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エッセー

ナマコ

2007年09月10日

1.トレス海峡のウオリアー島で、ナマコを処理する地元島民

2.グリーン島を出発したナマコ漁船。1931-32年

3.1890年に発行されたクイーンズランド州の産業報告書にも、ナマコのことが記載されている

 

 ケアンズが正式に港として認定されたのが1876年。その後、ファーノースと呼ばれるこの地域一帯には、金、木材、砂糖、鉱山など様々な産業が栄えました。
が、実はそのずっと前から、ここには知る人ぞ知る産業があったのです。
それが、ナマコでした。グレートバリアリーフに囲まれた温かなケアンズ近郊の海は、中国で買い手に事欠かないナマコの産地で、古くは1600年代からインドネシア人が危険を犯してまで当地に赴き、ナマコを捕っていたという記録があります。
1803年8月17日、オーストラリアの海岸線を海図に記していたマシュー・フリンダーズの船がリーフで座礁し、その際に乗組員がナマコを発見。翌年に捕獲を始めました。
また、ケアンズという町が興る約50年前、1827年には、10トンものナマコがティモールのKupangで最高値で売られたと記されています。

グレートバリアリーフのほとんどの場所と海岸線沿いで捕れるナマコは、新鮮に保つために、捕れるとすぐにおろされ、内蔵を取ってきれいにすると燻されました。
この臭くて人が嫌がる仕事は、安くで雇われたアボリジニやトレス海峡の島民たちが担当したそうです。
当時はフィッツロイ島やフランクランド島など、グレートバリアリーフの島々にナマコの処理場がありました。
当時は観光客が来ることもなく、ひっそりとしていたグリーン島に、J.S.V. Mein社によって、小工場が作られたのは1858年のこと。
1873年、1874年には白人スタッフがアボリジニに殺され、船を奪われるなど、いくつかの悲劇に見舞われてしまいます。
原因ははっきりしませんが、アボリジニ労働者に対する不当な扱いが殺人につながったのでは、という説があります。
この時のナマコの漁師の中には、ヨーキーズノッブの名前の由来となった、イギリス、ヨークシャー出身の、通称ヨーキーがいました。グリーン島の世話人として知られた彼は、後年、グリーン島でアボリジニに殺された幽霊の恐い話を人々に語ったと言われます。
事件もあり、グリーン島のナマコ工場の業績はその後もあまり振るわなかったようですが、後年、タウンズビルという町の名前になったタウンズ船長が引き継いで、ニューサウスウェールズ州に住む中国人への商売を始めて成功を納めました。
その後ナマコの価格は更に上昇し、中国や香港への輸出が始まりました。
中でも13隻の船で450人もの人を雇っていたクックタウンが産業の中心地となり、1881年からの2年間の年間輸出量は3万パウンドにも及んだそうです。
20世紀になると、政府が先住民の雇用や、価格について規制を設け始め、ナマコ産業は次第に静かになっていったのでした

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