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木曜島へ真珠を採るためにやってきた日本人たち -その2-

2007年09月10日

木曜島にての一こま。ジャパニーズ・スポーツフェスティバルとある。1894年には日本人クラブの建物が建てられ、当時多くの会合やイベントが開かれた。

 

 真珠産業が盛んだった木曜島に、まだ日本が貧困だった明治時代から、「億万長者になれる」と多くの日本人がやってきたことに前号で触れました。
ただ、一番稼ぎが良かったダイバーは、収入の良さに比例して事故もかなりあったと言います。船上の補助夫、テンダーと潜っているダイバーの連絡は、一本のロープのみでした。例えば一回ロープを引くと「上昇したい」、2回引くと「空気が足りない」、3回は「ホースがたるんでいる」、揺らしながら2回引くと「危険」など、21通りもの信号がありました。
体質的にダイバーに向かなかった人や、どうしても潜るのが怖かった人がテンダーになったそうですが、ダイバーの命綱を預かり、船長でもある責任は相当なものであったでしょう。
ダイバーによって一番怖かったのが潜水病です。15メートル以上の深海へ降りると水圧の変化で血液中から窒素ガスが出ようとし、全部抜けきらないうちに引き上げられると血液中で小さな泡になり、血行障害を引き起こして麻痺や死をもたらしました。
潜水病には3段階の症状があり、軽いものは手足の神経が異常をきたして激痛に襲われるもの、次はめまい、吐き気と手足腰の神経の異常で、ひどいときは足腰が立たないほどぐにゃぐにゃになったそうです。
一番危険だったのは、45メートル以上の海底で起こるパレライスという症状で、船上で血を吐いて苦しみ、死亡することも多くありました。この症状を見た人は、「腹から胸に血の玉が上がってくる」と言ったそうです。(大正7年に直井菊松という人がイギリス海軍軍医ムーメリが編み出したガントン療法を木曜島に伝え、潜水病の恐怖はなくなります。)
死と隣り合わせの危険な仕事にも関わらず、1897年(明治30年)頃は島の人口の3割が日本人で、中には数十隻の採貝船を保有し、1800人以上のダイバーを雇って年間10万円以上を稼ぐ「木曜島のキング」、佐藤虎次郎という富豪もいました。そんな状況をよく思わない白人経営者の働きかけで1898年に制定が改訂され、採貝船の所有資格は英国人もしくは帰化人に限られてしまいます。
ただし、素晴らしい働き手である日本人は白人経営者も手放しがたく、移民制限法が制定されても密航者が後を絶ちませんでした。密航は、一ヶ月近くも船の体一つ入る程度の場所に居続けることがあり、島に着いてからも誰にも見つからないように肌を焼いて島の人のようにみせかけたりと、苦労が伴うものだったようです。
1920年代まで好調だった真珠採取ですが、1931年の世界恐慌で市場が一気に衰退。この時多くの日本人が解雇されました。そして1941年に太平洋戦争が始まると、オーストラリア政府は日本人を全員逮捕。
司馬遼太郎氏の「木曜島の夜会」によると、「豪州政府は(中略)軍艦を派遣してきて、日本人三百人を虜囚にし、小さな汽船の船底に押し込めた。暑いころで、船底に風が来ず、たちまち病人が続出した。豪州政府は木曜島の日本人を人間として見る余裕がなかったのか、豚よりもひどいあつかいだった」とあります。
戦後、オーストラリア人と結婚している人を除き、ほとんどの日本人が矯正送還されました。この頃になるとプラスチックが出回り始め、高価な天然ボタンの需要はほとんどなくなり、木曜島の真珠産業は次第に衰退の途を辿ったのです。

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ゴールドラッシュに起因するケアンズの始まり

2007年09月10日

ラッセルリバーの金鉱で金を探す人々。1890年頃。

 

 ケアンズはもともと港町として始まりました。トリニティ湾という名は、イギリスの探検家キャプテンクックが1770年に通り過ぎた時に名付けたものです。この海が注目を浴びたのは実に100年の後。1873年にケアンズから3218km離れたパーマーリバーで金が発見されてからでした。
ゴールドラッシュで賑わうこの金鉱から輸送用の港を作る必要性が高まり、政府の役人がカードウェルからエンデバーリバーまでの東海岸を探検し、開港にふさわしい場所を探し回りました。一行は、現在ケアンズのアンザック公園の向かい側に当たる場所にキャンプを張ったと言う記録がありますが、マングローブと湿地を通り抜けることができず、遠目に見えた土地に降り立つことはできませんでした。
1876年にはホドキンソンリバーで金が発見され、パーマーリバーから多くの人が流れてきました。当時、港はクックタウンにあったのですが、ホドキンソンリバーからは遠すぎました。そこで、この川からたった80kmしか離れていないケアンズに港を開いてはどうかと言う話が持ち上がったのです。
ビル・スミスを先頭に一行が派遣され、ホドキンソンリバーの金鉱の村、ソーンボローからトリニティ湾までの道を切り開くよう命じられました。この時(1876年7月)は作業を断念せざるを得なかったのですが、2ヶ月後に、今度はクックタウンからボートを使って、海路でトリニティ湾へ入って作業を続けました(現Rainforest Estateよりハイキングコースとして残っています)。
同時期、政府も積極的に活動を進め、カードウェルの警察長官シェリダンを派遣して、町にふさわしい場所を探させました。2週間の調査の後、報告書が提出され、タウンズビルから命のおりた役人が1876年10月6日にシェリダンの選んだ土地に到着しました。そして翌日、クイーンズランド州の知事だったウィリアム・ウェリントン・ケアンズから名を取り、ケアンズという村が正式に誕生したのです。

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ケアンズとその一帯に住んでいた中国人

2007年09月10日

(左)1903年頃ケアンズに移住してきたWong Su Duck一家。4人の妻、24人の子どもがいた

(右)ドラゴンダンス アボット通りにて1910年撮影

 

