には会うけれど、都会の人間特有の取り繕ったところがない。

 
 
私の子供の頃、私の宝物はビー玉にメンコ。

懸命に集めていた。

中学では空気銃が欲しかった。

高校では空手以外に居合を習ったので、本物の刀を夢に見た。

 

その憧れはそのまま大人になっても続いたようで、ケインズに住み着いて以来33年。

少しづつ余裕のある時に入手した。

 

刀や軍用銃と一緒に、日本帝国陸海軍の遺品も出てきた。

砲弾に人骨まで様々な品々がある。

別に目的があって集めた訳ではない。

 

子供の頃から好きだったのだ。

これらは大人になってからの私のビー玉なのだろう。

 
30年以上も集めていると、部屋の一つや二つは一杯になる。

 

銃には法規に沿った管理をしなければならない。
しかしナァ、と最近考える。

 

このまま持ってはいたいけれど、私が死んだら妻が困る物ばかりだ。

 

ガレージセールにするゾ、という妻の気持ちも判る。

ぼつぼつ身辺の整理を考えねばならぬ年になってきたのかナァ。

 

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信念 Vol.88

2008年09月10日

足が縺れた、ように見えたと思ったら、フワリ。

子供の体が横様に、ユックリと黒いボールの上に崩れ落ちた。

 

何をやっているのか、訝るような動きだった。
その日は準備運動に、メディシンボールを使用した。

 

ボールをジグザグに床に並べ、空手のステップを使って、出来るだけ速く通り抜けてゆく。

 

体が切れないとモタモタし、結構難しい動きなのだ。
もう3年も前になるか。その年の州大会は二月末。

 

新年の休みを返上し、出場する子供達の特別稽古を開始したところだった。
子供はすぐに起き上がり、何も無かったようにステップを続けた。

 

私も気に留めなかった。

その内稽古をしながら時々体を捻り、何やら気になる動きをする。

背部に痛みがあるようだ。

 

一応大事をとって子供を稽古から外し、見学させる事にした。

時々様子をみていると、痛みがひどくなっているようだ。

 

もしかしたら脇腹の急所でも打ったのかも知れない。

それにしてもあの倒れ方で、そんなダメージがあるのだろうか。

 

半信半疑だった。
飛び上がった。

二の句が出なかった。

子供の母親からの電話だった。

 

何と、片側の腎臓が半分に裂けていた。

信じられない事故だった。

 

50年以上空手をやって、色々な事故を見てきたが、こんな事故に出会った事がない。

 
あんなにフワリと倒れただけなのに、拍子というものは恐ろしい結果を連れてくる。
いい性格の子供だったが気が弱い。

 

私が少し強めに突き込んでやると、よく涙ぐんでいた。

それでも少しずつ上達し、州大会に出場出来るまでになっていた。

 

これからが楽しみな子供だった。
大会に出場する子供達が、成果を上げるのを見るのは指導者として嬉しい。

 

しかし空手の稽古には、それよりも大切な物がある。

 

稽古を通じて物事の善悪を教え、これからの長い人生に胸を張って立ち向かってゆける気概を育ててやる事だ。

試合に勝たせるだけの空手指導は、意味がない。

 
精神的にも強くなりかけていたその子供が、稽古を止めるとは思わなかった。

ところが、そのままになった。

 

何の連絡もなく、その子供は道場に戻って来なかった。

毎年かなりの人数が、私の道場を通り過ぎてゆく。

 

日本人は少ない。時に入門してくると、同胞意識があるので、どうしても面倒を見てしまう。

今時の若い人達にはそんな意識は無く、特徴もないので、むしろ無国籍人種のように感じるが、言語は日本語をしゃべる。

 

男より女の方が、まだやる気があるように思える。

 
子供の場合は、これから豪州人の社会で、ある種のハンディを背負って生きてゆかねばならぬ。

 

小さい時にシッカリした性格形成への躾、と思い少し厳しくすると、すぐに止めてしまう。

若いお母さん方には、私のそんな気持は、まったく伝わらないようだ。

 
豪州人との間の子供は、日本人の引っ込み思案と豪州人のだらしのない甘さが重なって、どうやってこんなガキに育てたンだろう、と他人事ながら心配になるような凄いのもいる。

 

道場、という所は、こんなのも全部ひっくるめて面倒を見る所だ。

 

どうしようもない子供達が、稽古を通して少しづつ成長し、一人の人間として長い人生を生き抜いてゆく糧を少しでも身に付けてくれたら、私は何か彼等に残してやれた事になる。

気を使って指導し、道場で親しくしていても、今時の日本人達、一言も言わずに消えるように止めて行く。

 

稽古を止めるのは仕方ない。

シンドイ稽古を続ける意志力を持っている人間の方が少ないのだから。

 
私は道場を止めるのを怒っているのではない。

縁あって共に汗を流し、交わった仲間である。キチンと止めてもらいたい。

 

これが出来ない大人は、自己の利しか考えず、他人への配慮のない人で、これはどうしようもない。
子供の場合、子供自身の口から、ハッキリと止めるという意志を私に言わせてもらいたい。

 

止める、という事は、如何なる理由があれ、稽古から逃げる事だ。

その最後の区切りをシッカリつけないと、子供の柔軟な心の中に、後ろめたさを伴うマイナスのイメージを生えつけてしまう。

 

これは潜在意識として一生子供の心の奥底に残る。これは、負、の意識だ。

私に子供の口から言わせる事により、プラスのイメージに変える。この小さなけじめが何よりも大切だと思う。
人間はこの小さなけじめの繰り返しで成長する。これが心の躾になる。

 

将来、信用の出来る人間として成長し、自己の生き様を通せる人は、心の躾の豊かな人だ。

 

子供の時、両親の甘さでこの芽を摘み取り、子供を駄目にしてしまうボロ親の何と多い事。

この罪はそのまま、将来我が身に戻ってくる。その時に悟っても、もう遅いのだ。

「部屋、これからでもキャンセル出来ますか」、と若い夫婦者。日本人。どうしたエ、と聞くと、泊まらないで帰る事にした、と言う。

どこか悪いのかエ、と又聞くと「イエ、子供が、泊まるのはイヤだと言うものですから…。」

 

私は一瞬、エッと思った。
道場では定期的に道場生の親睦のために、イベントを計画する。

その時は郊外で会食。

 

飲むのでモーテルに一泊して翌朝は自由行動、という予定だった。
日本人の親達はいつ頃から、西も東も判らない子供に振り回される程、親というプライドと自主性を失ったのだろう。

 
子供というものは、自分の意のままに物事が通ると、親を親と思わず、我がまま一方で自己中心、他人への配慮等まったく意に介しないような大人になる。

 

昨今日本で大流行の親に反抗し、中には殺したりする子供達は、皆この延長線上にある。

 

事の善悪をしっかり躾するのは、当然の親の義務ではないか。
この若い夫婦者は、以来道場に顔を出さなくなった。
 

 
そのガキ、目に敵意がある。ブスッとして物も言わぬ。

コリャ骨がありそうだ、と思った。

 

道場生の親が韓国人専門の民宿をやっている。

新しい客だ、と道場に連れて来た。

 

10才位かナ。

そのガキ、開口一番「お前、日本人か」私に問うた。
「そのようじゃノー」応じてやると、「お前、竹島知ってるか」ヤレ、コリャ面白い。

 

10才位の子供の言う事ではない。

日本人の子供なら、竹島が何処にあるのかも知らないだろう。

 

大人でも知らない人間は、無国籍集団に入った方がいい。
竹島は明治38年に出雲に編入され、米国等もその認定をしている。

 

ところが戦後、韓国は李承晩ラインを設定し、勝手に竹島を自国の領土に取り込んでしまう。

それから半世紀。まだもめている。

 

日本人の優柔不断の外交と我関せず、という国民性がこの一件にハッキリと出ている。
「コリャ、かなわンなぁ」と思った。こんな子供にさえ、間違ったイデオロギーを信じ込ませる洗脳教育。

 

仮装敵国は常に日本。

エエ加減で目を覚ませ、と歯痒い程人の良い日本が掲げる日中友好の旗。

 

台頭する中国の全土に設立された266ヶ所の愛国教育施設。

その中の208施設は、反日教育だ。

 

対する日本は平和ボケの中に伝統と個性を失い、無国籍国民集団となりつつある。かなう訳がない。

円の時代は終わり、元の時代になってしまうのか。

 

他人事と思うなヨ。

シッカリしろヨ、日本人。

「センセ、ボク、空手やめたい」

 
子供が私に言う。

母親は日本人。

 

手のかかる子供だったが、子供らしく素直なところがある。

 

「ダメだ」そう言うと、ベソをかいた。
「お前ナァ、私にチャンと言えるのは、エライ。

そンだけ勇気があるンなら、それを稽古にお使い。

 

そしたらモットうまくなるゾ」子供は次の稽古日に来ていなかった。

 

心配したが、その後又やって来た。

これは母親がエラかった。

 
つい最近、道場内での支部対抗試合があった。

 

その子供も出場準備をしていたが、道場に来ると泣いて入って来ない。

皆が手を焼いた。

 
「コラ、ここまで来てビービー言うもンじゃないゼヨ。

男の子はナァ、お母さんを困らすもンじゃないゾ。

サァ、頑張って来い!」手を取ると、泣きながら試合場に立った。

 

その子、ヘタながらメダルを取った。
それから顔付きが変わった。

 

この子、たった1日で大きく成長した。

 

我が子が本当に可愛かったら、時には尻の一つもひっぱたく親の信念、欲しいものヨ。

 

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終戦記念日に寄せてカナングラの古本Vol.87

2008年07月10日

「コリャ一体、何でしょうネ」 

 

日本語だと思うンですけど、と言いながら、綴じ込みも擦り切れ、黄色く変色したブ厚い本をソッとテーブルの上に置いた。

 

豪州陸軍マクナマラ中尉。

 

久し振りに娘と二人でケインズにやって来た。
NSWの海岸の町、バリーナから内陸に入ると、リスモーに至る。

ここから山越えしてクィーンズランド州に入り、マウントタンバリンに向かう山道は、豪州の懐の深い自然そのもので、私は何度も通ったものだ。

 

タンバリン山からは、眼下にゴールドコーストの町並と青い海が、吹き上げてくる風の中に見える。

この山中の町に娘が家を購入し、移り住んだのは、もう一年も前になる。

 
カナングラはタンバリン山麓の小さな田舎町。

この町から丘を越えた外れに、豪州陸軍の広大な訓練施設がある。

 

ニューギニアで日本軍と戦った部隊もベトナム戦も、全員この地で訓練を受けて出征して行った。

 

マクナマラ中尉はそこの教官。彼の案内でこの施設を見学した事がある。

ジャングル戦の訓練には持って来いの地景で、700人の兵士を収容する。

 

日本の忍者の鍛練場そのもののような面白い設備もあった。
中尉が積み上げられた雑多な物品の中に、古びた本を見つけたのは、つい最近の事だと言う。

 

当番兵に聞くと、焼却場に運ぶ前らしい。

どうやら日本語のように見える。

 

訳の判らない本だったんだけれど、だから余計に私に見せようと思ったそうだ。
確かに日本語だ。

国土行政区画総覧、とある。

 

何でこんな本が豪州陸軍の訓練場にあるのだろう。

発行日は、昭和26年5月5日。

ハハァ、なる程ナ、と思った。

 

この年は日本はまだ占領軍の統制下にあった。

独立は翌年の4月28日。

となると、日本の行政は1年後の独立を目指し、確実に準備計画中であったに違いない。 

 

 
綴じ込みがゆるく、ページがバラバラになりそうなその本を開いてみた。

 

第二巻。

という事は、少なくとも第一巻以外にも、まだ何巻かあるのかも知れない。

 

第二巻には幸い中国、四国地方が入っており、私の出身の愛媛県を捜してみた。

 

アルアル、市ごとに詳しい町名、公共機関の所在等々、ビッシリと区画整理されている。

 

今はもう消えてしまった私のガキの頃の懐かしい町名、学校名も見える。 
戦後、占領下の日本では、中国、四国方面の占領軍は、豪州軍が多かったはずだ。

 

軍港だった呉、広島、錦帯橋の岩国、愛媛の松山もその例に漏れない。

区画行政草案が完成した段階で、必ず占領軍がそれを閲覧したものと思われ、印刷の終了した本が、豪州軍に提出されたとしても不思議ではない。

 

その時の本の一部に違いない。

 
中尉が目に止めなかったら、もう少しで灰になるところだった。

以降日本語の本が見つかったら、全部取っておけ。

 

中尉の命令だそうだ。

又何か、出て来るかも知れない。

 

日本も安全ではなくなった、というニュースのタイトル。

私はテレビはあまり見ない。

道場から戻ると、我が家の夕食は9時を回る。

 

TBSのワールドニュースが丁度この時間帯なので、これだけは毎晩見る事にしている。

ただ人を殺して見たかった、という理由で、7人もの通行人を次々と刺殺したバカがいた。

 

少年犯罪の激増。

親も負けていない。我が子を平気で殺す。

 

韓国や中国にはいい様にあしらわれても、私腹を肥やすのに熱心な政治家達。

返り見られない老世代…云々。

一体このモラルと節操の無さ、狂気は何処から来ているのだろう。

 

 
母親は日本人だ、という子供を、男が道場に入門させに来た。

 

2年程も前。まったく躾のない、だらしのないガキだった。

まァ昨今こんな子供はまったく普通で、躾の良い普通の子供が来ると、まるで天才のように思えるから、子供の質というより、親の質の低下には目が余る。

 

子供を育てるノウハウの情報はあふれているけれど、情報に振り回され、親にしっかりとした主体性がないと、宇宙人が忘れていったような妙なガキに育つ。

 
この子供、服装もだらしがない。

近寄ると臭い。

 

日本人の若い母親は、躾はまったく駄目だが、服装だけは何とか小ざっぱりした物を着せる。

 

この母親、子供を残して新しい男とでも、逃げたナ、と思った。
ケインズにも最近中国人と韓国人が急増している。

 

以前は彼等と日本人の見分けがついたけど、最近の若者達、言葉を聞かないと判断出来かねる。

 

全部が全部ではあるまいけれど、すぐに男を捜して一緒になるのは、日本人。

極端にダラシのない服装、態度をするのも、日本人。

 

フレンドリーにチョット親切に、片言の日本語は愛嬌の一つ。

これでジャパニーズは簡単ヨ、という男達がいる。

どれも大した男共ではない。

 

そんな男達と子供でも出来たら、気心の判ってくる数年後、別れるのは目に見えている。

空手道場で豪州の男共を40年以上、見て来た。

 

日本人と一緒になった男達が長く続くかどうか、一目見れば判る。

その内ケインズには、日本人シングルマザーの会、というのができるのではないか。

男にしろ女にしろ、この節操の無さ、安易さには驚かされる。

私自身、自国の日本の様々な文化、歴史等をよく知らないので大きな顔は出来ないが、自国の良さを何一つ知ろうとせず、外地に来て英語を勉強さえすれば、何とか国際感覚が身に付いてくる、と考える日本人の多い事。

 

この短慮さ、国際感覚の無さ。呆れる。

 

 

日本人の精神的価値観が180度、大きく変わった原因は、戦後、もう少し突っ込むと、極東軍事裁判後の7年間に渡る連合軍の日本支配期間中にある、と私は考える。米英、欧州諸国はアジアへの覇権を狙っていた。

それには日本が邪魔になる。

 

あんな小国、一思いに潰してしまえ、と計画したものの、先に手を出すと国際世論が恐い。

そンなら、日本から仕掛けさせればどうだ。

こんな所は大国アメリカの何ともズルイ、又恐いお国柄だ。

 

日本は資源を外地に依存している。簡単だ。その資源を止めてしまえ。

日本は打って出ざるを得ない状態になる。

これがABCD包囲網。

日本にとって資源の凍結は、国内に一千万人以上の失業者を出す大恐慌を起こす。

 

日本側の交渉は全て失敗。

米は真珠湾から空母を外し、日本の仕掛けを待った。

 

奇襲される真珠湾攻撃は、米の撮影グループ、モーパックにより、最初から記録されている。

米は待っていた、という事だ。

 
米の世論はそんなにまでしても、と戦争突入に反対だった。

 

ところが、米国の思惑通りの真珠湾攻撃に日本は踏みきり、被害者の立場となった米国内の世論は一挙に戦争賛成になる。

米側の日本を潰す大義名分はこれで成った。

 

 
大国米の唯一の誤算は、簡単に潰せると思っていた小国日本。

玉砕に次ぐ玉砕の後は、特攻隊まで出して徹底抗戦を図る。

 

この民族の精神性は大きな脅威となったはずで、だからこそこの事実が、日本への増悪として極東裁判に現れてくる。

 
裁判長の豪州人ウィップは、日本人被告の証言を全て無視。

唯一人インド代表のパール博士が、日本の戦争は自衛の為、と確証を示して正論を提出したが、これも無視。

 

判決は日本の一方的侵略行為と見なされ、東条英機ら七人は死刑。

 

戦争で負ける、という事は、こういう事なのだ。

 
以後7年間の占領政策は、日本の精神文化の抹消のため、関連づけられる歴史、音楽、芸能等全て禁止。

国民には侵略国としての罪悪感を植えつけてしまう。昭和27年の独立時には、公職のポストは米国のやり方に100%賛同する左翼分子を送り、独立後も米国の意のまま動く国への地固めをする。

 
これら左翼系職員の方針と、裁判により侵略国と決めつけられた罪悪感。占領下7年の間に抹消された歴史と文化。

 

これが現在の日本の風潮を生み出した根底にある。
 

 

