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木曜島へ真珠を採るためにやってきた日本人たち -その2-

2007年09月10日

木曜島にての一こま。ジャパニーズ・スポーツフェスティバルとある。1894年には日本人クラブの建物が建てられ、当時多くの会合やイベントが開かれた。

 

 真珠産業が盛んだった木曜島に、まだ日本が貧困だった明治時代から、「億万長者になれる」と多くの日本人がやってきたことに前号で触れました。
ただ、一番稼ぎが良かったダイバーは、収入の良さに比例して事故もかなりあったと言います。船上の補助夫、テンダーと潜っているダイバーの連絡は、一本のロープのみでした。例えば一回ロープを引くと「上昇したい」、2回引くと「空気が足りない」、3回は「ホースがたるんでいる」、揺らしながら2回引くと「危険」など、21通りもの信号がありました。
体質的にダイバーに向かなかった人や、どうしても潜るのが怖かった人がテンダーになったそうですが、ダイバーの命綱を預かり、船長でもある責任は相当なものであったでしょう。
ダイバーによって一番怖かったのが潜水病です。15メートル以上の深海へ降りると水圧の変化で血液中から窒素ガスが出ようとし、全部抜けきらないうちに引き上げられると血液中で小さな泡になり、血行障害を引き起こして麻痺や死をもたらしました。
潜水病には3段階の症状があり、軽いものは手足の神経が異常をきたして激痛に襲われるもの、次はめまい、吐き気と手足腰の神経の異常で、ひどいときは足腰が立たないほどぐにゃぐにゃになったそうです。
一番危険だったのは、45メートル以上の海底で起こるパレライスという症状で、船上で血を吐いて苦しみ、死亡することも多くありました。この症状を見た人は、「腹から胸に血の玉が上がってくる」と言ったそうです。(大正7年に直井菊松という人がイギリス海軍軍医ムーメリが編み出したガントン療法を木曜島に伝え、潜水病の恐怖はなくなります。)
死と隣り合わせの危険な仕事にも関わらず、1897年(明治30年)頃は島の人口の3割が日本人で、中には数十隻の採貝船を保有し、1800人以上のダイバーを雇って年間10万円以上を稼ぐ「木曜島のキング」、佐藤虎次郎という富豪もいました。そんな状況をよく思わない白人経営者の働きかけで1898年に制定が改訂され、採貝船の所有資格は英国人もしくは帰化人に限られてしまいます。
ただし、素晴らしい働き手である日本人は白人経営者も手放しがたく、移民制限法が制定されても密航者が後を絶ちませんでした。密航は、一ヶ月近くも船の体一つ入る程度の場所に居続けることがあり、島に着いてからも誰にも見つからないように肌を焼いて島の人のようにみせかけたりと、苦労が伴うものだったようです。
1920年代まで好調だった真珠採取ですが、1931年の世界恐慌で市場が一気に衰退。この時多くの日本人が解雇されました。そして1941年に太平洋戦争が始まると、オーストラリア政府は日本人を全員逮捕。
司馬遼太郎氏の「木曜島の夜会」によると、「豪州政府は(中略)軍艦を派遣してきて、日本人三百人を虜囚にし、小さな汽船の船底に押し込めた。暑いころで、船底に風が来ず、たちまち病人が続出した。豪州政府は木曜島の日本人を人間として見る余裕がなかったのか、豚よりもひどいあつかいだった」とあります。
戦後、オーストラリア人と結婚している人を除き、ほとんどの日本人が矯正送還されました。この頃になるとプラスチックが出回り始め、高価な天然ボタンの需要はほとんどなくなり、木曜島の真珠産業は次第に衰退の途を辿ったのです。

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