 1870年代、ゴールドラッシュのあったパーマーリバーにはたくさんの中国人が働いていました。金が採れなくなった後も、その多くがケアンズとその周辺に在留。1881年には、サッシュ通り(現シールズ通りとスペンス通りの間)がケアンズのチャイナタウンとなりました。粗末な小屋が並ぶこの通りに、およそ700人の中国人が暮らし、ほとんどの人々がサトウキビ・プランテーション、Hop Wah Estateで働いていました。マルグレーブロードとイシュメール通りの間、チャイナマン・クリーク近くにあったこのプランテーションは1〜2年後つぶれてしまいましたが、管理人の住んでいたマクロード通りから畑までの道は、閉鎖後もしばらくHop Wah Roadと呼ばれていました。
1880年代までには、掘っ建て小屋はなくなり、チャイナタウンにちゃんとした建物が建ち始めます。ストリートの西側の真ん中にあったのはSun Wo Tiyが所有する2階建ての大きな建物。その向かいにはSam Singの2階建ての建物。また道の両端にJoss Houseが建てられました。道沿いには中華パン、焼豚、食べ物屋などの店舗が並び、角をスペンス通り側に曲がった所にはChin Bonの仕立て屋(現Cummins & Campbellビル)があり、軽いシルクでできたスーツを売っていました。
ほとんどの中国系の店は後ろに長く伸び、右側が細かく別れていて、多くの人がそこで寝、横には男性がオピウムのパイプを吸う場所がありました。奥の部屋ではギャンブルが行われるのが常で、Fan Tan やChee Farと呼ばれるゲームが好んで行われました。
前後に籠のついた棒を肩に背負って野菜やフルーツを売る人もチャイナタウンではたくさん見られました。彼等は籠に合計で65kgほどの物を入れて運ぶことができ、歩くたびに籠を一緒に持ち上げて、肩に重みがあまりかからないようにうまく歩きながら、ケアンズの町中の一軒一軒を回って野菜や果物や、時にはpak-a-puと呼ばれるギャンブルの券をこっそり売って歩きました。
中国新年は1週間に渡って祝われ、チャイナタウンでも毎日午前6時から午後10時まで祝賀が行われました。この期間は歩行者天国で、各店ともベランダから滑車付きの爆竹を地面から少し離れた所まで下げました。約30センチごとに8個ほどのボンボン付きのふさで飾られたこの爆竹は、発火すると大きな音がなるようになっていました。爆竹が通りに投げ込まれたり、スカイロケットや花火が夜空を飾ったり、白人も店に招待されてビール、ワイン、スピリット、中華菓子、ジュースなどと一緒に中国新年を祝いました。
サッシュ通りの他に、小規模ながらカントン通り(現ドレーパー通り)とHop Wah Road(現マルグレーブロード)との角にもチャイナタウンがありました。
チャイナタウンの外でも野菜やフルーツの栽培、サトウキビ・プランテーションで活躍する中国人がいました。Lum Jimという人は、フレッシュウォータークリーク近くにあったBill Bannings’フルーツ果樹園を所有し、100エーカー程のこの土地で5人の中国人を雇って果物を栽培。レインコートや帽子をワラで作っていたと言います。1880年頃Fairview Hillんに住んでいたJimmy Ah Singは丘一帯に果樹園を持っていました。Pine Creek に一家で暮らしていたWah Dayは80才を超えた老翁で、フルーツやライチを栽培。彼の家族は現在も同じ場所(Glen Boughton)でサトウキビ畑を営んでいます。Green Hill にいたSee ChinはCSR社がサトウキビのために土地を買い上げるまで、大々的にバナナを栽培していました。
現在、チャイナタウンは姿を消してしまいましたが、白人と結婚した中国人も多く、現在も多くの一家がケアンズに暮らしています。

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シールズ通りの歩み

2007年09月10日

 今回は、シールズ通りの特集(18〜21ページ)にちなんで、この通りの歴史的な写真を中心にご紹介します。
「シールズ(Shields)」という名は、ジョージタウン、クックタウン、ケアンズでクイーンズランド・ナショナル銀行のマネージャーを務めたW. Tennant Shields氏からとったもので、この通りはケアンズの町が出来た時から中心部の一つでした。
現在は、レイク通りとの交差点がシティプレイスという広場になっており、憩いの場にもなっています。

写真1…シールズ通りからエスプラネードを望むショット。1890年撮影。ケアンズという町ができて間もなくの頃です。湿地帯だった当地には小さな沼のようなパッチがたくさんあったので、埋めて地面を均すため、エアログレンからシェリダン通り→シールズ通り→アボット通りと、砂利を運ぶトロッコが走っていました。写真の右手は現在アートギャラリーの建物が建っている場所です。左手にトロッコの線路が写っています。
写真2…レイク通りとシールズ通りの角。1920年代終わりに撮影されたもの。現在はシティプレイスになっている場所です。

写真3…1930年に撮影された、カーディーラー〜Estate HS Williams。この屋根は今も同じものが使われています。今はカフェやお店になっていますが、70年近く前は車を売っていたんですね。

写真4…1926年撮影。第一回ANZACデーの集い。1925年、アボット通りとシールズ通りの角に、兵士記念塔が建てられました。(現在、この塔はエスプラネードのRSLビルの前に移動されています)。左手に見えるのは、インペリアルホテルという建物です。

写真5…クラウンホテルの初代マネージャーを勤めたスパーリング一家。1925年撮影。現在のホテル建物は、1929年の火災で焼失した後再建されたものです

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ケアンズの目抜き通り

2007年09月10日

1.Harris Bros. にて1936年撮影。現在はマルグレーブロードにあるが、当時は107アボット通りに店を構えていた。1931年創業。クイーンズランド州でたった2軒しかない、家族経営のデパートメントストアとして人気があった

2.アボット通りにあったBoland’s General Store。1890年代撮影。アイルランドから1882年にやってきたボーランド氏は、日用品の注文を受け配達をするこの店から始め、後に現在もランドマークになっているボーランドセンターを建てるほどビジネスを発展させた

3.コミノスカフェ店内。ミルクバーセクションにて1938年撮影。当時は100人以上のスタッフが働いていた。1906年にこのカフェを始めたのは、ギリシャからの移民、コミノス氏。カフェの売上の1%を消防隊に寄付するなど、名誉市民としても名高かった。1951年にカフェを閉じた後も家族経営は続き、カフェだった場所にオーキッドプラザを建設

4.Mellocks Mens Wear Shop前(レイク通り)。1956年、大雨の後に撮影。父親が創業し、後に継いだ息子のメリック氏による店は大繁盛。当時のメンズファッションの最先端だった。(店は現在アボット通り、ウールワース隣)

 

 ケアンズにショッピングセンターができるまでは、シールズ通り、レイク通り、スペンス通り、アボット通りの一画が「ゴールデンブロック」と呼ばれ、市民の買い物の中心地でした。
1950年代の地図を見ると、ニュースエージェント、宝石店、銀行、薬局、カフェ、デリカ、ビューティーサロン、ミルクバー、本屋、服屋、テーラーなどが軒を並べていたのがわかります。
レイク通りに店を構えていたのは、高原の町アサートンに大きな店を出していたMazlin一家。1922年にケアンズに移り、第2号店を始めました。
1922年11月24日にオープンしたこの店を、当時のケアンズポストは次のように描写しています。「ケアンズ市民、そしてビジターにとっても、とても素敵なファッショナブルなショッピングの場。(中略)メンズ、レディス、子供服と最新ファッションが揃う」。
ちなみにこの店のモットーは、階級に関係なく誰でも心地よいサービスを受けられる店、だったそうです。Mazlin一家が購入し、住んでいた家は、現在も379 Draper St.にあります。
店は順調でしたが、1927年2月にサイクロンに見舞われ、建物が大損害を受けます。もっと安全な場所へ移ろうと決め、シールズ&レイク通り角(現在は一階がRockmansという服屋さん)の土地所有者、Lannoy氏と売買交渉を始めました。この土地は、よく水がたまり、1920年始め頃の一時は牛の販売場でした。
結局、Lannoy氏が建物を建て、Mazlin社にリースするということで話がつき、現在も姿が残っている2階建ての建物が造られます。(当時、2階は瀟洒なダンスホールでしたが、第二次大戦後、Mazlin店のストック置き場になり閉鎖します。)
オーク材がふんだんに使われた、高級感漂うインテリアの店内は手の凝った天井、中2階があり、服や靴、コスメティックなどが売られていたそうです。
1959年にこの店は、現在も続くRockmansに代わり、インテリアもガラリと変わりました