連合軍総司令官のマッカーサーは、7年の日本支配の間で、彼の日本に対する見方が変ってくる。

だからこそ日本嫌いのトルーマン大統領の気にさわり、日本独立の1年前、罷免されてしまう。

 

彼が米国に戻り、最高機関である上院の軍事外交委員会で報告した言葉は、英語大好きの日本人全員が知っておくべき事実だ。彼の結論である。
「THEIR PURPOSE THEREFORE IN GOING WAR WAS LARGELY DICTATED BY SECURITY」
(日本の戦争は自衛の為、やむなく行われたものである)

 
塗り替えられた真実を知る事は、日本民族としての誇りを取り戻すことにつながる。

 

 

来月は終戦記念日。

マクナマラ中尉の見つけた古本から、こんな事を考えた。

 

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国時刀異聞 Vol.86

2008年05月10日

間合いが遠い。

構えも高い。

蹴りで来るナ、と思った。

 

わざと顔面を空 け、スーッと間合いをつめた。

男が動いた。ビンと蹴りが顔に来た。

ソレを待っていた。

 

右手で受け、手首で引っ掛けるように引き込むと、男 の体が簡単に崩れ、背中を見せるように私の方に倒れこんで来た。

その 肩をポン、と叩いてやった。

 

男は数歩よろめいて踏みとどまり、私の顔 を見てニタリと笑った。
私が空手道場を開いた33年前。

 

4人の男のグループが一度に入門し た。

ボブ、バリー、バーンに保険屋のニック。

 

切れ者の獣医のボブは、 その後コミティーを組織し、道場を盛り立ててくれた。

現在も私の飲み 友達である。

ある稽古日、彼等が一人の空手の有段者を同行して来た。
ニューギニアから戻ってきたという彼等の友人。

 

年の頃30才前後。

空 手は癖の強い雑な動きをしたが、勘はいい。

磨くと光る玉だと思った。

以来私の道場が気に入り、ボブ達といつも稽古にやってきた。

 
その日、ボブが眉間にシワを寄せて入って来た。

 

彼がこんな表情をする 時は、何かある。

案の定、センセイ…。

 

近寄ってきた。
「ベバンが昨日、交通事故に遭いましてネ」幸い、命には別状はない。

 

大きなカーブを切りそこねた対向車と接触。車は横倒しになって大破。

足をやられた。「当分空手なんかできないでしょうネ」
ベバンは道場に溶け込み、稽古が楽しくてたまらない、という矢先の事 故だった。

 
数日してベバンは道場に顔を出した。杖を突いていたが、ビッコを引きながらも、何とか自分で歩いている。

 

足に傷らしい傷もなく、大怪我をしたと思い込んでいた私には、むしろ拍子抜けの感じを受けた。

 

その彼をまるで世話女房のようにこまめに世話をする小柄な女性、マリリン。

可愛い娘で、豪州人の女性にしては珍しい程、よく気の付く性格だと 思った。

 
「しばらく道場に顔を出しませんので、お別れに来ました。」
事故から少し経っていた。ベバンが額から垂れる黒い髪をかき上げながら、そう言った。

 

表情が暗かった。

事故の賠償金請求の裁判では、空手道場に出入りしているのが判ると健康だと疑われ、判決結果が悪くなるそうだ。

 

ソンナものかエ、と思いながら、杖を突き、マリリンに支えられながら道場を去っていく彼等を見送った。

 

この時からベバンは消息を 絶った。風の便りに、イニスフェル近辺にいる、と聞いたことがある。

 

 
ベバンの友人だったバリー。

その夜は宿直だった。

 

定期的にエンジン ルームのテェックをする。

一回目、異常なし。

二度目のテェックのとき、床上1メートル位に、まるで霞のように広がる黄色状の気体を見た。

 

アンモニアガスが漏れている。
今はケインズの郊外のようになったエドモントン。

30年前は町の入り口に大きなケインズ屠殺場があった。

 

バリーはエンヂニア。
ガスは地面まで下りてはいなかった。正面にガス管のノズルが見える。

 

バリーは地面に腹這いになった。ガスを吸い込まないよう、必死に這った。

ノズルに取り付き、中腰になって両手でハンドルを回した途端、轟音と共に目の前が真っ赤になった。

 

 
「気が付いたらこの様でサァー。

もう体中、痛くて痛くて、何度もその 窓から飛び降りようと思いましたゼ。」
バリーの病室は病院の三階。

 

そんな患者のためか、窓には鉄格子が入れてあった。

バリーの声が元気そうだったので、もしかしたら助かるかも知れぬ。

 

一縷の望みをかけた。バリーは三日後に死んだ。

 
彼の葬儀には道場生全員、稽古着姿で参列した。

 

私は教会の入り口に立 ち、門弟達を所定の場所に誘導していた。

式の時間が迫り、教会の前には誰一人いなくなった。

 

 

その時、一台の車が土埃りを上げて乗りつけて来た。

ドアがガタンと開き、黒っぽいマントのような物を着た男が下り立った。

杖を突いていた。ベバン!!
体を左右に振り、カタカタと歩いて私に近寄ると、足を揃えて立ち深々と礼をした。

 

目が暗く、生活の荒みが感じられた。

彼は何も言わず、私も目で彼を教会の方に誘なった。
式の終わった後、ベバンを探したが、もう彼の姿は何処にも見当たらなかった。

 

これが私のベバンを見た最後になった。

 

 
「日本の刀を手に入れたのじゃが、ワシには無用の物じゃ。

アンタの事は聞いておった。

こリャー、アンタが持っておいた方がエエ」しゃがれた、たどたどしい英語だった。

 

男はジョセフと名乗った。

ドイツ人。

夜遅い電話だった。

 
ジョセフィン、フォール。

イニスフェルの手前の村、ミリウィニを通過した後、山の手に向かってハイウェイを逸れる道がある。

 

 

サトウキビ畑の中を20分。

ジョセフの家がポツンと建っていた。
私はこの頃、興味を持って日本刀を収集していたが、当時は鑑定出来る目がなかった。

 

そんな私が鑑ても、ジョセフの刀、ヒドイ状態だった。
特に物打ちから先の錆がひどく、研磨出来るとは思えなかった。

 

ただ鞘に残っていた微かな塗料から、その塗り方の質がいいので、第二次世界大戦中の日本帝国陸軍、将官クラスの佩刀だと思った。

 

剥き出しの朽ちかけた中心に、国時と二字銘。普通将官クラスならまずまずの刀が使用してあるはずだ。

 
「何処で手に入れたエ」ジョセフに問うと、彼は私を窓まで招き、そこから目の下に見えるサトウキビ畑の中の一軒家を指差した。

 

「アソコにナァ、四、五人の男らがいつの間にやら入り込んでナー。

飲んで騒ぐ、大声は出す、文句を言うと脅してくる。

モウ村の鼻摘まみモノじゃったヨ。

多分ドラッグの売買でもしてたんじゃろ。

マリワナも育ててたらしいノー。

 

ボス格の男がアンタと同じ、カラテのブラックベルトちゅうンで、村の連中も怖がっとったヨ。ソウソウ、あの男、いつも 杖を持ってたナ。」

私の頭の中で、パチンと弾けるものがあった。 

 

 
「頭にきた村人の誰かが、ポリ公の手入れがある。とでも流したンじゃろ。

野郎共、アッという間にいなくなったヨ。あの男の名前、なんと 言ったかナァ。エート…」

 

「ベバン!!」私は斬りつけるようにその名前を投げた。

 

私はしきりに、逃げた男達の残していったその刀は、空手を通して日本刀にも興味を持ったベバンの持ち物だと思った。

 

ジョセフが再び空き家になった一軒家の物置から捜し出してきたのだ。

 
それにしてもベバン。

彼はこの国時刀を忘れていったのだろうか、捨てていったのだろうか。
刀を一振り研ぎ上げ、柄と鞘を新調して拵をつけると、安くても25万円の費用がかかる。

 

それだけの金を支払っても、錆の研ぎ落とせない刀は、価値はない。捨て金になる。

しかし、なんとも不思議な巡り合わせで私の手元にやって来た国時刀。

 

金の問題ではない。研いでやろう、と思った。
バリーの葬儀でベバンを見て以来、又二年程の日が流れた。

ある稽古日、ボブが眉間にシワをよせてやって来た。

 

なんだかイヤに怒っているようだ。
「聞きましたか、センセイ。あのベバンの野郎、裁判に勝って相当の金をせしめたようですぜ。

ところがあ奴、支払いのチェックが届いた途端、杖を放り投げてスタスタ歩いたそうですヨ。

あのビッコ、保証金を稼ぐための芝居だったんですナァ。

あれだけ世話になったマリリンに一文も渡さず、姿を消したそうですヨ。あの野郎…。」

 

 
ボブの憤慨は止まらない。

聞いていて私も気分が悪くなった。

 

マリリンはその後一人で道場に戻って来たが、そのうちケインズを去った。

風の便りでブリスベンに落ち着いた、と聞いた。

 

 
研ぎあがった国時刀は、なにやらベバンに裏切られたようで、刀に罪はないのだが、その後25年間、私の武器庫で眠り続けた。

 

最近妻が肩こりを訴える。

 

彼女が若いときもそんな事があったので、真剣を使う居合いをすすめた。

 

肩こりは肩と胸筋を鍛えればいい。

薬や湿布では、一時しのぎになるだけだ。

 
彼女には適当な重さの刀に卯の花色の柄巻、黒字に赤を散らした鞘の居合刀を用意してやったが、今の彼女にはあの刀は少し重すぎる。

 

やや軽めの刀を持たせ、肩こりが消えたら、重い刀にすれば良い。

サテ、軽めの刀となると…ソウダ、国時刀があった。

ベバンの事はもうぼうぼつ時効にしよう。

 

サテサテ、あれからもう25年が過ぎたのか。
 

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空の青い日 Vol.85

2008年03月10日

 毎日でも来たいのですが、仕事が忙しくてネ。

言うだけあって稽古が楽しくてたまらないようなトム。

 

いつも早目に道場にやって来る。
彼は私が33年前、道場を開いた時の最初の弟子。

当時15才。

 

ノッペリとした感じの少年で、それでも2年程通って来た。

 

以来会った事がなかったのだが、つい数年前、ヒョッコリ道場に戻って来た。

48才。独身。

親の跡目を継いで、手広く事業をやっている。

 

言葉の端々に年に似合わぬ少年のような真面目さが顔を出すのは、私にだけ見せる一面なのだろうか。

 

それにしても余程人生をスレずに育って来たのに違いない。
その日はトム、いつもより遅く道場に稽古に来た。表情が何となく、暗い。

何かあったナ、と思ったが、丁度私は子供のクラスで忙しく、手が離せなかった。

 
生徒の動きを見ていると、彼等の体の不調がすぐに判る。

トムの息の上がりがどうも早過ぎる。体が時折前かがみになるようだ。

 

どうしたエ。と聞いたのは、もう数ヶ月も前の事だ。

下腹部のあたりが何やら普通ではないような気がする、と言う。

 

漠然として言い方だったし、本人自体ハッキリとした自覚症状がない。

マア、調子が悪い時は、ユックリとおやり、としか言えなかった。

 
その後も時折不調を訴えた。

どうやら何かありそうだ。

その矢先だった。

 

 
子供のクラスが終わった時、トムがスルッと近寄って来た。

ペコッと礼をし、他の生徒からはばかるように、口の中でモゴモゴと言葉をころがして、「センセイ、夕べ小便の時、血が出ましたヨ」

 
私は自分で大した病気に罹った事がないので、病気には常識程度の知識しかない。

 

その私でも、コリャ少しヤバイなァ、と思った。
前立腺ではないのか。

血尿となると、前立腺癌の初期、とも考えられる。

 

マサカ、とも思ったが、豪州人には普通に見られる癌とも言える。

とにかく1日も早く、検査を受けねばならない。
クイーンズランド州の専門医不足は深刻だ。

 

大病すると大変な事になる。

トムの精密検査さえも、結果が出るのにかなり掛かった。
私のアドバイスが良いのかどうか、判らない。

稽古は休むなヨ、と言っておいた。

 

1人で悶々と心配するより道場で汗を流し、体を動かして気力の充実に努めた方がいい、と思ったからだ。

 

手術を受けるにも、体力のある方が回復が早いはずだ。

トムは心配しながらも、毎日稽古にやって来た。
私の道場は今年で33年目を迎える。

過ぎてみれば長かったとも、又短かったようにも思える。

 

 

その間、小さな田舎町だったケインズに大挙して日本人が押しかけ、アッという間に日本人向けの商売が乱立した。

私には地元という基盤があったけれど、私は自分が、生きる、という事に不器用な人間である事をよく判っていた。

 

私に出来るのは、空手、であって、日本人向けの商売ではない。

私のこれまでの人生は、金銭的には成功とは程遠い道のりではあったけれど、人にへつらわず、人を利用せず、自分に正直に真っすぐに生きて来た。

 

日本人としてのプライドを通して来た。

人間として当たり前の生き方で、別に自慢出来る人生でもない。

 
私の空手も、大してウマい訳でもない。

ただ私のそんな不器用な生き方に賛同してくれる弟子達が、今までの私を支えてくれた。

 

今でも30年以上の弟子が6人、20年以上は何人も稽古している。

私の道場は飽きっぽい豪州人にしては希有な存在の人間関係が、今でも続いている。
トムは相変わらず稽古を休まなかった。

 

無理をして普通に振る舞っているものの、時折一人の時の表情にフッと暗さが見える。

 

私はその日を心待ちにしていた。

彼の検査の結果が出ているはずだ。

 
「どうだったエ」 子供のクラスを終えると、私はさりげなくトムに近寄った。

道場の誰にもトムの悩みを話してはいなかった。

トムは私に礼をし、大きな体を縮めるように口を開きかけた時、アッという間に彼の目が盛り上がり、涙が頬を滑り落ちた。

トムは慌てて道衣の袖で目を拭うと、他の生徒から隠れるように道場の隅に戻って行った。

 
「ソウカ、やはり癌だったのか」
「南へ行け。癌ではベストの医者を捜せ。

 

癌の進行状態を把握し、出来るだけ早く、手術日を決めてもらえ。

金を惜しむな。

手術日が決まったら、それまで何としても稽古を続けろ。BE POSITIVE」

 
私にはまったく当然の事しか言えなかった。

しかし私と道場の存在が、彼の精神的な支えになる事を知ってもいた。

 

手術は2月の中旬、と決定した。

癌は転移していなかった。
 

 
「センセイは私の命の恩人ですヨ」
ジョンがポロッと漏らした言葉がある。

 

私は人に恩人と言われる程、大それた人間ではない。

その意味がよく判らなかった。
ジョンの入門は10年前。

当時58才。

 

その男、まるで何かに取り付かれたかのように毎日、稽古に没入した。

 

道場の掃除や後始末等、まるで縁の下の力持ちのように陰日向なく、実によくやった。

誠実を絵にかいたような豪州人。

 

「センセ、最近チョイト調子がおかしいんじゃがノー」
まったく何の不平不満も口にしない彼が、ポツンと私に言ったものだ。

彼の稽古中の動きから、すぐに私に思い当たるものがあった。
検査を勧めた。

 

私は自分では病院嫌いで、検査等まず行かないのに、人には簡単に勧める悪癖がある。
「再発してましたヨ」
彼が検査の後、私にサラリと言った言葉だ。

 
SHOOTING THE BREEZE(チョイと立ち話)。

まったくそんな感じだった。

 

丁度トムの話と前後していた頃だった。

 

私はその時まで、ジョンが10年前、前立腺癌を切り取った事を知らなかった。

手術後体の調子がくずれ、持病の心臓の弱さと重なって落ち込んだ時、道場のメンバーから私の事を聞き、藁にもすがる気持ちで入門したのだと言う。

 

ところが稽古が面白くなり、それが又彼の生きがいになってきた。

 
「年をとってから、こんなに体の調子が良くなるとは、思いもしませんでしたヨ。この10年、稽古はホントに楽しゅうござんしたヨ」
その時初めて、ジョンがなぜ私を彼の命の恩人だ、と言った事があったのか、判ったような気がした。

 

私の不器用な生き方も、まんざら捨てたものではないナア。思ったものだ。
ジョンの癌、再発はしていたもののまったく進行の様子はないそうだ。

 

今の段階では医者も、「まだ手を出さないそうですゼ」
それで本当にいいのだろうか。

私には相変わらず、稽古を続けろ、体の状態をベストに保て、ぐらいの事しか彼に言えない。

 

ジョンは毎日、黙々と稽古に来る。
道場から戻ると、留守電が入っていた。

 
「麻酔が切れたところですヨ。手術は大成功だそうです。センセイにまず知らせなキャー、と思いましてネ」
麻酔のせいかしゃがれたトムの声だった。

 

 

ソウカ、良かったナア。

これで私も肩のつかえが取れたヨ。サテ1杯、乾杯とするか。
朝稽古に久し振りにビルが来た。

33年前の生徒だ。

 

イニスフェイルから稽古に来る。稽古を終え、道場を閉めて車に乗ろうとした私の背中にビルが声を投げた。

「センセイ、稽古は楽しいですナァ。絶対に止めませんぜ。でもセンセイが止めたら、私も止めますぜ」

 
コリャまるで脅迫状だゼ、とおかしかった。

その朝、雨が切れて数日振りの太陽が顔を出した。

朝稽古の汗は気持がいい。

アー、空が青いナァ。
 
 

 

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ナパーム弾 Vol.84

2009年01月10日

 「こりゃ、ヒデェ」息を呑んだ。

 

その男、足を投げ出すように、雑踏の路上に座り込んでいた。

足の皮膚の色が気味悪いほど青白く、その中にまるで雨上がりの水溜りのように赤い筋肉層が露出していた。

 