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木曜島へ真珠を採るためにやってきた日本人たち 〜その1〜

2007年09月10日

1.真珠採取船 (Luggerと呼ばれていた)は、1883年(明治16年)には木曜島に200隻以上あった。写真は、日本人所有の大黒丸

2.仕事を終えた潜水夫。酸素ボンベがなかった当時、ホースでつながれたダイバーのヘルメットに船上からポンプを使って空気を送った。1913年に自動ポンプが開発されるまでは手動だったので、空気が途絶えるという事故が起きたり、スクリューでホースが切断されてしまうこともあった。潜水服だけでも、水中で浮力をつけても40kgの重さがあったと言う

3.木曜島に残る日本人の写真

4.真珠採取船の船上の様子。大きな白蝶貝が山積みにされている。ダイバーに空気を送ったり(手回し送風機と呼ばれる)、真珠貝から真珠を取り出す作業を経験しないと、ダイバーやテンダー(命綱持ち)にはなれなかった。

 

 木曜島という島をご存じでしょうか?ケアンズから北北西に793kmにある面積3㎢ほどの小島です。ここに、明治中頃より多くの日本人が真珠産業のために渡ります。
1869年に、ナマコの漁場を探していたバナーという人が原住民の真珠細工を見て、真珠採取を閃いたのが木曜島での真珠産業の始まりと言われます。
採れたのは主に白蝶貝で、大きいものは20cm以上、殻が厚く中側が光沢のある銀白色で、洋服の高級ボタンなどに用いられました。中には、真珠玉を含むものがあり、貴重な副産物でした。
最初はマレー人、現地住人などが貝を採る潜水夫(ダイバー)を勤めましたが、1879年(明治12年)頃から日本人の出稼ぎが増えていきます。日本人には「精力と成功への強い衝動、および賃金を得たいという熱望」が見られる、という報告もあり、白人経営者は競って日本人ダイバーを集めました。
1882年は、和歌山県出身の中山奇流という人が卓越した潜水技術で名を上げ、自らの出身地和歌山から後継者を呼び寄せたので、ダイバーは和歌山県出身者の独壇場となります。
1883年になると、豪州真珠会社支配人ミラーが日本政府と交渉し、横浜の潜水業者を通じて、初の正規契約労働者として37人を団体移民させました。
当時の契約は「3年契約、労働時間は日の出より日没まで。日曜、祭日、悪天候日は休業。支度料30円貸与、病気の際は入院無料、往復船賃雇い主負担」というものでした。
潜水夫という仕事は、潜水病、窒息、鮫の奇襲など、死と隣り合わせであっても、人々を惹きつけて止まなかったようです。『木曜島の夜会』という小説を書いた司馬遼太郎氏は、この理由を「金への執着」と説明しています。
なにしろ、貝を採るダイバーは、当時小学校教員の年収が100〜130円、農民の賃金が15〜20円の時代に、約1200円、命綱を預かるテンダーという職の人でも350円の収入があったと言われ、かなりの高賃金だったのです。
1897年の段階では、木曜島の真珠関係者1500人のうち、900人は日本人で、日本人所有の採取船も30隻を超えていました。(次号に続く

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ナマコ

2007年09月10日

1.トレス海峡のウオリアー島で、ナマコを処理する地元島民

2.グリーン島を出発したナマコ漁船。1931-32年

3.1890年に発行されたクイーンズランド州の産業報告書にも、ナマコのことが記載されている

 

 ケアンズが正式に港として認定されたのが1876年。その後、ファーノースと呼ばれるこの地域一帯には、金、木材、砂糖、鉱山など様々な産業が栄えました。
が、実はそのずっと前から、ここには知る人ぞ知る産業があったのです。
それが、ナマコでした。グレートバリアリーフに囲まれた温かなケアンズ近郊の海は、中国で買い手に事欠かないナマコの産地で、古くは1600年代からインドネシア人が危険を犯してまで当地に赴き、ナマコを捕っていたという記録があります。
1803年8月17日、オーストラリアの海岸線を海図に記していたマシュー・フリンダーズの船がリーフで座礁し、その際に乗組員がナマコを発見。翌年に捕獲を始めました。
また、ケアンズという町が興る約50年前、1827年には、10トンものナマコがティモールのKupangで最高値で売られたと記されています。

グレートバリアリーフのほとんどの場所と海岸線沿いで捕れるナマコは、新鮮に保つために、捕れるとすぐにおろされ、内蔵を取ってきれいにすると燻されました。
この臭くて人が嫌がる仕事は、安くで雇われたアボリジニやトレス海峡の島民たちが担当したそうです。
当時はフィッツロイ島やフランクランド島など、グレートバリアリーフの島々にナマコの処理場がありました。
当時は観光客が来ることもなく、ひっそりとしていたグリーン島に、J.S.V. Mein社によって、小工場が作られたのは1858年のこと。
1873年、1874年には白人スタッフがアボリジニに殺され、船を奪われるなど、いくつかの悲劇に見舞われてしまいます。
原因ははっきりしませんが、アボリジニ労働者に対する不当な扱いが殺人につながったのでは、という説があります。
この時のナマコの漁師の中には、ヨーキーズノッブの名前の由来となった、イギリス、ヨークシャー出身の、通称ヨーキーがいました。グリーン島の世話人として知られた彼は、後年、グリーン島でアボリジニに殺された幽霊の恐い話を人々に語ったと言われます。
事件もあり、グリーン島のナマコ工場の業績はその後もあまり振るわなかったようですが、後年、タウンズビルという町の名前になったタウンズ船長が引き継いで、ニューサウスウェールズ州に住む中国人への商売を始めて成功を納めました。
その後ナマコの価格は更に上昇し、中国や香港への輸出が始まりました。
中でも13隻の船で450人もの人を雇っていたクックタウンが産業の中心地となり、1881年からの2年間の年間輸出量は3万パウンドにも及んだそうです。
20世紀になると、政府が先住民の雇用や、価格について規制を設け始め、ナマコ産業は次第に静かになっていったのでした

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第二次大戦中のケアンズ

2007年09月10日

1.水陸両用車が訓練を行ったトリニティビーチ。1944年。

2.第一次大戦後にケアンズ、アボット通りで行われた平和行進に参加した日本人と中国人。約20年後にオーストラリアと闘うことになるとはこの時は夢にも思わなかっただろう。

3.ニューギニアで行われた降伏調印式に向かう足立将官。1945年9月13日撮影。

4.Morataiに向けてケアンズを出港する兵士たち。1945年4月12日。

 