つい最近、足の皮をベリッと剥ぎ取り、その傷跡がようやく治りかけたかのように、生々しく見えた。

ナパームに違いない、と思った。

 
私は狭い露地が入り組んだ、サイゴンの下町を歩いていた。

アチコチの路上でローカル達が車座になり、膝をかかえるようにしゃがみ込んで、ドンブリから何かを食べていた。

 
彼等は食事時、日本人のように大声を上げたり笑ったりする不作法はしない。

自分達だけに聞こえるように、実にしめやかな会話をしながら食事をする。

 

 
以前はよく、気が向いた時に、妻と二人でフラリと旅に出た。

 

別に何処でも良く、目的もなかった。

いわゆる観光名所という誰もが行く場所には興味がない。

その土地や国のローカル達がたむろする所がいい。

連中がどんな物を食べ、暮らし振りを感じて見る。

 

買い物はする。その土地のガラクタを売っている店を捜す。

以前は結構面白い物を見つけたが、今はもうそんな面白味はなくなった。

むしろインターネットのオークションに面白い出物があったりする。

 
男の写真を撮ろうと思った。

通行人をやり過ごし、カメラをセットした。

 

 
ベトナムが百年に及ぶフランス統治からようやく独立したのが、第二次世界大戦終結後の事。

しかし独立後の政権をめぐり、コミュニスト党と人民解放軍との内乱で、国を17度線で南北に分け争う事になる。

 

北をソ連や中国が支援したら、おせっかい屋の米国が南に入って来るのは目に見えていた。
それにしても、物量と近代戦で仕掛けてくる米国に対し、モグラのように全長二百キロ以上にも及ぶ地下壕を掘り、ゲリラ戦法のみでよくあれだけの戦いが出来たものだ。

 
第二次世界大戦中は日本も世界を相手によく戦った。

日本軍は正統に評価して、世界でも優秀な軍隊だった。

しかし軍部上層が独走した。

 

無謀な作戦で優秀な人材を殺し、赤紙一枚で民間人を、まるで消耗品のように前線に送り続けた。

作戦を命令として受理し、玉砕するまで戦った将兵こそ日本軍の真髄であったのに、戦後の風潮は彼等を、無駄死、としか評価しなかった。
兵士を死に追いやった上官達の一部は、戦争が終結するといちはやく、軍の物資を横領して姿を消したという。

 

大本営の参謀以上は、全員責任を取って死ぬべきだった。

 
前線で兵と共に苦労した心ある上官は、ほとんどが死ぬか、生き残っても勝者の一方的裁判であった極東裁判で死刑になった。
私は日本の戦国大名、という連中が、どうも好きになれない。

 

勇猛果敢で英雄めいたイメージがあるけれど、日和見主義で強い者なら誰とでもくっ付き、裏切り行為は日常茶飯事。だからこそ家族を平気で人質に出したりする。

 
私の嫌いな武将の一人、小早川秀秋。

西軍にありながら事前に東軍に通じ、関が原の戦いが始まっても、陣を張った松尾山から動こうとしなかった。

形勢の良い方に寝返るつもりだったのだ。見かねた東軍が背後から威嚇射撃をあびせ、ようやく動いた。

 

これが家康側東軍の勝利の切っ掛けになった。この時代は、裏切り、を悪いとするモラルは、存在しなかったのだろうか。そんな気がする。
日本人の性格の一つとして上げられる日和見的な動きは、もしかしたら戦国時代から培ってきたのかも知れない。

 

その反面、死ぬと判っている戦でも、道義を通すという世界的に見ても類いまれな精神性をも兼備している妙な民族なのだ。

 

 
倒れる幕府に最後まで誠を通した新撰組。

諸藩が次々に新政府軍に恭順する中で、白虎隊まで編制して抵抗した会津藩。

自分の一死で、国や親や恋人が救えると信じて征った特攻の若者達。

最後の一兵まで戦って玉砕した将兵達。
又又マツモトが、古臭い事を言ってるヨ、と思わないでおくんなサイ。

 

アメテャン達は、実はこの日本人の他人の為にも死ねる、という精神性が怖かった。

だからこそ戦後8年に及ぶ日本支配中、日本人の精神性に影響を及ぼすと考えられるあらゆる文化、歴史的事実、道徳、歌曲等々、六千五百項目にも達する日本の事実を全て禁止又は抹消したのだ。

 
米軍の占領政策は、敗戦のショックと軍部への不信感、日和見主義のある新しい物好きの日本の国民性に、民主主義、として受け入れられ、これがマァ大当たり。

 
そして戦後60年も過ぎると、30%以上の若者が自分の国を嫌いだと言う。

国旗といえば、オットリ刀で息巻く日教組。それをサポートする日本の大新聞。

道徳もなくなった。

 

子供が子供同士、又は親を殺す。

ところが親も負けてはいない。

簡単に子供を殺ってしまう。

米国もこれ程までに彼等の占領政策が、日本の精神文化を破壊してしまうとは思いもしなかったろう。

 

現在の世相の原点は、戦後の極東軍事裁判と米の占領政策にある。
 今でも中国や朝鮮に尖閣諸島や竹島問題、北鮮の拉致問題などでベロベロにナメられている日本の外交の将来は、二つしかないように思う。

 

今の世界、均衝を保ち発言力を持つには、武力が要る。自衛隊を日本陸海空軍に昇格させ、軍備の充実に努める。
さもなくば徹底的に米国に尻尾を振り、米の翼の下に入り込んで、米に代弁するように仕向ける方針を取る事だ。

 

さもないと中国や朝鮮問題は解決しない。

 

 
その男にカメラを向けたものの、途惑った。

 

ベトコンの抵抗の強さに業を煮やした米国。

 

日本の各都市を無差別に焼き払い、百万以上の民間人を殺傷した焼夷弾よりさらに強力な爆弾を開発した。

ベトコンの疑いがあるならば、皆一緒くたに殺ってしまえ。

実に米国らしい。

この男は年齢から見て、子供の頃にナパーム弾で焼かれたに違いない。

 

戦後30年をどうやって生きて来たのだろう。
考えていたら私が興味本位で写真を撮るような人間性のない人間に思えてきて、シャッターが押せなくなった。

ヌッと同じような年頃の女が顔を出してきた。

鼻から下、口、首、胸から手先にかけて、ゴムバンドを束ねて引っ張ったようなヒドイ火傷のひきつれがあった。

同じくナパームの被害者だ。

私はなにやら息がつまるような思いがし、カメラを仕舞うと妻の後を追った。

 

 
日本は確かに豊かに贅沢になったけど、その物資的な豊かさを懸命に追い求めた中で、忘れつつあるものがある。

 

 

その原点が戦後の戦勝国による古領政策と日本を悪者と決めつけた一方的な極東軍事裁判にあると私は考える、しかし民族の血というのは、そう簡単に消えてしまうものでもあるまい。ただ戦後の教育という蓋をされ、皆が気が付かないだけなのだ。

 

日本から道徳という観念がすたれつつある現在、なぜなのか、という疑問をもう少し突っ込んで考えてみなければ、表面上の対策では解決できない問題と言える。

 
もしベトナムが戦後の日本と同じ立場に置かれたら、どうなっていただろう。

 

 

ベトナム人には日本的日和見主義と新しいものに飛び付く性質、よく言えば従順、悪くて軽薄。

それが少ないように思う。米の占領政策は日本人だから大当りしたのだと思う。

 

という事は何かの切っ掛けさえあれば、日本は正常に戻る、という可能性があるという事だ。

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2000年11-12月号・其の42 ゆとり、という名の堕落

2007年09月05日

一、二年前、ある男から電話があった。日本刀を持っていたのだが、盗難にあったので、保険請求の為の見積も りを書いてもらえまいか、という。私も日本刀を集めているので、大切な物を無くした男の気持が分かる。気の毒だから、何とか助けてやりたいと思ったが、肝 心の刀が無い事には、値段が付けられぬ。刀は、ムネチカ、と言った。宗近か宗親。どちらも良刀で、その男の持てるような刀ではない。偽銘(偽物)だと思 い、一応最低限の見積もりをしてやった。
刀を盗まれたので、もし該当するような刀を見つけたら、知らせて欲しい、という虫の良い電話は、年数回もかかってくる。つい最近、ニ件。一件はタウンズ ビル。残りの一件。どうも男の声に聞き覚えがあるように思った。大概の事はすぐ忘れてしまうのに、何か、ポッと気になったりした事は、妙に記憶の襞の中に 残るものである。男、ウヘラウヘラと鼻にかかった薄っぺらなしゃべり方をする。もしかしたら、と思った。

私は25年、ケインズで空手道場をやって生きてきた。趣味で日本刀の勉強もしてきたので、その関係では、豪州内でも何となく知られているようだ。様々な問い合わせが、豪州各地から来る。

道場に顔を見せた男、やはりあの時の男だ。トニーと名乗った。目がチマチマ、と忙しく動く。

「お前さんに会ったのは、一、ニ年前だったナー」、と言うと
「ノーノーノーノー、10年位前のLONG TIME AGOでござんしたヨ」

ウヘラウヘラと、慌てて打ち消してきた。おかしいナ、そんなはずはない。この野郎、俺の記憶力をみくびったな、と思った。

日本刀を持っているのだが、保険をかけたいので見積もりをして欲しい、と言う。最初は盗難刀の保険請求、今回は持っている刀にかける保険の見積もり。刀 は又、ムネチカ。おかしい。この刀は盗難にあったはずだ。善意に解釈して、盗まれた刀が戻ってきたのかも知れない。刀を実際に持って来たら、値段を付けて やるよ、と言っておいた。

トニーはニ、三日して我が家に来たが、刀を持っていない。銀行に保管してあるので、すぐには取りだせない、と言い訳をする。この時ハッキリ、トニーは何かの目的の為に、私を利用しているのだ、と確信を持った。

「刀を見ずに、見積もりは出来ネエ相談だぜ」それ以後、ピタッ、と来なくなった。

GSTの導入で、今年の7月から税制が大きく変わった。自営業の国民全部が、税務署の為の税金徴集人となるようなこのシステムは、従来の帳簿の付け方 を、ガラリと変えてしまう。私も友人のボブから、MYOBファーストアカウント方式をすすめられ、毎週、彼から頭の痛いコンピューターの使用を習ってい る。

丁度彼が来て、コンピューターのキーを叩いている時、電話が鳴った。市内のコンピューターショップ。ある男が私の書いた見積もり書を持って来て、新しい コピーを作成して欲しい、との事だが、金額がどうやら勝手に書き直してある。それでいいのか、とコッソリ聞いてきた。

覚えがなかった。ファックスされてきたのを見ると、何と私がトニーの盗難刀に見積もってやった物。日付けは昨年の8月。書類の隅に、保険会社の処理済のスタンプが、ウッスラと見えた。ナル程ナー、と思った。

あの野郎、盗難という名目で私の見積もり書を利用し、保険詐欺をやったらしい。うまくいったので味をしめ、もう一度私の所に来たものの、私が見積もりを 出さなかったので、古い見積もりをコピーし直して、使用するつもりだったのだろう。犯罪人に甘い豪州の法律でも、保険金詐欺(INSURANCE FRAUD)は、すぐブタ箱入りになる程、かなり重い。

それにしても刀とは、ウメエ物に目を付けたナー。豪州人なら、誰も本当の価格は分からないし、保険会社としては、私の見積もりを信じるより手はなかった のだろう。コリャーあのウヘラのトニーに、一本やられたよ。あの嘘が見抜けなかったとは、私も何ともトロイ。まあ一応、保険会社にだけは連絡しておくか。

その後、トニーがどうなったのか、知らぬ。

しかし、最近軽犯罪が増加した。私の隣人も、つい最近やられた。犯人は16才のアボリジニー。この国の法では、17才以下は罪にならぬ。書類送検のみ だ。それも面倒で、やらないケースがほとんどだ。ガキもそれを知っているから、平気でやり放題。盗みに入ったガキをブン殴ったら、逆に少年虐待で罪になっ た、という笑えない笑い話もある。

詐欺も多い。結構巧妙になった。私は過去ニ回、一万ドル程やられた。トニーのような間の抜けた詐欺なら、まだ愛嬌があるものの、自分から生きる努力をしないで、他人から奪って楽しようと思う根性なんザア、とんでもネエ。

私の家にはライフル等の武器が沢山あるので、警報機は家全体にセットし、大きなガードドッグを放って、十分な用心をしている。結局、自分のテリトリーは、自分で責任を持って守るしかない。

政府のレポート等を見ると、豪州経済は上り坂、失業率も久々に低下した、という。

ソーカナー。豪ドルの国際的信用の無さ、とその価値の低さを見ると、そうは思えないし、実際には相変わらず低迷しているように思う。それでもこの国には、まだ十分のゆとり、がある。

簡単にもらえる失業保険で生きている若者の何と多い事。たるんだ学校教育。国情も考えず、平気でストをくり返すユニオン。この国のガンだ。不景気といいながら、ポーカーマシーン産業に消えていく金額の凄さ。贅沢な事だと思う。

ゆとり、というものは、誠に大切で何とも有り難いものだが、それにしっかりとしたモラルの土台が伴わないと、余裕があるが為に追い追いと曲がった方向に流れるものだ。

アメリカ、然り。日本、然り。オーストラリアよ、お前もか、となりかかってはいないか。

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2001年1-2月号・其の43 それからは、ボーナス

2007年09月05日

高校時代の親友、小池邦夫、からの便りが届いた。久し振り。松山東高校時代、小池は書道に、私は空手に情熱を燃やしていた。彼は東京学芸大書道部に入学したが、授業に失望して中退、苦労して、絵手紙、という分野を創始する。

絵手紙、は彼の造語。現在、日本絵手紙協会会長。売れっ子の有名人だ。3年前、ケインズにも来て、講習会を開いた。

私は東京水産大卒業後、日豪合弁の南洋真珠会社に採用され、豪州北端の木曜島分場に赴任。9年半在籍したが空手への夢捨てがたく、退社して1976年1 月、ケインズに空手道場をオープン。小池は大成して時流に乗ったが、私は空手をやって何とか生きてきただけだ。ただ高校時代からの夢を通して生きてきた人 生だけは、共通している。

小池兄。久方振りにて書状拝受。小生、相変わらず空手をやって、時代遅れの生き方をしている。お互い、もうすぐ60才。小生の生き様は、もう変えようがないし、今さら変えようとも思わない。稽古後のビールがうまい。そんな毎日であればいい。

先日、俺の道場の25周年記念クリスマスパーティを地元のリゾートでやった。参加230名。古い門弟達もやって来て、祝ってくれた。パトロンのケインズ 市長も、毎年必ず参加してくれる。有難い。十分な準備をし、テーブルの席順も、合う人間を考えて、ピシッ、と決め、リゾート側に前もってファックスしてた のに、幕が開くとどうだ。リゾート側の不手際で席がバラバラになり、何とか皆を席に付かせ、落ち付くのに40分もかかった。ところがフロアマネージャー。 手前ェ達には手落ちはネェ、と言い張って謝りもしネェ。カチン、ときたぜ。

ケインズは観光都市として売り出しているが、評判は今一つ。一度来るとそれまでで、リピーターが少ない。地元にいるんだから、行く先々で、ケインズの サービスの悪さは、鼻に付く程経験している。それでも以前に比べると、ズッと良くなったんだぜ。観る所も少ないし、ミヤゲ物もオリジナリティの乏しい、何 処にでもあるような物しか売ってない。

ケインズの良さは、ノースクィーンズランドの素朴さにある。だからこそ、遠路はるばるやって来た客には、少なくとも気分良く過ごせる位の従業員への温か いサービスの仕付けを、真剣に考えて欲しいと思う。来てくれ、と頼んでおいて十分のサービスの無いのは、まァ我慢が出来るとしても、客を不愉快にさせるな んざァ、詐欺みテェなもんだ。俺はもう絶対にあのリゾートには行かネェよ、となるのは当然だろう。

ところで正岡、脳梗塞だってナァ。そうか、俺達もう、そんな年になっているのか。もう少し正岡の様子が知りたい。回復を祈る。正岡が高校の時、俺に呉れ た刀の鍔(ツバ)、今も大事に持っている。あの時には、鍔の持つ良さ等まったく分からなかったが、今見ると、見事な透かしの面白い作品で、俺の愛刀に付け ている。昨夜、取り出して眺めたよ。もうあれから40年か。鍔を柄から外し、両手に挟んで擦った。鍔はこうするのが、一番ツヤ出しにいい。擦っていると、 俺達の高校時代の思い出が、両手の間からポロポロこぼれ出て、あの正岡のダミ声が聞こえてきたよ。

今年は2000年。不思議に良い事は一つもなく、悪い事ばかり続いた年だった。道場も今までで最低。でも最後にたった一つ、朗報あり。何処でどうなったのか、俺、表彰されたよ。

豪州連邦政府が、2000年、という年を記念して、各分野のスポーツの発展の為に貢献度の高い人物、又はコーチを今年の始め、豪州全土よりノミネート し、年間を通しての選考の結果、つい先月、北クィーンズランド域からは9名が受賞。ラグビー、ホッケー、水泳、サッカー、テニス、陸上等々、豪州でポピュ ラーなスポーツだけだと思っていたら、その中に何と、俺の空手が入ったよ。

空手の技術を、正しく指導する事自体難しいが、一番大切なのは、技術の背後にある日本の文化の伝達、という事だろう。子供には、キチンとした仕付けが大 切だ。今時のガキは、まったくやりたい放題。それを法律が保護してんだから、悪くなる一方だ。俺は今でも、何回言っても聴かないガキは、俺の体を張って ヒッパタく。母親がとんで来るぜョ。法律違反だもんな。それでも続くガキは、何とか物になるが、半分以上は道場に帰って来ない。地味な空手の稽古をコツコ ツと続けられるガキに、悪い子はいない。ハイスクールに入ると、皆優等生だ。それでアッタリ前だ、と思っている。

そんな俺の指導方針の道場が、国に認められた。本家本元の日本人でさえ、空手の師範と言えば、ヤクザか右翼位にしか見てくれない。そんな空手というスポーツを通して国に認識された事は、空手を知っているからこそ、凄い事だと思う。

俺は外国に出て来る日本人の全部に言いたい。日本には空手のみならず、外国で認められている素晴らしい文化が沢山ある。外国にいる間に外から日本を眺め、もう少し自分の国の良さ、というものを考えてみたらどうだ、とナ。

受賞は私にとって、25年目の良い区切りになった。私個人ではない。空手という日本の文化を通して、日本が認識された事だ、と思う。地元の小企業の経営が、徐々に難しくなっているように、道場を維持するのも簡単な事ではない。

来年2001年は、煩わしい道場運営は、信ずるに足りる門弟にまかし、私は自分の稽古をやりたい。60才まで後1年。最後の1年、私の空手人生の締め括 りとして、悔いのない稽古がしたい。それで体が動かなくなったら、立つ鳥跡を濁さず。アッサリと道場を閉めよう。

もし2001年の12月、26周年の記念パーティが出来たら、それからは、私の残る人生への、ボーナス、だ。

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2001年3-4月号・其の44 侠気

2007年09月05日

「見るのと聞くのは、大違い。いや、何とも気さくで、いい人でしたよ」

その夜、道場の稽古に来たギャリーが、私の顔を見るのを待ちかねたように、そう言う。目から鱗が落ちたような顔だ。さて、偏屈者の彼を心服させた女性…とは。

ワンネイション党々首のポーリンハンソンが、最初にケインズを訪問したのは、もう5年程も前になる。その時、彼女の護衛を担当したのが、武器携帯現金輸 送警備のアーマガード。マネジャーのピーターは、私の古い弟子。その関係で、彼の下で働いている連中も、私の道場の支部、と言える程、道場のメンバーが多 い。直接の護衛に選ばれたのが、ギャリーとクリス。ともに空手は二段の腕前。

ハンソン党首は、評判が悪かった。普通の民間人から立ち上がった彼女の事、言動の端々に、政治家らしからぬ過激な表現も多々ある。猫の目のような鋭い目 付きと重なって、マスコミへの当たりも手厳しく、それが独特のプライドを持つ彼等には、カチン、と来るのだろう。こぞって彼女の悪評を書き立てたし、それ が又、一般には彼女のイメージとして定着したように思う。

しかしナァ、ノラリクラリとしながらも、決してマスコミを敵に回さない政治家の多い中で、自分の言いたい事を喚いて嫌われているハンソン党首の方が、無知、非常識と非難されながらも、人間的には正直なのかも知れネェナー、と思ったりもする。

アーマガードのピーターが、私の道場に入門したのが、26年前。ガチャガチャとした男で、その上結構糞生意気。言いたい事を言う。私も道場を開いたとこ ろだし、その頃は血の気も多かった。豪州人なんかに負けてたまるか、と突っ張っていたものだから、この野郎、とピーターを怒鳴りつけるのが、習慣のように なっていた。ところがピーター、怒ってもひっぱたいても、相変わらず稽古にやってきて、懲りずにへらず口をたたく。

「今日は、いっテェなんでセンセイ怒ってくるかナァ、とビクビクしながら道場に行ってましたぜ」

そうとはまったく見えなかったけれど、今でも一緒にビールを飲むと、必ず当時の話になる。コラァ、ピーター!!と怒鳴りながらも、私自身の気持ちの中に、彼に対する奇妙な信頼感が湧いてくるのを、感じてもいた。

言いたい事は言うが、言うなりの行動力がある。荒削りでずぼらな面もあるけれど、真面目に物事を見詰める心も持ち合わせている。何よりも、人間的に信頼 出来る、という事で、Aussieは、He has his heart in right place.と、端的に表現する。私はこの言葉が好きだ。表面だけをうまく取り繕い、人間関係を自己の利益の為に、うまく利用しながら生きている日本人社 会とは、まったく正反対のキャラクター。以前はこんな本真物の豪州人〜Fair Dinkum Aussie〜が沢山いた。

1ヶ月前、西豪州の選挙が終わった。労働党の圧倒的勝利。GSTが原因である。クイーンズランドの結果も見えていた。これから連邦総選挙の結果も予測出来る。

20年程前、久々に労働党が政権を取って、以来15年。この間、国債は著しく増大、世界有数の借金国になる。おまけに社会保障の乱費で、働かない人間像 が増加。コリャヤバイ、と民衆の目がホンの少し目覚めて、リベラルに戻ったのが数年前。以来国債は大きく減少したそうだが、残る借金を片付け、膨大な社会 保障金をカバーしながら、国の財政を正常な基盤に戻すには、GSTしかない、として、よく踏み切ったものと思う。

確かに10%の出費は大きく、3ヶ月ごとのレポートは大変だ。しかし、その内慣れる。3ヶ月ごとに、正確に自分のビヂネスのポジションを知るのは、悪い 事ではない。それよりも、GST改革の結果が出るのは1年先、いや2年先かも知れない。次の総選挙で労働党が天下を取っても、GSTがなくなる訳ではな い。目先の損得で動くのは、豪州人も日本人も変わらないけれど、ここは一つ武士の情け。ハワード首相にGSTの結果を出させてやりたい、と私は思う。

「センセイ、又立ったぜヨ」
特徴のあるしわがれ声はピーターである。州選挙にワンネイション党が立候補したと言う。前回は惨敗だった。それでも、又出馬した。アーマガードでハンソン党首の警護をして以来、彼は彼女のノースの基点として頑張っていたようだ。

「負けると分かっている喧嘩でも、自分のスジを通さねばならネェ時は、買って出るのが生き方、というものでござんスヨ。それを誰かが続けネェと、世間という目は覚めませんぜ。おまけに豪州人の大半は、あまり頭がよくネェときてますしネ」

ピーターは、まるで日本の古い義理人情の世界に生きるやくざ者のようなセリフを、サラリと吐いた。この野郎、まったく変わらネェナ、と私は楽しくなった。この男を支えているものは、彼一流の侠気、なのだと思った。

私はワンネイション党のポリシーがどんなものなのか、よく知らない。たまたま見ていたテレビに、ハンソン党首のインタビューが出ていた。彼女の鋭かった 目付きも、スッカリ穏やかになり、質問の受け答えもそつがなかった。あれだけの悪評の中を切り抜いてきた彼女である。成長した、と言うべきだろう。

党のポリシーは、他の政党のように大きなものではなかったが、豪州人として当然、と思われるもので、好感が持てた。

ピーターは、やはり、落ちた。しかし惨敗の前回選挙に比較し、獲得票は大きく前進。特にアセタン、チャーターズタワー等のカントリータウンは、大半以上がワンネイション党支持に変わっていた事実は、これからの選挙に、何かを示唆しているようだった。

次の選挙にも、ピーターは、彼の、侠気、を引っさげて、又登場するだろう。ピーター、50才。

「オイ、又ビールを飲もうぜ」

私はそう言って電話を切った。心の中に、爽やかな風が吹いた思いがした。
 

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2001年5-6月号・其の45 空き巣に御用心

2007年09月05日

「刀はありませんかネ」

久し振りの電話は、マイケルからである。以前、私のタウンズビル道場の支部長をしていた男で、現在、ジェームスクック大学の動物学者。まァ、変わり種だ。人物は信頼出来る。

大学の仕事の都合で空手から遠ざかって、数年になる。

「あるよ」と言うと、ぜひ一振り譲って欲しい、と言う。何かあったナ、と思った。

彼の研究室への突然の電話は、ポリスからだった。彼の家が空き巣にやられ、現在犯人を調査中という。まったく寝耳に水の話で、前後の事情がよく分からなかったのも、無理からぬ話ではある。

その日、若い男がセコハンの店へギターと真新しいビデオ等を持ち込んできた。落ち着きがない。店員も心得たもので、品物を詳細にチェックすると、ちょっ と目には見えない箇所に、マイケルの住所と名前をプリントした小さなラベルが貼り付けてある。若い男の名前とは異なる。キャッシュを取りに行く振りをし て、ポリスに通報。男も気配に敏感であったようだ。品物をヒッ掴み、店から走り出た。車はエンジンをかけたままにしてあったそうだから、かなり手慣れた手 口ではある。

マイケルの家は閑静な住宅地、アールビルにある。いい家だ。ビッタリと六尺程の板塀に囲まれ、中がまったく見えぬ。いかにも安全そうに見える家なのに、そこが盲点だったようだ。

男は、マイケル夫妻が昼中働きに出ているのを調べていた。反動をつけて板塀に取り付き、難無く乗り越えて侵入。透き間のない塀の為、外から見られる心配 はない。雄々と仕事をしていったようだ。プライバシーも大切だけれど、塀は、ある程度外部から中の様子が見える方が、安全、という事かも知れぬ。

男が不用心に残していった指紋から、身元が割れた。前科があった。ここのポリスもちょっとしたもので、数日内に男を上げた。男は、マイケルが一番大切に していた二振りの日本刀も持ち去っていた。ところがその男、刀をどうしたのか、吐かぬ。ポリスもあまり強い尋問は出来ない。今流行の、人権、に引っ掛かる からだ。それのみか、犯人にも、人権侵害として訴える権利がある。

まったくナァ、ロクに働きもシネェで人様の財産をかっぱらい、ノウノウと暮らしているような人間に、人権なんザァもったいネェナー、と私は思う。そんな腐った根性を持っている奴等は、ブタ箱にブチ込んで、出所まで強制労働にでも使ってやればいいのに。

こんな話もある。場所はマリーバ。ケインズから約一時間の高原の町。男が同棲していた女性と喧嘩。殺してしまう。殺し方がひどい。死体の顔は無惨に腫れ 上がり、鼻はつぶれていた。倒れたところを所かまわず踏んづけたのだろう。内蔵は損傷し、ほとんどの肋骨が折れていたそうだ。

裁判で、男は殺す意志はなかった、と主張。結局、法廷は男の殺意を証明出来ない、として過失致死で二年。死体の惨たらしさが、殺意の有無を証明してい る、と思うのだが、法的にはシッカリとした証明が必要になるらしい。生きている人間は、少々悪さをしても、立派に人権は存在するのに、殺された人間にはな いのだろうか。

人権とは何とも重い、大切なものだ。しかし人権を濫用しるぎると、本当に人権を必要とされる立場の人間を、逆に軽視する結果にもなりかねない。人間である、という理由だけで、人権が与えられるものでもあるまい。

人間として、その社会に生きる義理と責務に裏打ちされてこその人権、と私は思うのだが、まァこれは理想論かも知れぬ。

マイケルの刀は、出てこなかった。男が数ヶ月たってブタ箱から出てきたら、適当に処分するのだろう。盗られ損だ。自分の持ち物は、自分で責任を持って守らなければならない、という事だ。

同じ頃、私の左側の隣人がやられた。私の家は隣人同様、道路から約30メートルのドライブウェイがあり、前に一軒、前面の隣家がある。背後はブッシュ で、ケインズで真ん中の住宅地なのに、大変プライバシーがいい。その分、不用心でもある。隣家侵入の犯人は、ドアのガラスを割って難無く侵入。各部屋を物 色して金庫を発見。鍵がないので、納屋からガーデン用の荷車を持ち出して金庫を運び、車に乗せて運び去った。昼中三時頃。まったく堂々としたもので、昼中 が意外に危ない。私はそのとき在宅してたのに、物音一つ聞かなかった。プライバシーがいいのも、こんな時は困る。

右側の隣人がやられたのは、数ヶ月前。15才のガキだった。早朝、物音がするので出てみると、ガキがまるで自分の家のように、釣り竿等を両手いっぱいに抱 えて立っている。ガキに手荒い事をすると、逆に訴えられる。ポリスに引き渡しても17才以下。そのまま釈放だ。罪にならない事を知っているから、この年頃 の盗みが、今一番悪い。ポリスも手を焼いているそうだ。親には、子どもをキチンとした社会人に育てる義務がある。ガキを罰する事が出来ないなら、両親には 何等かの責任体勢をとらせてもいい。ガキの事は知らネェよ、では、人権を重んじる国にしては、スジの通らない話だ。

最近NSW州では法律が変わり、賊の侵入に対して、いかなる防衛も認められるようになった。当然だ。QLDは、まだ駄目。万一の為木剣を用意しておく、 とする。それを賊に使用したら、人を殴る為の準備行為だった、として法に触れる。冗談じゃネェよ、と思う。賊が入って来たら「HELP YOURSELF(お好きにどうぞ)」というのが、一番安全みたいだぜ。世界中様々なトラブルのある中、豪州にはまだまだ素晴らしい生活環境があるけれ ど、犯罪者にとっても、有り難い国である事は確かのようだ。

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2001年7-8月号・其の46 ワニも捨てたもンじゃない

2007年09月05日

突然、水面が音を立てて盛り上がった、と思えたそうだ。暗い水面が、夜目にも白く泡立ち、渦を巻くように激しく動いたら、すぐ横に座り、ついその瞬間まで話していた女が、消えていた。一瞬、何が起こったのか、残された男には、分からなかった、という。

ケインズから北へ車で2時間。デイントリーリバー・ナショナルパークの内懐にあるような小さな村、デイントリー。村落の少し手前。幅5メートル程の小さ なクリーク沿いに、古びた家が四、五軒、チマチマッと肩を寄せ合うように立っている場所がある。惨劇は、そこで起こった。ソーサナー、もう16、7年も前 になッか。

その夜、一軒の家でパーティーがあった。何のパーティーであったのか、は知らぬ。家の背後は、2メートル位の土手になっていて、簡単な木製の階段を数 段、トントンと下りると、小さなボートを舫う、ジェティとは名ばかりの、狭い桟橋が設置されていた。クリークの延長はそのまま、メインのデイントリーリ バーに、支流のようにつながっている。

12時過ぎ。一組の男女が、フラフラと裏庭に出てきた。かなり出来上がっている。酔い覚ましのつもり、だったのだろうか。ジェティへの階段を音を立てて下りると、狭いプラットフォームの上に座り込んだ。

動物は、この時から、獲物を感覚で捕らえていたに違いない。長い尾部が、ユックリと左右に動き、闇に開く無表情な目は、極く小さな波切りを起こし始める。

女はプラットフォームの端に座り、足をジェティから投げ出した。あいにく、水位はかなり高かった。女の足は、丁度脹ら脛位まで、暗い水中で動いていた。

ワニが獲物をアタックする時、一定距離まで目だけ出して、用心深く近付き、射程距離に入ると、一気に潜って勝負に出る。私も狙われた経験がある。獲物が大きいと、喰らい付くと同時に体を回転させ、噛み切る効果を増大させる。このアタックは、恐い。

動物の目がフッ、と水面から消えた。音もなく、まったく何の兆候も獲物に知らせず、動物は、鼻のすぐ先に、動く女の足を見た。

このアタックと前後して、もう一件ある。どちらが先だったのか、もう忘れた。

ある朝、二人の男がボートランプからスピードボートを下ろし、フィッシングに出る。白人と黒人。エスキーの中は一杯のビール。日が暮れてから、帰ってき た。一日中飲んで、ベロベロ。何とかボートをランプに上げたものの、心地よい傾斜のあるランプで、横になって酔い覚まし。そのまま寝入ってしまう。

ポートダグラス。デイントリーとケインズとの丁度中間点。今でこそ観光地だが、当時は小さな漁村だった。

黒人が目を覚ますと、白人が消えていた。家にも戻っていなかった。どこにも男の痕跡がない。モ、シ、ヤ、という事になり、ランプの入江沿いを翌朝捜索したところ、80メートル程上流で、太股から切断された男の足が見つかった。

私しゃ物好きで、その後現場を見に行った。一目見て、コリャ駄目ダ、と思った。どのアタックも、自然を甘く見た人間の責任。死んだ者には悪いけれど、同情の余地はない。

グレイムが来ていない。週2回の朝稽古。何かがないと、まず稽古を休まない彼の事。共に稽古に来ている父親のロンに、聞いてみた。ロン、67才。体が動 かなくなったら、俺の人生は終わりだ、とその年で頑張っている一微者。聞くと、グレイムはローラまで、バラマンディ釣りに出たと言う。エッ、ローラでバラ がつれるのカイ、と思ったが、考えてみるとその通りだ。

ローラはケインズから、4WDで約5時間。アボリジニーの聖地。プリンセスチャーロット湾に口を開くノーマンビイ川が、2百キロほどさかのぼり、支流共 々、ローラの近くを流れている。完全な淡水域なのに、バラはそこまで棲息しているのか。ヨシ、俺も様子を聞いて、行って見よう。ローラには宿泊設備はな い。野宿だ。あそこは、星が美しい。いいナー、と思った。

ローラは、寒かったそうだ。つい、2週間前。バラは寒いと食いが悪くてネー、と言い訳をした。彼は以前、ナショナルパークのレインジャーを勤めており、ローラ近辺は彼の庭の一部のように、熟知していると言う。アボリジニーとのコンタクトも強い。

「知り合いのアボちゃんが、9尾も釣ってくれましたヨ。でもネー」

ヒッヒッと笑っていた顔を、急に真顔にすると、「イヤ、久し振りに行くと、ワニッコの何と増えている事。びっくりこきましたゾネ」

豪州のワニが捕獲禁止になったのが、約30年も前。増えて当然、まだまだ増える。

「ローラに行ったら、まず水辺からは絶対に釣らない事。土手を捜す事。アルコールは、飲み過ぎないよう。酔うと大胆になり、水辺に近づきます。野宿は水辺より必ず2〜30メートル離れましょう。残飯は川に捨てないよう。ワニを呼びます」

「オス」私は彼の生徒のように、返事をした。まったくその通りの常識ばかりだ。そう〜豪州で自然に親しむ第一歩は、人間としての常識を守る事からスタート する。危険なワニの増加が、人間に自然と接する為の常識を考えさせる一助ともなるとしたら、それはそれで良い事だと思う。それまでは、北部クイーンズラン ド、何処に行っても、底の見えない濁った水辺に立つ事は…要注意!!