 8月の終戦記念日にちなんで、今回はケアンズが第二次大戦中どのような様子だったのかについてお話します。
1939年9月3日、オーストラリアが対ドイツの戦争に突入したというラジオ放送が流れましたが、クイーンズランド州北部の人々が戦争に関して不安を抱き始めたのは、1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃し、翌1月21日にニューギニアに爆弾を落とし始めた頃からでした。
海を渡ってすぐのニューギニアが攻撃されたことで、日本軍がオーストラリアに上陸するのではないかという現実味を帯びた恐怖が人々を襲ったのです。
その恐怖心は、1942年2月15日、日本軍がシンガポールを落とすと一層強くなり、車に家財道具をできるだけ詰め込んでブルースハイウェイを南下、ブリスベンやシドニーへ避難しようとする人が後を絶ちませんでした。ケアンズに持っていた家や土地をたった50パウンドで売ってしまったという記録もあり、パニックぶりがうかがえます。学校も閉鎖され、ケアンズと周辺は闇の中にいるような静けさだったと言います。
その後、木曜島に海軍基地が、ケアンズにもHMASキュランダと呼ばれる基地が置かれました。エッジヒルにあるタンクスは、当時、燃料を溜めておくために造られたものです。
3月までに東南アジアで亡くなったオーストラリア兵士は3万人を超えており、ニューギニアやその隣島から闘争で疲れ果てた兵士や怯えた市民などが、クックタウン、ケアンズ、イニスフェイルに突如、船で押し寄せました。
3月、日本軍がまさにニューギニアのポートモレズビーに上陸するところでしたが、中近東から帰ってきたAIF軍がどんどん到着したことで、人々の不安は少し和らぎます。陸軍キャンプがケアンズやテーブルランドなどに置かれ、ケアンズからはRAAFカタリーナの飛行中隊が活動を開始。兵士はニューギニア戦に備えて訓練を続け、沿岸警備隊に支給品を落下させる飛行機が徘徊、パトロールを続けました。
しかし、3月17日にフィリピンを引き揚げ、太平洋南西に新たな日本軍攻撃基地を作るというルーズベルト米大統領の命を受けたマッカーサー総帥がダーウィンに到着してからは事態が一変。翌月からケアンズ地区にも多くのアメリカ軍兵士がやって来ました。
それまでほとんど使われていなかった鉄道や港がめまぐるしく作動し、道や滑走路を造るためにトラックやトラクターが走り回るように。真珠の採取船までが駆り出され、島々へ物資を運びました。ガルフ地区やケープヨーク半島の牛10万頭を、日本軍が上陸して食べないようにと1600kmも南に運んだという記録もあります。
ケアンズの港は太平洋へ向かう船への重要な物資供給の港でした。マリーバは空軍基地が置かれ、米軍兵2000人が居留していたゴードンベールでは、ホテルを米軍病院に変更したりしました。
5月の珊瑚海戦の後は人々も落ち着き始めます。海戦は引き分けと見なされましたが、とにかく日本軍がオーストラリアに上陸するのを防げたからです。6月の第一週に、日本海軍はミッドウェイ海戦で終焉を迎えました。

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ケアンズ近郊の鉱山

2007年09月10日

1.船積みのためCroydonのニューサウスウェールズ銀行を出発する一行。ゴールドを積んだ箱が見える

2.ゴールドを探す老人

3.Chillagoeの銅の精錬所の様子

 ゴールドラッシュで栄えたファーノース地区ですが、実は金だけでなく、銀、ウォルフラム、鉛、半貴石、ダイヤモンド、ルビー、サファイア、ガーネット、トパーズなどの貴石も採れる他、昔は各地で鉱山の町が栄えていました。
当時、金など何かを採掘するときは政府に申請して、「クレーム」と呼ばれる一定の区画だけで作業することが定められており、好きな所を掘ってもいいということはありませんでした。
1885年、パット・モロイという人が、丘の上で行方知らずになってしまった牛を探している時、偶然に銅を豊富に含んだ緑色の石を発見。集めた鉱石をポートダグラスから海外へ船で送っていましたが、4年間くらい経って銅の市価が下がってしまったのと同時に、彼のクレームを手放します。
この後、2人の男性がこのクレームで作業を開始し、後にメルボルンの会社に6000パウンドで売却しました。
ところがこの会社が利益を出せなかったため、ジョン・モファットという事業家に現在Mt. Molloyと呼ばれるこの土地が売り渡されました。
モファット氏はこの後、マウントモロイ会社を設立しましたが、精錬所は1909年に閉鎖に。
一方、Mt. Molloyの約28km北にあるMt. Carbineでは1890年代よりタングステンが採掘され、多くの人が働いていました。タングステン鋼などの合金や、電球・熱電気管のフィラメントなどに用いられるこの金属はヨーロッパでの需要が高く、利益の高いものでした。ジョン・モファットがMt. Carbineを買い取った後は、200〜300人の従業員がいたと言います。  Mt. Carbineの北西、モスマンや周りの海を見渡せるMt. Spurgeonでは1885〜1887年に、スズが発見。
また、1880年代にはMontalbionで銀の鉱山が栄え、スズで一世を風靡したハーバートンに次ぐ主要鉱山地となります。全盛期はホテル7軒、店、病院もあったこの町ですが1899年に精錬所が閉鎖になると、器材はマウントガーネットに移され、町は衰退。完全に町が機能しなくなると、1000人はいたという中国人の農民たちは近辺に散っていきました。
自然と調和しながら長くその土地で暮らしてきたアボリジニたちは、白人人口の著しい増加を止めようとしたけれど、無念にも彼等の社会は破壊されてしまいました。
1911年頃には主要な鉱山は全て開かれ、生産量もピークを迎えましたが、今ではかつて栄えたこれらの町の多くはその面影もありません。

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探検家クリスティ・パーマーストン

2007年09月10日

当時の探検は昔ながらの暮らしを続けるアボリジニたちのいる山間にも入っていかなければならなかった。写真は1895年撮影の熱帯雨林の部族。

 

 クイーンズランド州北部には多くの探検家がいました。中でもクリスティ・パーマーストンは、現在もケアンズ高原のレイベンスホーとイニスフェイルを結ぶハイウェイにその名を残す、歴史に名を刻んだ探険家です。
イタリア人の父親とイギリス人の母親の間に生まれたと言われ、その一生は謎に包まれています。
彼のよく知られている業績の一つには、金が発見された内陸のホドキンソンから海岸線へ抜けるトレールを探したことがあり、200パウンドの賞金を得ています。(ただしこの時は指名手配中でお金を受け取ったのは後のことでした)。ポートダグラスへ続くこの道は、1926年にギリースハイウェイが開通するまでは、ケアンズ高原へ行く主要道でした。
1800年代後半当時は、熱帯雨林の茂る山々と海岸線を行き来する道がまだなく、パーマーストンのような探検家がトレールを開拓していたのです。
パーマーストンは現地のアボリジニの言葉を話し、彼等と一緒に狩りをしていたとも言われ、ボディガードとしていつも数人のアボリジニを連れ、一部の人からは恐れられていました。
それでも危険が伴う探検中、ジャングルでは靴を脱ぎ、自分の足跡がアボリジニのものと同じであるよう気を使ったと言います。ポンポというアボリジニの少年は1度となくアボリジニに殺されそうになったパーマーストンを助け、後にアボリジニの毒矢によって失明しかけた時もよく世話をし、最も信頼おけるガードでした。
パーマーストンはまた、バートルフレア山の高さを計った最初の人であり、錫が発見されて多くの鉱夫たちが移り住んだケアンズ高原のハーバートンと、マリリアン港を結ぶルートを開拓したり、ポートダグラス開発協会の要請で、ポートダグラスやデインツリーエリアを探険したり、ポートダグラスを主要港とするのにも一役かっています。(ちなみに1877年、ポートダグラス港が宣誓されると、ケアンズはほとんど過疎地となってしまいます。)
また、政府がケアンズ高原と海岸線を結ぶ鉄道を建設することを発表した時、ポートダグラスでもマリリアンでもなく、ケアンズに駅を作るべきだと強調。1882年4月から8月までポンポ1人を伴って一帯を歩いたうえでの意見でした。「山間を抜ける自然のルートはなく、高い技術を伴うエンジニアリングが必要になるだろう」とレポートしています。この探険の直後、信頼していたポンポが死に、深い悲しみにくれることとなります。
彼の意見通り、ケアンズと高原を結ぶ鉄道工事が始まった1886年、パーマーストンは結婚し、タウンズビルでホテルを経営、その後冒険心がおさまらず、ボルネオへ赴き、46歳の生涯を終えました。