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2001年9-10月号・其の47 オーイ、青空

2007年09月05日

 バイクが付いてくるのに気が付いた。パーキングを探していた時だ。近所のショッピングセンター。ユックリ走っていたので、道を譲ってやろうと思ったが追い越さない。私がトロトロ運転していたものだから、文句でもあるのか、と思った。

用を済ませてセンターを出てくると、その男、入り口にバイクを止めて誰かを待っている様子。ヘルメットの下の目が確かに私を見ている。横を通り抜けた。何も言わぬ。10メートルも歩いた。男が追ってきた。

「…センセイ…」

エッ!そう私を呼ぶからには、私の生徒だったのだろうか。ヘルメットを取った髭面に見覚えがあるようにも思った。

「センセイ。俺はあの時、根っから頭にきましたよ。何時かセンセイを倒してやろう、そう思って自分で稽古を続けましたぜ。でも年を取るにつれ、だんだんそ の気がなくなって、俺のした事の方が悪かったんじゃネェか、と思うようになったんですよ。そう思わせてくれたのは、やはりセンセイだった、と分かってきた んです」

一気にしゃべった。そうか、髭で分からなかったけど、あの時のガキだ。ジョンだ。あの時のこの野郎の攻撃、まるで鎖の切れた番犬みテェだったぜ。

あの時…。ソウダヨナー、もう15年も前になるか。私の道場が毎年、北クイーンズランド州空手選手権を主催していた頃だ。ジョンは確か、15〜16歳部門のイベントにエントリーしていたはずだ。

空手の試合は、大きく分けてたったの二通り。当てるか、当てないか、だけだ。当てない場合、寸止め、と言い、相手の急所直前に極めを集中させる。激しい 動きの中で技をコントロールせねばならず、技術的には高度のものがある、と言える。逆に審判の主観が技の判定に大きく作用するため、効果的でない技でも、 ただ単に急所まで届いた、というだけでポイントになる、というフェアでない面も出てくる。

まァ空手の試合というものは、相手を倒すのが目的というよりも、技を競う事により、お互いの向上を目指す試練の場、と解釈するべきだろう。だからこそ戦いの場において、人間性の基本となる、心、というものが大切になってくる。

ジョンが私の道場へ入門した時、10歳位。他の道場から来たので、もう茶帯を締めていた。稽古は熱心だったが、性格に少し問題があった。自分本位なのだ。強いものには萎縮するが、弱い相手は徹底していじめてしまう。

最近ベタベタと子供を可愛がるばかりの親が増えた。特に母親。何から何まで面倒をみて、子供の言う通りにしてやる。親自体にけじめがまったくない。本当 に子供の事を思ったら、子供の将来のため、しっかりとした性格の子に育つよう、子育てをすべきだと思う。無条件に可愛がる事と子育ては、別だ。甘やかした 子供は、当然我がままに育つ。面倒を見過ぎると、自主性のない依存性の強い子供になる。自分本位に育っているものだから、他人への思いやりはまったくな い。

ジョンの母親は、こんなタイプの親の典型だった。ジョンは悪いガキではない。しかしこんな母親のもとでは、悪い方にのびてくる。こんなガキは弱い者いじめ等、悪い事をした時に、一度キャンと言わせてやった方がいい。

体罰は法律で禁止されているけれど、どうしようもないガキには必要な時もある。現在の教育方針が最善のものだったら、子供の質は良くなっていなければな らない。ところが悪くなる一方だ。ガキの犯罪も増えた。人間も動物の一種。悪い事は悪い、と体で覚えさせる仕組みはどうしても必要だ。世の中、妙にアカデ ミックになり過ぎた。二歳や三歳の子供にいくら理屈を教えても、通らない場合もあるはずだ。そしてこの年頃が、人間としての性格形成に一番大切な時期なの だ。子供は国、そして親の財産。子供の財産は、親からしつけてもらった性格。これが子供の生き様を決める。

ジョンは残念ながら、その後私の道場をやめた。弱い者いじめをしていたので、私はわざと母親の前でひっ叩いてやった。私も子供を罰する時は、性根をすえ て体を張る。訴えられる、と分かっていても、道場の中では見過ごすことが出来ない。それ以降、ジョンを見ない。恐らく、母親が止めさせたのだ。他の道場で 稽古をしている、と何処からか聞いた。素質のある子だっただけに、私の意志が伝わらなかったのは残念だった。

試合に出場したのは、そのガキ、ジョン、だった。見違えるように大きく、荒々しく育っていた。ヌメッと光る目に、人を人とも思わない傲慢な光りが見える。私の道場を止めたのは、完全に間違っていたナ、と思った。

私が審判だった。ジョンの試合振りは、コントロールも何もない。ただ相手を倒したいだけの喧嘩空手だった。

「お前ナァ、何のために空手をやっとんジャ。人間あっての空手。もう少し、相手の事も考えてみろ。それまで二度と俺の道場へ足を踏み込むんじゃネェ。出て行けェ」

試合は中断。続行させると怪我人の出る恐れもあった。ジョンは失格。私も若かった。彼を試合場から、オっぽり出した。その時以後、ジョンに会った事がない。

ジョンとは15年振りだった。目から当時のヌメったような荒々しい光りが消えていた。しばしの間、私は何も言えなかった。

ソウカ、あの糞ガキのジョンが、こんな事を言う年になったのか。もうおっつけ、30歳位になっているはずだ。

「センセイ、俺に空手を教えてくれてありがとう。I REALLY LOVE YOU NOW」

そう言うと、彼はバッと私に抱きつき、慌てたように離れると、バイクの方に走って行った。男に抱きつかれるのは、あまり気持ちのいいものじゃネェナ、と 思いながら、私の道場を去った後の彼の15年を思った。悪ガキが、あんな事を言う。何だか、安物のテレビドラマのようだぜ。

私はそのまま立っていた。バイクのジョンは、手を大きく振って走り去った。私と知って、私の車について来ていたのだ。

ジョンの黄色のバイクを見送った。バイクが消えたその上の、空が何とも青かった。

色んな人間に空手を教えてきたものヨ。オーイ、青空。今日もいい日だぜ。

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2003年5-6月号・其の56 Wouldn’t be dead for the quids

2007年09月05日

あまりいい言葉ではないので、女性の前ではまず使用しない事。
その言葉を初めて聞いたのは、ケインズで空手道場を開いた頃だから、もう昔の事だ。それまでは日豪合弁の南洋真珠養殖会社の技師として、豪州最北端の小 島、木曜島に住んだ。会社のスタッフは、労働力としてのアイランダー以外は全部日本人で、毎日日本語で通せるものだから、9年半も働きながら、仕事に必要 以外の英語はあまり上達しなかった。

その男、実にうまい説明をした。
「牛には雌牛(cow)と雄牛(bull)がいますネ。雌牛が糞(スラングでshit)をすると、そのままペチャッと地面に落ちるのに、雄牛がすると何と、地面に落ちず、上へ上へと上がってゆくんですナァ」
真面目に聞いていた私、思わず
「ソンナ事あるモンか」
「ソー、ソレソレ、それがBullshit ですヨ」

馬鹿げた矛盾とか嘘っパチ、質の悪い冗談等をさす。豪州人の男達がごく普通に使っているスラングだ。ちなみに、こんな事をしょっちゅう言っている奴を、Bullshit Artistと言う。
日本人の英語はまず、キングイングリッシュ。正しい文法で正確にしゃべろうと努力し、英語学校等もその方針を基本とする。言葉はその国の大切な文化。他国の文化を教えるのなら、それを正確に指導する事が、教える側の良心としても当然の事だろう。

私が学生の頃の日本の英語学習は、読んで書くテスト用のみで、中、高、大学と十年近くも英語の授業に出て、まったくしゃべれなかった。言葉は人間のコ ミュニケーション。この一番大切な根本が日本の授業にはなく、従って耳から聞くという訓練がなかったからだ。
日本人は確かに正しい英語を学習するけれど、言葉というものはその上に、その国の生活風土から時間をかけて生まれてきたスラングや独特の表現法も数多く 使用されているものだ。これらは辞書にもなく、豪州人の中に入り込んで会話の端々から聞き取るしか方法がない。

日本語もそうだけれど、こんな言葉の中に、実に生活に密着したよい言葉があり、これが英語、という生きた言葉なンだと思ったりする。英語圏に住んでいる のだから、こんな言葉がサラリと出るような英語をしゃべりたいものだ。沢山あり過ぎて紹介出来ないけれど、例えば、メッチャ寒い天気やナ "What a brass monkey weather" と言う。昔の丸い砲弾を積み重ねるには、三角形のbrass(しんちゅう)の枠が使用された。これをmonkeyと言った。豪州南部の寒い朝は、砲弾が brassの枠に凍りつく事もあったから、この言葉が生まれた。

豪州人の誰もが各々の仕事に精を出し、豪州がまだ上向きに発展していた頃の挨拶のひとつ。
"Howya going, mate ?" (How are you?) "Wouldn’t be dead for the quids, mate" 金の為には死なネェよ、という直訳から、オラァやりたい事をやって、元気に生きてるゼ、という前向きの姿勢が目に見えるようだ。

余談だが、35年前の豪州の生活水準、世界第3位。日本なんかより遙か上で、豪1ドルは450円の時代。
私の好きな言葉の一つ。"Let’s put the nosebag on." 朝早くから働いて昼食時になった。馬にも餌をやらねばならぬ。袋の中に餌を入れ、馬の鼻づらに被せるようにして首に掛ける。これをnosebagと言う。
Nosebagを被せると人間も昼食だ。ヤレ、昼メシにしようゼ、という人間の合い言葉になった。

私がケインズに住み着いた頃には、こんな言葉を話す連中とよく出会った。ケインズが発展し始め、豪州各地から人が集まった。それを嫌ったローカルがこの 町を出、人間の交代劇が行われて以来、こんないかにも生活の臭いが漂ってくるような言葉は徐々に聞かれなくなった。寂しい事だ。
今でもハッキリしない言葉がある。二日酔い(hang over)の迎え酒(hair of the dog)。何で犬の毛が迎え酒になるのか、その語源を話してくれる豪州人に未だ出会わない。

 
   
 

▲左が一貴(かずき)さん

   

 一貴(カズと呼ぶ)がケインズに来た。彼は私の大切な友人、兄弟分でもある大阪の空手師範の息子。師範は会派の中でも重鎮的な人物である。
滞在1年。目的は例に漏れず、英語の勉強。英語学校に入学させるのは簡単だけど、費用の点と日本人同士が寄り集まって、ミイラ取りがミイラになる事もあるかも知れない、と考えた。
空手に大切なのがスピードを見切る目と勘であるように、語学に大切なのは発音を聞き分ける耳。一年の猶予がある。カズは私の門弟の家にホームステイさ せ、道場では毎日稽古。且つジュニアクラスを手伝わせ、とにかく英語の発音に耳を慣らさせながら自分から話しかける、という習慣を最初の3ヶ月の間に付け させるようにした。

日本人は引っ込み思案な性格が多い割には、チョット格好をつけ、他人の目を気にしてしまう。ある程度正しい文章を覚え、文法的にも正確にしゃべらないと 恥ずかしいと思うし、相手にも悪い、とさえ考えてしまう。まずほとんどの豪州人が日本語をしゃべれないように、日本人が英語をしゃべれないのは当たり前の 事だ。大半の日本人が英語の単語だけでもしゃべれる、という事実だけでも豪州人のレベルより上だ。文法的に無茶苦茶でも、気にする事はない。とにかく単語 を並べてでも、カズの意志を表現させる事が大切だと考えた。

カズが来て、もう4ヶ月が過ぎた。まったく英語の出来なかったカズの耳が、メッキリ良くなってきた。空手で言えば、突きが見えてきた。次は受ける事を教 えなくてはならない。次の3ヶ月は、カズが特に必要だ、と感じる分野の言い回しを勉強させる。簡単なスラングは、私が教える事にした。この調子で9ヶ月。 残りの3ヶ月は、好きなように遊ばせよう。その前に必ず中弛みが来る。マァ、その時はその時だ。

つい数日前、大阪でカズの父親、千政館道場師範と会った。朝の4時まで飲んだ。師範も間もなくケインズに来るそうだ。2人で又一杯飲めるのを楽しみにしている。
師範夫妻と支部長の山南君が、関西空港まで見送ってくれた。日本はゴールデンウィークの入口というのに、空港には人がいなかった。今まで日本でこんな空港を見た事がない。
イラク戦争、SARS、北朝鮮問題。世界が狭くなった現代では、一国のトラブルは世界のトラブル。ケインズの観光産業も、どうやら褌を締め直す時期に来ているようだ。

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2003年7-8月号・其の57 宝の持ち腐れ

2007年09月05日

ハンドーフ。過去数回訪ねた。行くたびにきれいになり、何処にでもあるような近代感覚の店が増えていた。キャラクターが無くなりつつある反面、観光客は大幅に増加し、著名な観光地として定着しているようだ。
アデレードからやや南、ハイウェイに乗ると四十分位で、ドイツ人移民の町ハンドーフに着く。最初に行ったのは、もう二十年も前。町ぐるみ観光客の誘致に 努力している様子が見え、個人住宅を改造した意匠をこらした店が軒をつらね、チョット変わった物も売っているので楽しい町だった。クイーンズランドで言え ば、サンシャインコーストの山の町、モントビルってとこかナ。
最後に訪ねた数年前、午後遅く着いたので、翌朝に備えて一泊する事にした。翌朝、ユックリと朝食をすませ町に入ると、何処も開いていない。手持ち無沙汰 な観光客がアチコチに見える。店は十時から。アンティークショップとなるとまだ遅くて、十一時以降の店もある。十時から四時までの六時間。有名な観光地に なったから、客はいくらでも来る。短時間で十分の商売が出来る、と考えての時間設定とは思わないが、そうだとしたら本末転倒もいいところだ。せめて普通通 り九時から五時までは働いて、遠来の観光客の便宜をはかってやってこそ、名の通った観光地と言える。

まるで一世紀前に逆戻りしたような錯覚に陥るニューノーシアの村を出、トゥデイの古いパブで一泊。翌日パースの東方約一時間の距離にあるヨークに入る。 1830年建設の西豪州で最古の町。当時の町並みが見事に保存されている素晴らしい町だ。パースから日帰りコースとして最適な地点にあるので、特に週末は 賑わうようだ。
ヨークには産業がない。立派に保存された町並みという魅力的な観光資源があるので、町としては何とか観光客を入れたい方針が見える。それにしても町の人 々の無愛想さはどうだ。並ぶ店も何等特徴のないものばかり。これだけの雰囲気がありながら、勿体ない話だと思った。おまけに店は三時を過ぎる頃から、パタ パタと後始末を始める。客がいても意に解しない。保守的な考え方をする人が多い、と聞いた。保守なら保守でいい。それに徹して筋の入った保守にすれば、 ヨーロッパのようにそれなりの解答が出てくる。中途半端な保守、というのが一番始末が悪い。

似たような観光地がケインズの近くにもある。クランダ。日本人にはキュランダ、と知られている。私がケインズに住み着いた28年前頃、クランダはヒッ ピーの巣。彼等が自分たちで栽培した野菜類や果物、手作りの品を持ち寄って物々交換したり売ったりしていたのがクランダマーケットの始まり。ケインズの ローカル達も、野菜が安いので、よく買いに出かけていたものだ。このマーケット、何が出てくるかも分からないので面白く、私もよく行った。
クランダが観光地として脚光をあびて以来、マーケットは何処にでもあるような安物やアジア等からの輸入品、アボリジニーの道具とTシャツとまったくキャラクターの無いつまらない場所になってしまった。おまけに皆、愛想が悪い。

つい先日、友人数人と私の生徒のパブで昼食をとりながら一杯やった。三時すぎ、クランダの町に散策に出た。この時間帯になると、メインストリートは人影 がまばらになる。あるカフェに入った。野郎共はコーヒー、女性はアイスクリームでも、と考えていた。その店、カウンターに客が二、三人いるだけで、応対し ていた中年の女主人、私達がドヤドヤと入って行くと、肩をすくめるようにして白い目で天井を見た。豪州人がよくする、ヤレヤレもう沢山、という軽い否定の 表現だ。私と友人の一人が目ざとくそれを捕まえた。私シャもう店を閉めたいのに、又客が来やがった、と女主人は言いたいのだ。カチン、と来た。友人がコー ヒーを頼むと、コーヒーはもう作れない、と言う。カフェにコーヒーがない。女達はアイスクリームを頼もうとしたが、物も言わずに皆をカフェから引き出し た。

ケインズにはリーフ以外に対して見る所がない。別にクランダが世界的に有名な観光地、という訳ではなく、近くに手頃な場所がないからクランダに連れて来ざるを得ないだけだ。
何処にでもあるような特徴のないマーケット。最終列車が駅を出ると、パタパタと閉店の準備をする。スカイレールは四時半まで運行。車で来る客だってある んだゼ。何処の店でも愛想が悪い。フレンドリーなノース、クランダビレッヂ、というイメージを売るのなら、もう少し真面目に雰囲気作りを考えたらどうだ。 町議会で決定し、店やカフェ、レストランに入って来る客、道で会う観光客には誰でも彼でもつかまえて、G’DDAY, MATE, HOW’YA GOING ? 笑って挨拶ぐらいはさせる事だ。クランダで働く者は全員、女性は往年のロングドレスにエプロン、グラニーハット。野郎はカウボーイハットの牧童でも金 鉱捜しのスタイルでもいい。それぞれ職場に似合った扮装を強制させる。ポリさんは腰にサーベル、鞍の横には303(旧豪州軍主力小銃)をブチ込んで、馬で 町中をパトロールさせる。町中の建物にも規制を設け、何処にでもあるようなギラギラした安っぽい建物は建てさせない。昼食だからと行って、食べ物には絶対 に手を抜かない。

こんな雰囲気作りに努力している男がいる。クランダの駅を上った所にある1880年建立のパブのオーナー、バリー。私の道場の生徒だ。往時の雰囲気を出 来るだけ忠実に残そうとしているパブ。前を通る観光客には誰でも、従業員共々、フレンドリーに挨拶をさせる。パブの食事もチョット面白い物を安くサービス している。チャンスがあれば彼のパブに寄り、ギネスパイ、を試してみるといい。往年のアイリッシュシチューにヒントを得たようなこのパイでギネスを一杯、 タップからグラスでもらう。これが又よく合って、オリジナリティを感じさせる昼食である。

サービスとかイラク戦争の煽りで、ケインズもグッと静かになった。平常になるのは、年内一杯かかるだろう。観光客が少ない、とか不平不満の声をアチコチ で聞く。これはむしろケインズにとっては良い薬で、ローカルの観光業者は、ケインズやクランダを長い目で見て向上させるには、何が大切なのか、よく見直し てみる事だ。ケインズがいい、と言っても未だ三流観光地の域を出ないのは、意外と身近なところにも問題があるように思う。

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2003年9-10月号・其の58 ブームの仕掛人

2007年09月05日

チョイト見せたいものがある、と言いながら娘が持ち出してきた物は、新聞の半ページ位の大きさの不動産広告。あまり興味もなかったのでヨクも見ないまま、見覚えがないか、と問う娘に、ウンウンと生返事をしていると、娘、呆れたように、
「チャンと見なさいヨ。コレ、私の家だったンだヨ」

娘達が郊外に広い土地を購入して新居の準備に取り掛かったのが、昨年の10月。それまで住んでいた家は小綺麗なクイーンズランダーだったので、場所も良 かったし、売り急ぎするなヨ、と言っておいたのに、新居の図面を引いた段階で早速売りに出してしまった。値段も安過ぎる。案の定その翌日、ポンと売れた。 購入者は南から転勤になったという夫婦者で、至急住める家を捜していたと言う。私には、多分そういう名目で投資物件を捜しているのではないか、とも感じら れていた。

成る程、よく見るとチョイト手を加えてあるものの、娘の以前の家だ。
「ホラ、私のカーテン、まだ使ってあるヨ」 売り値、35万ドル。持ち主が急に南に転勤の為、手放したくはないが至急売りたし、とある。やはり投資家だっ たナ、と思ったが、もうそんな事は他人事だ。娘達から購入後1年ももたない内に売りに出し、7万ドルを上乗せしてある。チョット悪どいゼ、と思ったけれ ど、これが今日の相場ならば、私なんかが文句を言うスジもあるまい。

私の空手道場に現在、不動産関係者が3人いる。建売りの業者は、1ヶ月に4件の契約が取れれば何とか生き残れる。ところが7月中は20件以上の契約。以 前に家を購入した客が値段が上がったので売りに出し、その分少しいい家に建て替える例がかなりあるらしい。不動産販売の生徒は、早く売れるので売る物件が 少ない、とこれ又嬉しい悲鳴。

娘の新居は7月に完成。もう移り住んだ。ところが1ヶ月も経たない内に、アチコチ業者の手抜きが見えてきた。
安い家ではない。それなのにシャワーの排水が悪かったり、屋外に出すべき臭気孔が天井裏に開いている等という非常識的ないい加減な仕上げぶりだ。業者に 文句を言っても、もう金は先渡し済。仕事はいくらでもある。小さな修理なんかに時間はとれネェよ、テナもんで、このケインズでアフターサービスを期待する 方が、まァ無理というものだ。
娘が同僚にその話をすると、
「アンタの所はまだイイヨ。私んとこ、4年前に建てたけど、まだ悪い所直してくれないヨ」待つ方も待つ方。
こんな町に住んでいると、ある程度気長くやる気持ちがないとやってられネェヨ、と思う事にも、もう慣れっこになってしまった。
それにしてもこの不動産ブーム。しかしこれをブーム、と呼んでもいいのかナ、とも思う。

ケインズの不動産が下降線を辿り始めたのが10年前。それからは下がる一方。あちこちの建築業者がつぶれ、あふれていた不動産業者もかなり姿を消した。 豪州は面積は大きいけれど人口は少なく、その地方のリーダー的存在になる都市の数は知れたものだ。その意味では大きくてもいかにも小さい国なのだ。

ブームの切っ掛けは投資家がつくる。人口の少ない豪州の投資家の数には限度がある。だからこそ彼等がタライの中の水のように、片側が上がると同じ水が反 対側に移動し、又、逆に戻ってくるという動きを、周期的に繰り返す仕掛人ともなり得るはずだ。つまりシドニーなどの大都市が落ち着くと、彼等の目は株か地 方に向く。地方が静かになると、元に戻る動きが出てくる。

シドニー、メルボルン域の不動産の急騰ぶりは、3年程も前から徐々に落ち着いてきた。それに拍車をかけたのがアメリカのテロ。株価がドッと落ちた。仕掛 人の目が地方に向かないはずはない。まずブリスベンとその近郊が動き始め、余波は1年位前からケインズにもやってきた。

地方のブームは普通3年。よく持って4年。という事はここ2年程はケインズの不動産ブームは続く、という予測が出てくる。投資として家を購入するのな ら、2年以内に売る方がいい。逆に自分の家の購入は、この高値の時期に、銀行等から融資を受け無理して入手すると、数年後には値が落ちて気苦労の種になる 可能性も大きい。

私はまだケインズに28年しか住んでいないけれど、この田舎町の移り変わりをジックリと見つめてきた。今のこの町は見違えるように便利になり、日本人居 住者の数も増えてきた。その反面、出費や経費は増大し、税金対策も難しくなった割には、収入の増加は少ない。私の道場のメンバーは、ほとんどが自営業。ビ ジネス間の競争も激しくなったので、以前と同じ収入を得る為には、さらに長時間働かなくてはならない。子供のクラスは多過ぎて困る位なのに、大人の減少で 一般の生活ぶりがタイトになってきた事が感じられる。ケインズはもうノンビリした以前のような田舎町ではなくなってきた、という事だ。

私の生徒の1人に、最近大きな家を購入した男がいる。その家の持ち主、夫婦別れをしたそうで、まったく手入れされていなかった為、3階建ての10部屋も ある凄い家なのに、50万ドルをきれる値段で入手したそうだ。数ヶ月間自分でコツコツと修理し、見違えるようになった。1年間住み、その後すぐに売りに出 すという。多分70万ドル以上の値が付くはずだ。1年間、自分の持ち家として住むと、売った時点で税金はつかない。1年間の利益としては悪くはない話だ。

豪州人達、よくボロ家を出来るだけ安く購入し、そこに住みながらコツコツと自分で修理する。1年経って売りに出す。これを繰り返してその都度レベルを上 げてゆく。狩猟民族末裔の彼等は、1カ所に執着しない。平気で精力的に、簡単に移動する。その土地に定住する農耕民族末裔の日本人には、なかなか真似の出 来ない生き方だ。

娘の新居のすぐ隣は私の土地だ。そこに我々夫婦の家も建てることになった。家の図面も出来上がったのに、私はなにやら気乗りがしない。糞面倒くさいし、 今の家でも十分に快適だ。その点、妻は頑張る。新居の設計もほとんど1人でやったし、気分転換にナルゾー!と意気盛んである。農耕民族末裔でも、芯は女の 方が強いのかも知れネェナー、と再認識しているこの頃だ。

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2003年11-12月号・其の59 子育てよりも親育て

2007年09月05日

娘が生まれた時、妻と話した事がある。赤ん坊はよく泣く。言葉のしゃべれない赤ん坊がよく泣くのは、悲しい とかつらい等という事ではない。ただ単に本能として、親の関心を引く為だ。泣くたびに抱き上げていたのでは、まだ意思のない赤ん坊の本能的な意図に従う事 になる。つまり、赤ん坊というものは、泣く事により親のコントロールを開始しているのだ。泣くたびに飛んで行って抱き上げあやす事は、意思のない赤ん坊の 言いなりになる訳だ。

これだけで終わればいいのだが、これを繰り返す内に赤ん坊の中に一つの意思が育ち始める。泣けば親が構ってくれる。よけいに泣く。そしてこの意思がやが て大きな意思、我がまま、という意思にふくれ上がる。親は精一杯面倒を見ているつもりで、逆に子供に我がまま、親の言う事を聞かぬ、という種子を植え続け ているのではないか。
ヨシ、泣き出したら少なくとも2、3分は、放っておく事にしよう。泣く事は赤ん坊の出来る唯一の全身運動にもなる。

赤ん坊が寝ている間の我々の生活も、特別に静かに等しないで、まったく普段通りにしよう。飲んべエ共も寄って来るは、ガタガタ音も立てる。私は当時フラ メンコをかなり弾いていたので、マラゲーニャ、ファルーカ、ソレアレス等の得意曲をよく弾いた。静かにしすぎると、神経質な子に育つ。
そのせいかどうかは分からないけれど、娘は数ヶ月でほとんど泣かない子になったし、何処でもスヤスヤとよく眠った。

私は38年前、日豪合弁の南洋真珠会社に採用され、大学卒業と同時に豪州最北端の小島、木曜島分場に赴任。1年半を働いて一時帰国した時結婚し、妻帯赴任のテストケースの第一号として、新妻と共に再赴任した。
日本人宿舎と仕事場は木曜島の隣島の金曜島にあった。会社は私達の為に、小さな集落のある木曜島にフラットを捜してくれ、私は毎朝早朝、小舟で仕事場に通った。

クリスマス前のその日。暑かった。妻のお産が迫っていた。木曜島の病院は、金曜島の仕事場から真正面に見える小さな鼻にあった。妻のお産、という個人的な理由で仕事を休まなかった私は、昼休みになるのを待ちかねてスピードボートに飛び乗った。
汚れた仕事着のまま、海風でカーテンの揺れる妻の病室に入ると、もう娘の里味は生まれていた。私は何も言えなかった。言葉の分からない妻は、一人で里味を産んだ。海と空が競い合うように青い日だった。

島では我々二人だけの生活だった。私は仕事を休まず、妻は退院したその日から、産後の痛む体を引きずり、ガランとしたフラットで一日里味の面倒を見た。
娘がヨチヨチとようやく歩き始めた頃、又妻と話した事がある。私達はチョットした事が、子供の性格形成に大きな影響を与えるのではないか、と考えた。
子供はよく転ぶ。転ぶと必ず泣いて、親に頼る。こんな時には心を鬼にして、自力で立ち上がるまで放っておく事にした。立ち上がった時に誉めてやる。親に 頼らず、親に甘えず。悪い事をしたら、叱る。叱るのは私が一手に引き受けた。但し私がどんな叱り方をしても、妻は助け船を出さない事にした。さもないと子 供は必ず甘い親になびく。子供に二面性を持たせない事も大切だと思った。

言葉は親子の間は日本語で通す。言葉はその国に生まれた人間が最初に接する文化だ。日本人でありながら、片言の日本語しか分からなくなったら可愛そうな 事だ。英語は私達がヘタクソな英語を教えるより、自然のまま放っておき、学校へ行くようになったら、正確な発音の正しい英語を自然と身につけるだろう。と 言えば格好がつくが、つまりは、何もしなかった、という事だ。

豪州出発の実にその前日、私の父が急死した。長男の私は残る家族の面倒を見なければならず、給料のほとんどを送金していたので、島では貧乏だった。里味 にオモチャひとつ買った事もなく、服は妻が手縫いの物だった。それでも娘は木曜島の自然の中で、スクスクと大きくなった。まったく手のかからない子になっ た。車もなかったので、何処に行くにも歩かせた。4才位になると、一日中何キロも歩かせても、黙々とついて来た。

9年半島で働き、会社を辞めた。弟や妹を何とか卒業させたので、今度は私の夢を追いたかった。ケインズに下りて来て、空手道場に懸けた。ゼロからのスタート。34才。

娘はケインズの学校に入学した当初、英語で苦しんだようだ。それでも1年も経つと、クラスで一番になった。九才になって、空手の稽古を始め、ハイスクー ルに入る頃には、ジュニアクラスの大切な助手になった。道場から帰ると九時過ぎ。夕食が終わると十時を回る。それから学校のホームワーク。寝るのは毎夜2 時過ぎ。テスト中も道場を休んだ事がない。ハイスクールの六年間、文句ひとつ言わず毎日続けた。
大学は自分で進路を決め、一人でブリスベンに行って入学手続き等全部やってきた。私達親は、入学式にも卒業式にも行かなかった。大学卒業後、一時ゴール ドコーストで働いていたが、その内カンタスに入社し、ケインズに戻って来た。妻が喜んだ。もうそれから十年が過ぎた。

娘が21才になった時、日本人の父親として贈りたい物があった。娘は我が子ながら性格の良い、しっかりした明るい子に育った。豪州人達からも好かれ、信 頼されているという事は、大変な事だ。性格も豪州人らしい反面、今様の若い日本人女性より、はるかに日本人らしい面がある。

伊予松山の郷田刀匠。残念ながら故人になられたが、刀身彫刻では日本でも有数の人。刀匠に前もって短刀を一振り鍛えてもらい、焼き入れ前、日本に行って 私が実際に刀身に粘土を塗り、刃文の形取りをさせてもらった。これを染刃という。そして焼き入れ。その短刀に刀匠は一ヶ月かけて、ジックリと彫り物を入れ てくれた。見事な出来の短刀になった。
娘21才の道場のクリスマスディナーの席、皆の前で娘に手渡した。娘はその時初めて、私にすがってポロポロと泣いた。短刀の中心(なかご)の銘は表に刀匠の名前、裏に、長女里味二十壱才父松本主計之染刃、とある。

親が子供に贈る一番大切な贈り物は、物でも金でも財産でもない。その子の人生をしっかりと渡ってゆける性格の基礎を創ってやる事だと思う。外国において は特に子育ては難しい。それにしても今の世の中、子育てよりもしっかりした親、親育て、の方を先にしなくてはナ。

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2004年1-2月号・其の60 CHEEKY

2007年09月05日

のガキ、いかにも人を小馬鹿にした態度をとる。薄ら笑いを浮かべ、ヘラヘラと減らず口をたたく。何か言う と、必ず言い返す。他の子供にチョッカイを出す。少しの間もジッとしていない。まったく稽古の邪魔にしかならないのに、どこが面白いのか、決して稽古を休 まない。私はそのガキを"CHEEKY"と呼ぶ事にした。

私が豪州で子供達に空手を指導して、もう35年以上になる。以前は子供達に子供なりの集中力があり、私の言う事もキチンと聞く態度を持っていたので、何 等の支障もなく満足のゆく稽古が出来た。そんな素晴らしい子供達が、知らぬ間に、少しづつ変わり始めたのは、いつ頃からだったろう。

私自身、政治に関してはよく分からないし、大して興味もないのだが、これには豪州内の政党の交代劇と大きな関係があると思う。
それまで国民党中心だった豪州政府が、反国民党の労働党に政権を譲ったのが、もう15年以上も前。自由、国民党連合のハワード首相がそれを取り戻しても う数年になるが、各州の政党は以前として労働党が多いので、党の方針は州の法律の中に強く打ち出されている。
労働者層の保護、人権、特に子供の権利の尊重を強く押し出す労働党の法律は、理論的には一見正論に思え、別に悪い事ではない。まず学校では体罰の禁止。 それまでは悪い生徒は物差しのような物で、手を叩かれていた。少しずつエスカレートする。生徒を怒れなくなった。生徒の体にも触れなくなった。子供がすが りついて来ると、先生は両手を上げなくてはならない。来年は声を荒げる事も禁止されるという。
それのみか、入学して来る幼い子供達にも人権を説く事が義務づけられた。何も分からない子供達に人権を説く。私達は何も強制出来ないし、例え両親でも、体罰を受けたら訴える事が出来る…云々。

ここまで来ると、私は頭をひねってしまう。子供の仕付けで一番大切なのは3〜4才まで。これは親の義務でもあり、責任だ。法律により親の義務たる仕付けにも制限を加えるのは、子供の人権を重視するあまり、親の権利を軽視する事にはならないか。

人間誰しも、相反する二面性を持つ。頑張る、努力するという向上性と、遊びたい、楽をしたい等の怠惰性。この二面をバランスよくコントロールする役目が個人の理性であり、正常の理性の発達に一番大切な時期が、子供の仕付け時期という事になる。
この一番大切な時期に、お前達には権利があるンだよ、と何も分からない遊び好きの子供の好きにさせると、取り返しのつかない事になりはしないか。素晴らしい子供達の資質を良くするのも悪くするのも、我々大人の責任観念にかかっている。