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ケアンズとサイクロン

2007年09月10日

1.ウオーフストリートのジャック&ニューウェルビルディングもサイクロンの被害に。1927年

2.イニスフェイルで大被害を出したサイクロン 1918年

3.1927年にケアンズを襲ったサイクロンで破壊された建物

4.サイクロンによる水害

 ケアンズ地区では雨期にサイクロンがやってくることがあります。
写真2で紹介しているのは、1918年に当地を襲ったサイクロンの様子で(このサイクロンには名前がありません)、イニスフェイルで37名、周辺地区で40〜60名の死者が出、イニスフェイルの95%の建物が破壊されたという、オーストラリア最大の自然被害の一つに記録されています。
その後、カテゴリー3のウィンフレッドが1986年1月にケアンズ地区を遅い、家屋50件、死者3名が出ました。
最近では、1997年3月のサイクロンジャスティンが記憶に新しく、死者7名が出ています。
1909年以降、グレートバリアリーフは150以上のサイクロンに見舞われています。地核変革の時、グレートバリアリーフはサイクロンによって形作られたとも言われ、グレートバリアリーフが多くのサイクロンをくぐってきたことがわかります。
こちらでは、昔から小さなクロアリ、クッカバラ(笑いカワセミ)が朝に大声で鳴くこと、そしてカエルが鳴き始めると、近いうちにサイクロンがやってくると言われています。

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悲劇のパンドラ号 〜その1〜

2007年09月10日

HMS Pandora号。船長35m、516トン。1790年11月7日、タヒチの反乱軍を捕らえるためにイギリスを発った。

 

 グレートバリアリーフ外れの海底の砂中深くから、200年以上前に沈んだ英国軍艦パンドラ号が発見されたのをご存知でしょうか。
1792年8月29日、暗礁で猛烈な嵐に遭遇し、艦長以下、乗員126名を乗せたまま座礁した悲劇の船…。
発見当時、海洋考古学者やダイバーたちは、望遠鏡や銃の弾丸、皿類、海中時計などの遺品、そして人骨に目を見張ったと言います。(パンドラ号については、タウンズビルにあるMuseum of Tropical Queenslandに当時の船の再現や遺品など、詳しい展示があるので、興味がある方は訪ねてみて下さい)
そのパンドラ号を語るには、戦艦バウンディ号の反乱者たちの物語に触れないわけにはいきません。
 
今まで5回も映画化されているバウンティ号の反乱。メル・ギブソンとアンソニー・ホプキンスが主演した1984年の豪州映画「バウンティー」が記憶に新しいところです。
そもそもバウンティー号は、タヒチからパンの木の実(Breadtree)を積んで、英国領カリブに運ぶという使命で、英国を出航しました。1787年12月のことです。
英国政府は、植物学者ジョーゼフが発見したパンの木の実をカリブで育てることを考慮したのです。(彼は、20年前にキャプテン・クックの最初の航海に参加してタヒチに行ったことがあり、この植物を加熱するとパン生地のようになることを知っていました)
当時アメリカの革命によって、ニューヨークとフィラデルフィアの港から小麦粉の積み出しが出来なくなっており、カリブ海の農園の奴隷が食料に窮していたためです。
クックとの遠征後に貴族に叙されたサー・ジョーゼフは、カリブの大農園の所有者であり、科学アカデミーの会長でもあり、そしてバウンティ号遠征の主催者でもありました。 バウンティ号は、キャプテン・クックのエンデバー号より小さい215トンで、植物を運ぶ装備を備えるために6ヶ月もかかって改装されました。船内は狭く、船長だけに個室の船室があり、将校にはありませんでした。
この船のキャプテンに任命されたブライ中尉は、ジェームス・クックの3度目の航海にも同行した経験豊かな航海者でした。
 副官にはフレッチャー・クリスチャンが任命されました。2人はすでに何回かの航海をいっしょにした仲で、ブライの性格は短気、対してクリスチャンは乗組員に親切だったと言います。   
バウンティー号は南米のホーン岬を越えてタヒチに行き、パンの木の実を積んでカリブ海まで西へと航海する予定でしたが、ホーン岬で激しい嵐に遭遇したため、アフリカと南オーストラリアを経由する長い航路を選びました。
10ヶ月の長い航海を経て、タヒチ島に到着したのは1788年10月26日のことでした。
  タヒチでは、パンの木の実を集めるために半年間滞在する必要があり、その間船員たちは、辛い航海とは対照的なタヒチの生活を楽しみました。船員の多くはタヒチの女性と付き合い、副官のクリスチャンでさえ、タヒチ風の刺青を入れたほど現地に馴染んでいきます。
一方で、ブライ・キャプテンは船員の風紀を律するため、彼のやり方に反対する船員たちを鞭打ったりして屈辱を与えました。
のんびりしたタヒチでの暮らしへの憧れと、ますます厳しくなるキャプテンによる規律が反乱の引き金となっていきます。
そして、再び狭い船室のバウンティー号に乗り、タヒチを出発する日がやってきました。積み込んだ植物のため、水の配給が制限されたり、ブライ・キャプテンがますます権威を振るう中、船内は緊張が高まっていき、バウンティー号がタヒチを出航して24日後、ついに反乱が起こります…。

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悲劇のパンドラ号 〜その2〜

2007年09月10日

 前号で、タヒチからパンの木の実を積み出す命を受けて、イギリスから戦艦バウンディ号が派遣されたことに触れました。楽園のようなタヒチでの暮らしを後に、再び航海に出た24日後の1789年4月28日早朝 キャプテン・ブライによる規律の厳しさに反発した副官、フレッチャー・クリスチャン以下8人の乗組員がバウンディ号を乗っ取ります。
  ブライと彼に忠実な乗組員19名は、食料と100リットルの水と六分儀とともに、たった8mの長さのボートに乗せられて、海に放たれました。
 ブライはその後、インドネシアのティモール諸島へ6,500kmもの航海を42日間かけて行うという、この時代では考えられないような偉業をなしとげます。 犠牲者は、途中の島で原住民に殺された1人のみ。
着陸したブライは、イギリスの海軍省に訴え、反乱者を逮捕するための24隻のカヌーが南太平洋に送られました。パンドラ号がその船です。
ブライはその後イギリスで、船を失った罪で軍法会議にかけられましたが無罪となりました。
  一方、反乱者たちは バウンティー号を乗っ取った後、逮捕されないために、海図に載っていない未知の島を探す必要がありました。
彼らはタヒチ島から南450kmにあるツブアイ島に到着し、フレッチャーはここに住むことに決めて、一旦タヒチ島に戻って家畜を積み込んで植民地を造りました。
ところが島民たちの反乱に遭い、投票によって、全員タヒチ島に帰ることに。
こうして1789年9月、バウンティー号はタヒチ島に到着し、全員が6ヶ月を過した女性と家族の許に戻ったのです。
しかし翌日の夜、9人の乗組員がバウンティー号に食料と19人の女性と9人の男性と1人の赤ちゃんを乗せ、未知の安全な島を求めて秘密裏に出航。
タヒチ島に残された14人の水夫は反乱の2年後にイギリスから彼らを探すために到着したパンドラ号に簡単に捕まってしまいました。
  囚人を載せた船は1971年の5月8日にタヒチを出、14人の囚人は船に作られた檻(パンドラの箱)に入れられました。バウンティ号と反乱者の捜索は3ヶ月間続けられましたが、探し当てることができず、船は英国に向けて航海を続けます。そして、1792年、キャプテンクックのエンデバー号が遭難しかけたグレートバリアリーフで、嵐のために遭難するという悲劇が起きたのです。
遭難した時、牢番が最後の瞬間に鍵を開けて囚人を救助しましたが、鎖を解くことが出来なかった4名が死亡しました。
生き残った者はブライ同様、ボートでインドネシアのティモールに到着し、裁判のため英国に送られて、4名が無罪、3名が釈放、3名が絞首刑となりました。
さて、バウンティ号に乗ったフレッチャー・クリスチャンと同行者たちはその後どうしたのでしょうか?
…タヒチから南東に2,500kmも離れたピットケーン島に住んでいた、バウンティー号の反乱者の最後の生き残り、ジョン・アダムスによると…一行は無人島を探して4ヶ月間もさまよった後、ピトケーン島に到着。1790年の1月23日にバウンティー号を燃やしてしまったそうです。
反乱者たちにはそれぞれ女性がおり、3人の女性は6人のポリネシア男性にあてがわれて奴隷となりました。最初の3年は集団生活は順調にいっていたのですが、ある女性が亡くなった時、その代わりをポリネシア男性と一緒にいた3人の中から選ぶことになったことがきっかけでポリネシア男性が虐殺を始め、フレッチャー・クリスチャンを含む5人が殺されてしまいました。
  しばらくして、ポリネシア人は再び女性のことで殺し合いを始めます。残った4人の反乱者と10人の女性、子供たちは平和に暮らしていましたが、5年後に1人は崖から飛び降りて自殺、1人は頭がおかしくなり、喧嘩の正当防衛で殺され、1人は喘息で亡くなりました。
最後の1人の生き残りとなったアダムスは、バウンティー号から持ち出した聖書で14人の子供たちに宗教を教え始め、島で暮らして39年後の、62才で亡くなりました。
イギリスから送られた船員のほとんどが監獄出身者であった当時の船旅の緊迫、人間のモラル、と興味のつきないこの事件… パンドラの箱での囚人の悲愴な船の旅の様子がタウンズビルの博物館で復元されていますので機会があったらご覧になってはいかがでしょうか。

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ポートダグラス

2007年09月10日

1.スズをポートダグラスに運び込む運送人/1890年

2.1910年のマクロッサンストリート。今は目抜き通りとして栄えるこの道も当時は寂しげでした

3.サトウキビの道路の輸送を反対するポスター/1958年。モスマンで採れた砂糖は、ポートダグラスの港から積み出されていたのですが、この頃車での輸送の需要が高まっていました。「港が使用されなくなると、ゴーストタウンになってしまう」という反対ポスターです

4.ハーバートンに向けてポートダグラスにあったColleys Hotelを出発する荷馬車/1887年

5.埠頭から見たポートダグラスの町並み/1933年 

 

 今ではビーチリゾートとして、観光客で賑わうポートダグラス。
歴史を振り返ると、ケアンズと競ってきた町なのです。
そもそもは1870年代に、クリスティ・パーマストンという探検家が、Hodgkinsonの金鉱から海岸線に向けて続くトラック(道)として、ポートダグラスを発見したのが始まりです。(内陸で採れた金を港から輸送する必要があったため)
そのすぐ後、荷物の運搬人、鉱夫、開拓者や船などがポートダグラスに移ってきました。
ケアンズが公式に認定された15ヶ月後の1877年12月1日、入港地として宣誓。クイーンズランドの州首相ダグラス氏にちなんで、町はポートダグラスと名付けられました。
港の人気が高まり、多くの政府の役人がケアンズから移ってきました。
同じく町としてケアンズと競っていたスミスフィールドは、1878〜1881年の洪水やサイクロンで全滅しています。
1880年代、ポートダグラスは内陸の鉱山業の煽りを受けて栄え、物資をとぎれなく港から積み入れたり積み出していました。
この頃の人口は8000人に達し、1879年までには町中にホテルが20軒以上もあったと言います。
港としての人気を奪われたケアンズですが、その頃、サトウキビ産業が栄え始め、少しづつ活気が戻り始めていました。
当時のサトウキビプランテーションの農園主や会社は、ケアンズ地区かそれ以南の地区に興味を持っており、イニスフェイル(当時はジェラルドトンと呼ばれた)という新しい町ができたほどの勢いだったのです。ただし、同じ頃、ポートダグラスの北にあるモスマンに新たなサトウキビ農園が造られつつありました。
金鉱からの物資輸送、港、サトウキビ …更に1880年代には、ケアンズとポートダグラスは、鉄道の権利についても争いました。 どちらもアサートン高原のハーバトンから伸びる鉄道を敷きたかったのです。
この争いは結局ケアンズが勝ち、その後ポートダグラスの人口は減っていきました。1900年代中頃の人口はたったの100人だったと言われます。
ポートダグラスは、静かな時を経て、1960年以降は観光で注目され始め、次第に今のような町になっていったのでした。

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第二次世界大戦とケアンズ地区

2007年09月10日

1.ヨーキーズノブに着陸した飛行機から降り立つ兵士たち(1943年)

2.アボット通りからウオーフ通りに向けて行進する兵士。この後木曜島へ向けて出発した(1914年)

3.40mm対空砲の前で。エスプラネード

4.エッジヒルの司令部にて。ガスマスクを着用するジム・ウーリー軍曹。ガスを散布される危険のあった当地区では毎週サイレンによる避難訓練が行われていた。

ほとんどの家々、学校、店の庭にはたこつぼ壕があった

5.戦勝と終戦を祝う人々。インペリアルホテルの前にて。ビールを回しているのがわかる(1945年8月)