私は教育とは、押し付け、だと思っている。親から子へ、先生から生徒への一方通行なのだ。何も分からない子供達の好きにさせて、真面な教育が出来る訳が ない。要は押し付ける側に、その人の人生に裏打ちされたシッカリとした信念がなければ、子供も付いては来ない事になる。
子供を叱るのは好きではないけれど、何度注意をしてもジャラジャラとしようのないガキは、尻の一つでもヒッパたいてやらないと、ピッとしない。親の前で も遠慮はしない。一生懸命、叱る。叱って良くなる子と、ビックリして止めてゆく子とタイプは様々。叱って良くなるタイプの子供なら、例え体罰が法律違反と しても、体を張って子供と向かい合うのが道場、というものだろう。

幸い今まで、子供を叱って親から文句が出た事はない。親が私のする事に同意してくれているからだと思うが、叱る事自体が法律違反のこの国では、訴えられ る可能性はいつでもある。しかし厳しくするばかりが能ではない。子供の集中力というものは、長くは続かないので、適当に息を抜いてやる事も必要になってく る。アメとムチをごく自然に使い分ける事は難しいけれど、これが出来なければ子供の指導は出来ない。

豪州では子供は様々な法律により保護されている。教育の設備も環境も良い。新しい指導論も次々と紹介され、ありとあらゆる情報は簡単に入手出来る世の中 になった。教育が良い方向に改善されているのなら、子供の質はそれと正比例して向上しなければならないはずだ。しかし現実には子供の質は毎年低下し、少年 犯罪、校内暴力、自殺等々増加の一方。子供の性格も尊敬心はまったく無く、無気力、集中力皆無、我が儘な子供達が大量生産されている。何処かが間違ってい るとは思わないのだろうか。

世の中少しアカデミックになり過ぎたのかも知れない。評論家や心理学者などが入れ替わり立ち替わり、机上の空論のような教育論を打つ。ぼつぼつそんな物に耳を傾けないで、もう少し教育の原点をシッカリと見つめる時期に来ているのではないか。

教育の原点は理論ではない。3〜4才までの人格形成期に物事の善悪を判断出来る常識に基づいた仕付けを、シッカリとしておく事だ。これが子供を持つ親、 というものの一番大切な責任でもあり、義務だ。これを御座成りにして人権を与え、教育論をブツけても、子供にはそれを染み込ませる土壌がない。

CHHEKY 本当に糞生意気なガキだった。私も本腰を入れた。まず挨拶。それが出来るようになると、私の言った事に対する、ハイ、という返事。悪い事をすると罰として 腕立て50回。私が横にいてキチンとやらせる。30回を過ぎると泣き出す。そんな事では止めさせない。絶対に50回、正確にやらせる。私に反抗する時もあ るが、そんなガキの反抗など、まったく意に解しない。

この"CHEEKY"いつ止めるかナ、と思っていたが相変わらず稽古には来る。3ヶ月も経つと少し変わってきた。ジャラジャラしなくなった。4ヶ月で私 にニッコリするようになった。クラスでも目立たない程、大人しくなった。現在7ヶ月目。楽しんで稽古をやれるようになった。ボツボツ、"CHEEKY"と いう名前を変えてやらねばナ、と考えている。

「センセイ、いい加減で道場なんか止めヤンセ。今の世の中、信用出来る人間なんテ、いネェヨ。ガキを叱るのは、法律違反だゼ、この国では。その内、訴えられるヨ」
私の親友の弁護士がそう言う。ソウサナァ、と思いながら青空を見る。空が青いナァ。サアテ、いつまで私の信念、通せるかナァ。

※編集部注:CHEEKY(チーキー)とは「生意気」「あつかましい」の意

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2004年3-4月号・其の61 人、を残したか

2007年09月05日

でェ、しばらく会わネェ内に、頑固そうな顔になったじゃないか。心の中でつぶやいた。口をへの字に結んでいるから、そう見えたのかも知れぬ。
バーニーよ、もうおっつけ38年にもなるナァ。お互い知らぬ間に、年をとったものヨ。

私が日豪合弁の南洋真珠養殖会社の技術員として採用され、豪州最北端の木曜島分場に赴任したのが1966年。当時、木曜島の人口約3千人。今度採用され たジャパニーズは、カラテのブラックベルトだそうだ、という噂は狭い島内にすぐに広まり、カラテという東洋の武術を見た事がない島民の事、アレコレと期待 していたそうだ。

養殖場は隣島の金曜島にあり、日本人宿舎もあったので、二つの島の間は目と鼻の先の距離と言っても、木曜島に行けるのは週末に限られていた。

この時代は木曜島の真珠産業の最盛期で、島の産業は真珠一色。六社の日本企業の技術員だけでも、60名を超えていた。週末には皆、パブのある木曜島に集まってくる。

空手クラスはまずこれら日本人に依頼され、会社の事務所の一部を使用し、20名程でスタートした。
ところが当時の日本人、マージャンと飲む方が忙しく、週一回の稽古をしよっちゅうサボる。私も若かったので、人を担ぎ出しておきながら何たる無礼、と怒って止めてしまった。

空手クラブを本格的に組織したのは、その一年後の事。一時帰国した時に結婚し、妻帯赴任。会社は木曜島にフラットを捜してくれ、金曜島の養殖場には毎朝小舟で通勤した。

きっかけは子供達。ある日、何もないガランとした私のフラットに、数人の子供達が訪ねてきた。空手を教えて下さい、と言う。子供の頼み、イヤダとは言えぬ。
その時の子供の一人、ケイ。今はケインズの学校の先生で、最近彼女の高校生の息子を入門させて来た。当時9才のケイと知って、ビックリ。

子供達でスタートした空手クラブは、アッという間に多人数になった。道場は教会の厚意でホールを借用。入門無料。その代わり、ビシビシと厳しい指導をした。

この頃入門した一人がバーニーである。トーレスストレート、アイランダー。稽古はエラク熱心だった。この男、妙な癖がある。

「センセイ、センセイは私が黒人だから、道場であまり話をしてくれないのでしょう」飲むとカラんで来る。
一般のアイランダーには良い人間が沢山いるが、皆飲むと駄目。ほとんどがグデグデになるまで飲み、からみ、喧嘩をする。まァ喧嘩は飲んだ時の彼等のスポーツのようなもので、私もよく楽しんだ。

バーニーは賢い男だった。それだけに黒人である事へのコンプレックスが大きかったのだと思う。だからこそそれが原動力となり、空手の稽古も身を入れたのだろう。

島では9年半働き、退社した。空手の夢がふくらみ、プロの道場に人生を懸けたくなったからだ。木曜島の道場は私の育てた有段者の連中が継続し、その後15年余続いた。

バーニーは大学に入って文化人類学を専攻、博士号まで達する。アイランダーの文化紹介のアンバサダーとして、豪州国内はもとより、米国、ヨーロッパ諸国等々にも派遣されるまでになった。プロフェッサー、バーニーである。
私達はドクター、バーニーと呼称した。このドクター、私に会うといつもキチンと立って、ペコッと礼をする。何を言っても、オス、オスと返事するのが、オシ、オシと聞こえる。黒い目をキロキロさせ、よくしゃべった。

最後に彼に会ったのは、もう10年位前になるかナァ。島へ帰った時、私の育てた弟子達が集まって、ビールを飲んだ事がある。皆、島の中心人物的な存在に成長しているのが嬉しい。

バーニーの頑固そうな顔は、まったく生きているように見える。心なしか胸も上下しているようだ。それでもソッと顔に触れると、もう人間の温かみは残っていなかった。

私はバーニーが死去するまで知らなかったが、心臓麻痺でケインズの病院に運ばれていたそうだ。

「バーニーが病院へ送られる少し前、町中で会いましたヨ。私の顔を見ると、今でも必ずオシ、オシと挨拶して、一緒に稽古していた頃と同じですヨ。必ずセンセイの事が話題になりますネェ」

バーニーの死を知らせて来た島の弟子のトニー、そう言って寂しそうにクックッと笑った。遺体は島へ運ばれ、島を上げての葬儀になるそうだ。幸い私はその前に、ケインズで最後の対面が出来た。

「センセ、バーニーのお棺は私達空手クラブの連中が、稽古着姿で担いでやりたい、と思っていますがいいでしょうか」

現在ではウォータータクシー会社を経営する髪の毛も白くなったトニー。
私が島を去る前に入門し、ホンの少しの間しか指導しなかったのに、彼の態度は今でも稽古を続けている弟子だ。私が島へ行くと、必ず彼のウォータータクシーで送り迎えしてくれる。頭が下がる。

LIVING IN CAIRNSの私の駄文を読んで、私に色々として下さる方が九州の肥後におられる。私は勉強という事をまったくしないので、自分の思った事しか書けない。 その方のお便りからは、彼の勉強の深さが感じられ、同じ年代なのにその差を思い知らされる。

その方が、明治の元老、後藤新平の言葉を送って下さった。

——『金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり』——。

私はこの年になっても、金は残せなかった。ましてや残す事業等ない。空手で多くの人達を指導してきたけれど、それがすぐに人を残す事にはつながるとは思えない。

しかし、と考えた。バーニーは空手の稽古があったからこそ、その自信が黒人というコンプレックスを越えさせた。トニーは若い時、しょっちゅう牢に入れられていた暴れん坊だった。それが素晴らしい人間になった。

道場には何ともしょうのない、やんちゃな甘やかされたガキ共が次々と入門してくる。大半は、止める。それでも残った子供達は、知らぬ間に子供らしい良いガキになる。もしかしたら、私は少しでも、人、を残しているのかも知れない。

バーニーのお棺の中に、私の使っていた黒帯を入れた。俺より若エくせに、先に行きやがっテ。まァその内、俺も行くからナ。

この男と会って38年か。色んな事があったナァ、と考えていたら、急に涙がボタボタと落ちた。バーニーよ、俺の涙も持って行け。

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2004年5-6月号・其の62 新種

2007年09月05日

カラフルで美しい。大きさは30センチ程度。沢山いるのに口が小さいので、なかなか釣れない。チャイナフィッシュ、と呼ぶのだそうだ。私が豪州最北端、トーレス海峡にいた頃。30余年も前の話だ。
「何でダェ」と聞いてみた。中国の方には失礼だが、答えが面白かった。
「何処にでもいるもんネ」
ちなみにこの魚、食べてもあまりうまくない。

「日本の女の子、今ここではニューマーケット、ってえ男共が騒いでいるヨ」

西豪州ブルームの年間行事、シンジュマツリの責任者の一人、Aさん。数年前、マツリの40周年にブルーム市から招待され、空手演舞に行った事がある。

エッ?私はその意味が今ひとつピンと来なくて聞き返した事だった。
その男、界隈の鼻つまみ者だった。無職、ヤクの常習者、全身に刺青。生涯、政府からの失業保険を当てにして生きるタイプのようだが、こんな人間豪州には沢山いるので、別に珍しい存在ではない。

そんな男に日本人の女の子がくっ付いた。近所の住民達、興味津々と見ていたらしいが、二週間目で結婚までこじつけたのには驚いたという。理由は簡単。女の子のワーホリのビザが切れてしまうからだ。

「地元の俺達にゃ、いやに肩身の狭い世の中になってきたもんだゼ」とAさん。

ちなみに日本人の女の子を追い回すタイプの第一位は、当然無責任な遊び人タイプ。次が豪州人の女の子にあまりモテないタイプ。だがこの中に結構人間的にはいい者がいるようだ。
最後は一度結婚に失敗した中高年者層で、気の強い豪州女とは再度一緒になりたくない、と考えている男達。経済的には安定しているので、日本人女性が好む対象だという。

日本人女性でもピンからキリまである。いい娘がいい男を掴み、ボロはボロを掴む、とはまァ一般論だが、外国、特に豪州のような国民性では、なかなか常識通りにはゆかないのが現状のように見える。

狭っ苦しい島国、日本からやって来た。国土は開放的だし、男共は親切のようだ。社会保障はいいし、ゆとりがある感じ。他人の国と燐家の食卓は良く見える。この国に住みたい、と外国に憧れる若い子が思うのも無理はない。

サテと、手っ取り早く豪州に住めるようになるには、ソーサナァ、こっちの男と結婚すれば簡単ジャン。外人のハズなんテェ、カッコいいしネ。すぐに永住権は取れなくても、住む権利はあるモンネ。

ビザが間もなく切れるから、早いとこ男を決めなくちゃ。一緒になっても気に入らなかったら、その内別れればいいしネ。女性には寛大で有利な法律を利用しなかったら損。別れる時は、ついでに慰謝料も請求しようっと。

こんな子はごく一部だとは思うけれど、その筋の連中と話すと、結構いるそうだ。
豪州人の野郎だって適当にやっている。時々私の道場に写真を撮りに来ていた新聞社の若いカメラマン。上げ底のような男だ。見かけはいいが中身が少ない。

この男、ある夜日本人の女連れで道場に来た。結婚するンだ、という。私にはその男が見えていたので、嘘ぬかせ、と思ったが、ペターと甘い目をしてくっ付いている女の子の手前、黙っていた。

数日後、知人を見送りに空港に行くと、その二人がいる。帰国する女の見送りらしい。女の子、男にすがり付いてビショビショと泣いていた。ヤレヤレ、結末 の知れている芝居を見ているようなものだと思ったが、これは女の子自身が目覚めなければ、どうしようもない。

その数日後、又その野郎に街で出会った。別の日本人の女の子がくっ付いていた。野郎、私の顔を見て、ゴソッと横を向いた。
まァ最近、こんな男共掃いて捨てる程いるのだろう。

平和大国、日本。平和ボケして育った日本人の若者。良くも悪しくも警戒心がなく、無防備。道徳的にはかなりルーズで外国人には憧れる、とあっては、豪州 の男共にはまるで鴨が葱をしょってやって来るように見えるのかも知れない。そんな男達に、手を出すんじゃネエよ、と野暮な事も言えまい。

豪州人と日本人を二つの輪に例えて見る。
並べて置いた二つの輪を少しずつズラしても、この輪がピタリと重なる事は絶対にない。ただ、ズラした輪が部分的に重なり合って生じる共通の部分が、ホモサピエンスとして共有できる大切な領域になる。
この領域を広げるのも、せばめて消失させるのも、輪の重なり合っていない余白の部分の働きによる。

このお互いの余白の中には、各々の国民性や文化、人間性等が詰まっている。つまりこの余白の部分が豊かであればある程、二つの輪の共有するする部分に深みが出てきて、国際結婚であってもお互い尊敬しながらうまくいく。
ただし、その余白が貧しければ、共有する部分は少しずつ消滅し、やがて二つの別々の輪に戻ってしまう。だから、輪が違う人と暮らすには、覚悟と努力が必要だということを自覚して欲しい。

どんな形であれ、私は男女の仲をとやかく非難するつもりはない。忠告するだけ野暮な世界。失敗したって身から出た錆。私の見たところ甘く点を付けても、 今くっ付いている豪州人と日本人のカップル、六、七割の輪は近い将来二つに離れてしまうだろう。父親も母親も好きな事をやってきたのだから、とやかく言う 筋ではない。ただ一番の被害者は、子供、とだけ言っておこう。

「豪州は社会保障がいいから、貰える物は貰わないと損」

そんな日本人の女性に会った。損得勘定が人間としてのプライドより優先する世の中になりつつある。外国に住む事は、間接的にその国に世話になっている事 だ。何等かの形で、その国の役に立ちたい、とは思わないか。恩を返す。それがプライド、人の魂というものだ。

その魚、いくらでも釣れる。見かけの割には、まったくうまくない。
ジャパニーズフィッシュ、という新種だそうだ。そんな名前を付けられないよう、日本人としての自分の持ち味を磨いて欲しい。

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2004年7-8月号・其の63 珍味アラフラオオニシ

2007年09月05日

ズズズーッ、と小舟を浅瀬に乗り上げた。バシャッ。水の中に股まで飛び込むと、白い砂浜に透き通った海水が、キラキラと輝くように散った。ようやく来たゼ、と思った。
目の前に広がる広大な瀬。いつもは海の下だけれど、六、七月の冬季になると、昼中の潮が低くなり、時々ポッカリと顔を出す。

私が日豪合弁の南洋真珠養殖会社に技術員として採用され、豪州最北端の木曜島養殖場に赴任したのが38年前。この職場の分場が木曜島を出航して北方へ五時間、モア島のポイドという無人の場所に設置されていた。時々分場に出張させられる。

ある時、見慣れた水平線上に、白い帯状に横たわったものが見える。近隣の島から雇用している島民に聞くと、
「アリャSAND BANK(瀬)だべ。今ん時期になると、海ん中から顔出してくんべ」

その時は冬季だったに違いない。
養殖場の母貝を放養する篭の中には、色々な種類の貝類が入り込んでくる。豪州産貝類は美麗種が多く、それに魅せられて懸命に収集していた時があった。冬季の潮が引くのを待ちかねるように、収集に出かけたものだ。
普段海の底になっている浅い瀬は、干上がると絶好の採取場所になる。ポイド分場から沖の白い瀬を見るたびに行ってみたかったが、娘の里味が五才頃になるまで、そのチャンスは巡ってこなかった。

その時は私が分場の責任者だったので、一ヶ月程家族で分場に来ていた。冬季だった。絶好のチャンス。
ある日曜日、島民一人を案内役に連れて、待望の沖の瀬に出た。空と海の青い、冬でも太陽の熱く降る、素晴らしい快晴の日だった。
何やら砂の彼方に黒い物が見える。岩に違いネエ、と思ったが、近づくにつれ、横に長く、頭の先が尖っているのが見える。どうやら大きなホラ貝のようだ。 表面に付着生物が育ち、泥にまみれていた。50センチ以上もあるデッカい巻き貝だ。テッキリ死貝と思った。惜しいナァ、と思いながら足で蹴るようにして押 すと、ガポッと急激に空気を吸い込むような音を出し、ヒックリ返った。鮮やかなオレンジ色の殻口が顔を出し、その中にジューッとへたが入ってゆく。何と、 生き貝だ!!

ちなみにこの貝、和名はアラフラオオニシ。世界最大の巻き貝だ。
その日はバケツ二杯分の貝類と数個のアラフラオオニシの大収穫。小舟まで運ぶのが大変だった。オオニシの重量、6〜7キロ以上。この貝、どうやって身を取るか。島民に聞くと、「木から吊るしておくべ」。
数日たつと、なる程、身がズルリと真下に抜け落ちていた。今思うと、あの時は貝殻を入手するのに夢中で、せっかくの珍味を無駄にしてしまった。貝に悪い事をした。

木曜島養殖場はその後閉鎖になったが、その後を私の兄弟分の高見君が引き継ぎ、労力にワーホリの若い連中を雇用して、現在も頑張っている。これが時代の 流れというものだろうか。自然以外何もなかった木曜島にも、観光客が押しかける昨今。養殖場へのツアーの依頼はいくらでもあるが、ツアーを入れると仕事の 妨げになるし、人間相手は様々の規約があるので煩わしい。
木曜島には産地直売のギャラーをオープンし、どうしても養殖場から直接、という客のみ受け入れている。中間業者がいない分安くさばけるので、わざわざケインズや南の方から買いに来る客が増えつつある。

「イヤ、何ともウマイですネェ。私はアワビなんかより、ズッとウマイと思いますネェ」
金曜島の背後にも、冬季にポッカリと顔を出す広大な瀬がある。私もよく行った。潮溜まりにはサヨリ、ボラ、キス等の小魚。岩場にはタコ。砂地にはアサリ や小エビ。自然の恵みの宝庫とは、こんな所を言うのだろう。アラフラオオニシもよく見つかる。高見君が時々冷凍した身を送ってくれる。身の抜き方にコツが あるそうだ。
「ガポッ、という何ともいい音を出して、スポッと出て来ますヨ」
その身、ごく薄く切って、そのまま刺身のように食べるだけだ。コシコシとする歯触りが絶品で、たしかにウマイ。これに白ワインか酒でもあれば、もう言う事なし。

時々日本からの番組の録画をもらう。食べ物の番組が多く、最高の材料を使って贅沢な事だ。いい材料を使えば、誰でもうまい料理が出来るのではないか、と 料理オンチの私は思ってしまう。料理上手という人とは、庶民的な安い材料を使って、チョットした工夫でうまく食べさせてくれる人、と私は考えている。

食べ物は人間の本能に一番近い物。生まれてすぐの赤ん坊にも、必要な物。本能に近いだけに、好き嫌いをさせず、出された物は残さず、上手に食べさせる事が、母親にとって最初の躾になる。
物のあふれる時代に好き嫌いをさせないという事は、難しい事かも知れないけれど、親の料理した物は文句を言わず食べさせる習慣をつける事は、子供を我がままで横着な子に育てない基本にもなる。
私は何でも食べるし贅沢もしないけれど、食事に関する心の贅沢だけは、いつも心がける。

島で網を打って捕ったキスやサヨリは、海岸で刺身。カキは海水につかりながらコツコツと割り、レモンをチョットしぼってそのまま食べる。ウニはすし飯を 用意しておき、その場でウニの握りを作る。大きなエビは焚き火の上で焼く。アクール等の大きな二枚貝は、残り火の上に置き、口を開いた時にチロチロと醤油 を落として味を付ける。

大切な事は、全部自分達が体を動かして捕獲した物ばかりを自然の中で食べる。この時の一杯は、サテサテ、何物にも代え難い心のふくらむ思いがする。自然の有り難さが、無意識の内に心の中に入って来る一刻だ。

豪州で子育てをすると、自然の豊かなこの国では、こういうチャンスはいくらでもある。自然の中にいるから、その有り難さが見えないだけだ。ガキの時代に、自然からもらった物をおいしく食べた、という経験を出来るだけさせてやりたいと思う。
人間もその昔、自然の中から生まれてきた。人間も自然の一部なり。心の豊かさは、自然の中から学ぶ事の出来る大切な物のひとつだ。

チョットいい話。
動物の子供は、生まれるとすぐに立ち上がるのに、人間の子供はなぜ長い間這い回っているの、と疑問に思う子供がいた…ソウダ。
人間はネ、その昔自然から生まれたんだヨ。自然は人間には遠いお母さん。お母さんを忘れさせない様、お母さんの心をもらう様、這い回ってお母さんに触らせているんだヨ…と答えた人がいた…ソウダ。

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2004年9-10月号・其の64 ブームで思うこと

2007年09月05日

道場を建てましょう。
弟子達が言い出した時、マサカ、と思った。空手道場を開いて数年目。金も無かったし、第一自分の道場等、思いもしなかった。ところが本当に、建った。

「ケインズを囲んで円を描いてみましょう。中心になるのは、マナンダ地区ですネ。ここなら、アンダーソンストリート。稽古に来る道場生に公平に便利な地点 です。道場はそこに建てましょう」と道場建設委員会長のボブ。今でも私の懐刀で親友でもあるビジネスマン。この男、切れる。器も、大きい。

アンダーソン通りの調査は、現在大きな建設会社のダイレクターをしているジョン、が当たった。最適なのが一区画あった。
ところが3ヶ月程前に、新しいオーナーになっていた。彼の購入価格、3千ドル。ヨシ、それなら5千で交渉したらどうか。3ヶ月で2千の利益なら、悪くはなかろう。
当時の税制では、不動産売買の利益に特別の税が付かなかった。

ところが、5千では売らネェヨ、と言う。どうやら足元を見られたようだ。結局、当時としては破格の値段となった1万ドルで交渉成立。弟子達が出資して松本道場株式会社を設立し、株主となって土地を購入した。

問題が2件。
アンダーソン通りは全部住宅区。ビジネスとしての道場建設は、ゾーンが違うので許可が下りない。又建設用地と隣接して、退役軍人居住区があった。彼等が 反対した。日本人の道場である。無理もない、と思ったが、ハイソウデスカ、と引き下がる訳にもゆかぬ。

それをうまく治めてくれ、宅地を商業用地に変更して許可を下ろしてくれたのが、当時の市長のロン・デイビス。彼は事あるごとに道場をサポートしてくれ、 年2回の地税も、市公認で半額にしてくれた。ロンは現在に至るまで、道場のパトロンになってくれている。
新道場は1982年の6月、ロンの手で正式オープン。当時アンダーソン通りで一番目立った道場も、今では最も古い建物になってしまった。

当時のケインズは、ケインズ地区とスミスフィールド、エドモントンから南のマルグレーブ地区の二区に分離されていた。その後合併して現在のケインズ市に なったが、二区を合わせても人口は6万5千。実にノンビリした素晴らしく静かな田舎町だった。産業と言えば、サトウキビ程度。

ケインズの立地条件から考えて、観光産業が最適と見て、まず国際空港誘致に踏み切ったのがロン。これが引き金になった。
国際空港に目を付けた、生き馬の目をぬくような日本の不動産業者が、当時の評価で2ミリオンの、ケアンズ北部海岸部のサトウキビ畑を一挙に買収。それも 18ミリオンという9倍もの法外な値段を付けたものだから、たまったものではない。この地上げが除幕となり、ケインズ第一回目のブームを迎える事になる。 15年位前になる。

急激に変化するケインズに不満を持った保守的な住民は、次々に家を売り払って町を出る。南へ下がり、サンシャインコースト等で家を購入しても、まだおつりがきたそうだから、それを目的に移住した者達もいた事だろう。

血が流れるとすぐにシャークが寄ってくる。
日本人地上げ屋がスタートした不動産ブームは、アッという間に市内のどのストリートにも不動産屋が軒を並べるまでに発展。
株も同じで、急上昇したものは必ず下がる。人間というものは、好景気の最中で有頂天になっていると、意外に目が見えないものだ。気が付くと、少しづつ不 動産屋が姿を消し、アチコチで建築業者の破産の話を聞くようになる。そして7〜8年間の低迷期に入る。

市長のロンは、ケインズの為良かれと信じて誘致した観光産業が、保守的住民の総スカンをくって、ロンのチーム全員敗退。傷心のロンは、二度と政界には出 て来なかった。ケインズが低迷期と言えども何とか持ちこたえたのは、ロンの誘致した空港と観光産業があったからだ、と私は見ている。

この低迷期の掘り返しになったのが、米国のテロ。株価が一度に落下し、以来なかなか回復しない。株投資に自信を失った投資家達が目を付けたのが、不動 産。メルボルン、シドニーの不動産業界に火が付いた。この火はやがて、ブッシュファイヤーのように、北部に向かって燃え上がって来る。

「空手なんかやってて、自分は元気だと思っていても、いつまでも若くはないんだヨ」、と娘。
「何が言いテェンだヨ」と聞くと、いい土地があるから買いなさい、と言う。丁度2年前だ。郊外の、見晴らしの良い丘陵地に、1エーカーの土地が2区画あるという。
「隣同士に家を建てると、年をとっても面倒見やすくなるモンネ」

テヤンデェ。年はとっても、子どもの世話なんかにゃならネェヨ、とヘソを曲げたが、少し心が動いた。見に行った。ケインズの低迷期に引っ掛かり、売りに は出ていたものの、2年間も動かなかったのだそうだ。1エーカーなら狭くもないし、広すぎもしない。丁度いい広さだ。気に入った。

娘達はチャキチャキと手を打って、手際よく立派な家を建て、今年の初め、移り住んだ。南からの2度目の不動産ブームの火は、私達が土地を入手した後、ケインズに引火した。
不動産物件はケインズの場所により急騰し、建築産業の職人の手間賃、費用も上昇した。私の家はビルダーとの交渉に手間どり、このブームに巻き込まれてしまった。新築するのに、一番悪い時期になる。
第一回目のブームは、空港誘致による外部からの投資が仕掛けとなったが、今回は南部からの豪州人の投資が強い。それだけ根強いものがあるかも知れない。

GOOD NEWS、という電話のハスキーな声は、聞き覚えのあるケブン市長の秘書、モニカ。市長が、マツモトをメインテーブルに入れろ、と言っていると言う。
年に一度、市長招待によるキングスフォードランチという集まりがある。晴れがましい席は柄ではないから参加した事はなかったが、今年は気が変わって行ってみる事にした。
招待人数220名。私の席は市長夫妻と前市長のロン、連邦議員のウォレン、裁判所長官等のトップメンバーで、私だけが名も無い空手のセンセと、まったく釣り合いが取れぬ。

「でもナァセンセイ、俺も長い間市長をやったし、空港も誘致したけど、まさかケインズがこれ程までになるとは思わなかったヨ」とロン。切れ者のロンでもそ うか、と思った。私なんか金もないのに不動産に手を出して、このケインズで損バッカリ。人を信じて世話をすると、騙される。
腐っていたが、ブームに当たるは時の運。空手みたいなしょうが無い事を長い事やっている私でも、こうやって市から認めてもらえるのは、幸せ、というものではないのか、と思ったりした事だった。

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2004年11-12月号・其の65 食らい込むなら豪州

2007年09月05日

どうも何やら、引っ掛かるンですけどネェ」

電話は私の知らないコンピューターショップのオーナーからだった。その客、私の空手道場のマークの入った手書きの用紙を持ち込んで、キチンとタイプ、コ ピーして欲しい、との依頼だったと言う。オーナーが見ると、それは何かの価格表のようだ。ところが、手書きの値段が微妙に変えてある。

「同じ手、つまり貴男が直したようには見えないンですナァ。
持ち込んだ客が手を加えたンじゃないか、と思いましてネ」

いくつかの品物の値段の合計は、かなりの金額になるそうだ。私に電話するべきかどうか、迷ったンですけどネ、と言い訳めいた言葉をつぶやいた。近頃珍しく、心根の正直な男のように感じられる。

賢そうには見えないが、何やら鰻のように掴みどころがない。果実のグワーバに目鼻を付けたような、キョトっとした、見方によれば人の良さそうな男にも思える。舌を巻き込んで鼻に抜けるような喋り方が、どこやら軽薄だ。名前は、もう忘れた。

「やられましたヨ。
家に入ったらナント、私の特別誂えのガンケース。
鍵がブっ壊されてるじゃないですか。
私しゃネ、そン中に大切な日本刀、
五振りも入れてたンですゼ。
ALL GONE ! 」

まァよくある話だ。私の所にあちこちから、盗難にあった刀の電話が入る。刀の詳細を送るから、もし同じ刀を売りに来るか、または鑑刀の依頼でもあったら、すぐに連絡して欲しいと言う。
気持ちは分からなくもないから、この手の頼みは心よく引き受けるけれど、まだそういう刀が私の手元に持ち込まれた事はない。

そのグワーバ男も、同じ手の依頼だと思ったが、

「イヤ、違うンですヨ。
刀には保険が掛けてありましてネ。
保険会社に連絡すると、
正式な価格を表示して下セェ、って言われたンですヨ。
すぐに市内のアンティークショップに行ったら、
マツモトに行け、ってナ訳ですワ」

そう言ってその男、クエックエッと引っ掛かるように笑った。笑い方がなぜか気に入らなかった。
刀の写真とか中心の銘の写し、何かの記録はないのかエ、と聞くと、何もない、と言う。冗談じゃネェヨ、そんな無責任な事が出来るものか。まったくそんな話を持ってくる方も持ってくる方だ。とんでもない話だ、と思った。

男、泣き付いてきた。何とかしてくれ。刀は盗まれ損になる。新しい刀を買う余裕もない。日本刀は俺の唯一の楽しみなのだ…と。

困った。何とか力になってやりたいが、男の話を信用して、見もしない刀に高値を付ける訳にもゆかぬ。私が出来るとしたら、その時点における豪州の一般価格の最低額を表示する、こと位だ。さもないと私が保険会社を騙す事になる。
男は承知したけれど、鼻に抜ける声の端に、チクリと感じる不満があるように思った。ソレッきりだ。男は何も言って来なかった。

コンピューターショップのオーナーから突然の電話をもらったのは、グワーバ男に会ってから一ヶ月程たっていただろう。オーナーから私の依頼によりファックスされてきた文書は、何と私があの男に手渡した評価表だった。金額がうまく大幅に変えてある。

成る程なァ、と思った。男、私を利用して保険金詐欺をもくろんだのだ。ケチな事をする。人の好意を逆手に利用するとは、タチが悪い。
文書には提出する市内の保険会社の名前が記入されていた。電話して事情を説明した。その男が詐欺で補ったのか、それとも無事金を握ったのか、定かではない。三年程も前の事だ。

ニューギニアで入手した珍しい刀ニ振り、鑑てもらえないか、という見知らぬ男からの電話を受けたのは、二ヶ月程も前。

「鞘の端(鐺)に小さな車輪が付いています。
よほど小さな日本人が使っていたのですネ」

馬鹿言っちゃ困る。マンガじゃあるまいし、車輪の付いた刀を引きずって歩けるか、と思ったがその男、真面目そのもの。私がホンの少し家を出ている間にやって来て、妻の手に預けて立ち去っていた。
その男の声、どこかで聞いたような気がしないでもなかった。刀は中国製の似非日本刀。確かに車輪は付いていたが、奇異をてらうだけのヒドい作り物だった。

「高い金、払わなかったンだろうネ」

数日たって連絡してきた男に、そう聞いた。
その一言で、男は刀が期待していた物ではなかった事が分かったのだろう。数日前の電話とは違う、くだけた調子で話しだしたとき、私の頭の隅で何かモヤッと芽生えかけていた小さな疑問は、アッと言う間に大きくなって、パチン、と音を立てて弾けた。
あの野郎だ。グワーバ男だ。何とまァ、ヨクモ懲りずにヌケヌケと刀を持ち込んだものヨ。それにしてもあの時の詐欺、捕まらなかったのだろうか。それとも 一、二年食らい込んで、出所したのだろうか。もしかしたら、五振りの刀自体、作り話ではなかったか。

まァネ、ム所に入ったとしても、豪州のム所は至れり尽くせり。娯楽室に図書館、スポーツジム。素晴らしい設備に加え、ワイフやガールフレンドを呼んで、 共に過ごせる時間も与えられている。私は囚人達から、空手のクラスに来てくれ、と頼まれた事もある。ム所の中、結構、自由なのだ。

現在西豪州で協議されている、囚人達に気分転換を与えよう、という議題。定期的に彼等を魚つり、ボーリング、ピクニック等の娯楽に連れ出すという。ム所という更正施設を、人権に事寄せて履き違えているのではないか、と考えてしまう。

35年も前、労働党のゴフ・ウィットラム首相が政権を確保して以来、豪州の良識は少しづつ狂い始める。豪州の将来の為に一番大切な子供の教育もその例に漏れない。体罰の禁止からエスカレートし、今では子供が気に入らないと、親や先生を訴えてもいい。

人間に権利を与える事は大切な事だ。と同時に義務と責任をも与えないと、けじめという事が分からない人間に育つ。
現在豪州の州政府は全部労働党、けじめのない、金を与えておけばいい、何が何でも人権人権の法律は、州政府の労働党政権が続く限り、まだまだ出て来るはずだ。

国民が駄目になると分かっていて、なぜと思うけれど、それが票源につながっているからだろう。このけじめのなさが恐ろしい国だ。国にけじめがなくなる と、遊び半分の犯罪も増えて来る。納税者が囚人を保護する結果になる法律。そのうち、ム所の待遇の方が良くなり過ぎて、食い詰めたりストレスがたまると、 サァ、悪い事してム所に休養に入ろう、という人間も出て来るかも知れない。

あの男、私の家に置いて行った中国製の日本刀、まだ取りに来ない。私が感付いたのではないかと勘繰っているのかナ。
それにしても、とぼけた男だ。彼なら豪州のム所に入ったら、適当にヘラヘラと楽しんでくるような気がするネ。

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