 

 1941年12月、日本の真珠湾攻撃で幕を開けた太平洋戦争。
1月21日、海を渡ってすぐのニューギニアが攻撃されたことで、日本軍がオーストラリアに上陸するのではないかという現実味を帯びた恐怖が当地区の人々を襲いました。
ブリスベンやシドニーへ避難しようとする人が後を絶たず、学校も閉鎖されて、ケアンズと周辺は闇の中にいるような静けさに。1万5千人いた人口が7000人に減ったと記録されています。
モスマンに爆弾が落とされたり、グリーン島やヤラバーで日本軍の潜水艦が目撃されたり、地雷が発見されたりと、敵国の上陸の恐怖は日増しに強まりました。
マリーバやケアンズの空港からは珊瑚海戦に向けて飛行機が飛び立ち、ケアンズ高原(アサートン高原)は、30万人もの兵士が国中から集められ、連合軍としては最大規模の戦闘訓練所が設置されました。
また、トルガの近くのロッキークリークには6万人が利用した南半球最大の軍事病院があり、 現在は観光スポットでもあるレイクバリーンも、兵士達の軍事病院でした。
ケアンズ高原に病院を置くため、当時ただの山道だったキュランダレンジロードは、ブルドーザー1台、ダイナマイト、そしてシャベルと人力で舗装作業が行われます。(現在、キュランダへ行く途中の見晴し台の名になっているヘンリー・ロスは当時の監督官の名です)
キュランダの学校にはキャンプが張られ、ボトムパブにも医師や歯科医などが勤務していました。
元陸軍のある兵士は、キュランダからマリーバへ、そして帰着後トリニティビーチやヨーキーズノブでの水上飛行機の着陸訓練の後、またキュランダへ戻るといったハードな日々を回想しています。
1945年、広島の原爆投下を受け、日本が降伏宣言したニュースが公式に流れると、ケアンズの町は喜びに沸き返ったそうです。
通りには人々があふれ、隣にいる人と手をつないで徘徊し、心行くまで喜び叫んだ、と当時の新聞に書いてあります。
今年は終戦60周年記念。戦勝記念を祝い、ケアンズ高原には元兵士が国中から集まりました

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ケアンズとパブ

2007年09月10日

1.1878年のアボット通り。ケアンズという町ができて2年後、人々にバーバリーコースト(粗野なエリア)と呼ばれていた頃の貴重なショット。Boughton’s Hotel, Skiffins Hotel, Leichhardt Hotelといったパブが並んでいる。

2.1903年当時のアボット通り。アボット通りは最近までパブが立ち並ぶ通りだった。

3.ケアンズ鉄道開設工事中に作られたキャンプオーブンクリークホテル(1888年)。ほとんど手作業で山間にレールを敷く過酷な工事の骨休みの場所になっていたに違いない。

4.コートハウスホテル1950年代撮影

5.ドレスアップした人々が庭園に集っている。ハイズホテル。

 金港として選ばれ、ケアンズという町が正式に公認された1876年当時、鉱山で栄えた周囲の町(チャーターズタワー、パーマ−リバー、ホドキンソンリバー、クックタウン)を合わせると、アルコールを売る店が200軒以上あったと言われます。
この数は、女性や子どもも含めた36人に1軒の割合というから驚きです。
当時のパブはかなりラフで、殺人事件が起きることもありました。
ただ、金やスズの鉱山が衰えを見せ始めるとともに、定住者が増え、パブの様相も変わってきました。旅人の宿泊所であったり、人々の集まる場所として、またモダンなホテルとして重要な役割を担うようになっていったのです。
実際、パブというのはPublicからきた俗語で、人々の集まるこれらの場所は、正式にはホテルと呼ばれます。長い間、オーストラリア人の中では、単にお酒を飲むだけでなく、もっと広い意味で人々が集う場所として根付いています。
ケアンズという町ができた頃、当地を訪れていたシドニーモーニングヘラルド紙の記者は、「ケアンズのお店の数とホテル(パブ)の数はほとんど同じだ」と綴っています。
残念なことに、当時のパブのほとんどは1900年代の初めに消えてしまいました。
が、ほったて小屋的だったそれらのパブに代わり、次第にエレガントな建物が建てられ始めます。
例えば、1906年には、人々に「デラックス」と形容された“ストランドホテル”が建てられ、フランスにも劣らないと言われた食事を出し、重要なパーティー会場に。
そして現在もシティプレイスに残っている“ハイズホテル”も多くの集いが催される欠かせないホテルでした。
また、スペンス通りとレイク通りの角に1909年に建てられた"セントラルホテル"も、エレガントな造りで人気がありました。(現在も建物は残され、2階はナイトクラブになっています)
1924年には、スペンス通りとエスプラネードの角にホテルパシフィックが建てられ、当時ケアンズを訪れたほとんどの人はストランドかパシフィックに泊まったと言われるほどの人気を博しました。
けれども、1960年のはじめにストランドホテルが、1976年にパシフィックも取り壊されました。現在、この場所にはパシフィックインターナショナルホテルが建っています。
ケアンズの町の中には、ところどころに昔の面影を残す建物が残っているので、開拓時代から戦争前まで、人々をつなぐ重要な役割をはたしてきたパブの様子を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

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アボリジニの人々

2007年09月10日

1.ボディペインティングを施している最中のアボリジニの人々

2.ヤムを掘る男性 1908年ダンク島にて

3.葉っぱでできた小屋の前で。色々な用途で使われていたディリーバッグを編んでいる女性たち

4.キングオブケアンズのプレートを下げたYe-i-nie。1905年。白人に対して協力的だったアボリジニの人は、地区ごとにキングと称され、選ばれた証拠にキングプレートが与えられた

5.ケアンズ地区の熱帯雨林に住んでいたアボリジニ部族。コロボリー前に撮影した一枚。1895年

 

 アボリジニはどこからいつやってきたのか、はっきりしたことは明確ではありません。が、研究の結果、4万年近く前からオーストラリア大陸に暮らして来たという説が一般的です。
ケアンズ周辺で一番古い遺跡は、チラゴー(Chillagoe)のWalkunder Arch Caveという場所で、およそ1万8千年前のものとされています。
自然と共生する、という彼らの暮らしぶりや文化が、白人が来るまでの長い長い間、伝えられ続けて来たことは、驚きに値します。
オーストラリアにヨーロッパ人が上陸した1788年頃、オーストラリア大陸には500〜600の部族に分かれた、30万人近いアボリジニが暮らしていたと言われます。
一般的に、アボリジニの人々は穏やかで、なるべく白人を避けるようにしていたようです。
1848年にエドモンド・ケネディという人の一行がカードウェルからケープヨークまでトレッキングしていた最中に、「血に飢えた原住民に暗殺された」という記録があるのですが、真相は、彼等の土地に無断で入ったために、槍で刺されたのではないかと言われます。
1860年代になると、クイーンズランド州の北、つまりこの地区にも多くの白人が移り住んできました。
更に、1873年、1876年と、金が発見されると、白人や中国人がどっと押し寄せます。
白人の入植と同時に、アボリジニの人々は、狩猟場所を追われ始め、白人たちの家畜や食料を狙う人々も増えました。
それまでは白人に興味本位だったアボリジニの人々も、狩猟地を追われて次第に怒り出します。
人食い人種と言った記述も残っていますが、ほとんどが誇張です。
ニュージーランドの先住民、マオリのように土地を守るために戦争を起こすと言ったことは、アボリジニの人々にはありませんでした。
彼等の戦いは、どちらかと言うと部族どうしの小競り合いと言ったもので、本来、穏やかな民族なのです。
ケアンズの熱帯雨林に住むアボリジニと白人の関係を研究したティモシー・ボトムスは、その著書の中で、2つの民族の出会いについて記述しています。
自らを「バマ」と読んでいたジャブガイ族の人々の暮らしの全ては、ブールールーと呼ばれる掟によって、制されていました。
この価値観を白人が理解しなかったことが、後の悲劇を招いた、と彼は言っています。

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ナマコ

2007年09月10日

1.トレス海峡のウオリアー島で、ナマコを処理する地元島民

2.グリーン島を出発したナマコ漁船。1931-32年

3.1890年に発行されたクイーンズランド州の産業報告書にも、ナマコのことが記載されている

 

 ケアンズが正式に港として認定されたのが1876年。その後、ファーノースと呼ばれるこの地域一帯には、金、木材、砂糖、鉱山など様々な産業が栄えました。
が、実はそのずっと前から、ここには知る人ぞ知る産業があったのです。
それが、ナマコでした。グレートバリアリーフに囲まれた温かなケアンズ近郊の海は、中国で買い手に事欠かないナマコの産地で、古くは1600年代からインドネシア人が危険を犯してまで当地に赴き、ナマコを捕っていたという記録があります。
1803年8月17日、オーストラリアの海岸線を海図に記していたマシュー・フリンダーズの船がリーフで座礁し、その際に乗組員がナマコを発見。翌年に捕獲を始めました。
また、ケアンズという町が興る約50年前、1827年には、10トンものナマコがティモールのKupangで最高値で売られたと記されています。

グレートバリアリーフのほとんどの場所と海岸線沿いで捕れるナマコは、新鮮に保つために、捕れるとすぐにおろされ、内蔵を取ってきれいにすると燻されました。
この臭くて人が嫌がる仕事は、安くで雇われたアボリジニやトレス海峡の島民たちが担当したそうです。
当時はフィッツロイ島やフランクランド島など、グレートバリアリーフの島々にナマコの処理場がありました。
当時は観光客が来ることもなく、ひっそりとしていたグリーン島に、J.S.V. Mein社によって、小工場が作られたのは1858年のこと。
1873年、1874年には白人スタッフがアボリジニに殺され、船を奪われるなど、いくつかの悲劇に見舞われてしまいます。
原因ははっきりしませんが、アボリジニ労働者に対する不当な扱いが殺人につながったのでは、という説があります。
この時のナマコの漁師の中には、ヨーキーズノッブの名前の由来となった、イギリス、ヨークシャー出身の、通称ヨーキーがいました。グリーン島の世話人として知られた彼は、後年、グリーン島でアボリジニに殺された幽霊の恐い話を人々に語ったと言われます。
事件もあり、グリーン島のナマコ工場の業績はその後もあまり振るわなかったようですが、後年、タウンズビルという町の名前になったタウンズ船長が引き継いで、ニューサウスウェールズ州に住む中国人への商売を始めて成功を納めました。
その後ナマコの価格は更に上昇し、中国や香港への輸出が始まりました。
中でも13隻の船で450人もの人を雇っていたクックタウンが産業の中心地となり、1881年からの2年間の年間輸出量は3万パウンドにも及んだそうです。
20世紀になると、政府が先住民の雇用や、価格について規制を設け始め、ナマコ産業は次第に静かになっていったのでした

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教育と綿の栽培で実績を残した博士

2007年09月10日

記事と直接の関係はありませんが、ケアンズ周辺の学校の写真をご紹介します。

1.クックタウンのセントメアリー修道院1905年

2.ケアンズセントラル州立小学校。1909年。当時603名ほどの生徒が通学。現在は取り壊され、オアシスリゾートが建っている。

3.ケアンズ州立高校1920年。(94年に焼失)

4.エッジヒル学校(後のケアンズノース学校)1918年

5.ケアンズで初めての学校でエスプラネードにあった。1883年。 

 

 今回は、カラボニカ(Caravonica)小学校の名前に縁のある、デイビッド・トマティスについてお話します。
イタリアからの移民であり、オーストラリアで教育を受けた後、タウンズビルでグラマースクールの校長となった、トマティス氏。
彼がケアンズに来たのは1884年の10月、ケアンズの港が開港した数週間後のことでした。
フレッシュウオーターに1000エーカーの土地を借り受けたのですが、この頃、洪水やサイクロンなどで、近くのスミスフィールド村は消滅。
それでも、ケアンズの将来性を感じたトマティスはこの地に残ることにしました。
彼は、科学と農業の博士でした。その知識を使って、自分の土地に、米、ココア、コーヒー、ナツメグ、クローブなどを栽培します。
土地は、彼がファーノース地区に移住してくる前に亡くなったと言われる妻、ベロニカから取って"カラボニカ"と呼ばれました。カラは、イタリア語で愛、ボニカはベロニカを短くした言い方です。
(カラボニカ州立小学校の名は、トマティス氏の教育における功績を讃えて付けられたものと思われます。   実際、彼は1886年頃、エスプラネードにグラマースクールを、現ホワイトロックとエドモントンの間に小学校を開設しました。)
その頃、中国人の移民が綿の栽培を試みており、現在ストックランドショッピングセンターになっている所には、ホップワープランテーションと呼ばれる農場がありました。結局、綿の栽培は失敗に終わり、この土地はサトウキビ畑になります。
この後、農業の権威でもあった彼は、自ら綿の栽培に挑戦します。
そして、ホップワープランテーションからの原料となる野生植物と、ペルーやメキシコから取り寄せた種を掛け合わせ、丈夫なコットンを作ることに成功したのです。
このコットンのサンプルは世界中に送られ、アメリカ、インド、イタリアなどから、種の注文が次々と入りました。
彼は綿を栽培するために、更に広い土地を耕し、綿繰り機を輸入して、産業の発展に努めました。
しかし、この頃には、綿に変わって砂糖が大きな産業に成長していきます。
1908年、彼のコットンがフランコ・ブリティッシュ展覧会で名誉賞を受賞した翌年、カラボニカは、綿の栽培を続けると言ったドイツの会社に売却されました。
オーストラリアで全ての夢を叶えることができなかった彼は、この後イタリア、そしてメキシコへと旅発ったそうです。
現在、彼の名は、キャプテンクッ・クハイウェイの下を流れるトマティスクリークと、カラボニカという地名に見られるだけとなりました。
今となっては、この土地で、世界的に認知された綿が栽培されていたことを知る人は、ほとんどいません。

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