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エッセー

第二次世界大戦とケアンズ地区

2007年09月10日

1.ヨーキーズノブに着陸した飛行機から降り立つ兵士たち(1943年)

2.アボット通りからウオーフ通りに向けて行進する兵士。この後木曜島へ向けて出発した(1914年)

3.40mm対空砲の前で。エスプラネード

4.エッジヒルの司令部にて。ガスマスクを着用するジム・ウーリー軍曹。ガスを散布される危険のあった当地区では毎週サイレンによる避難訓練が行われていた。

ほとんどの家々、学校、店の庭にはたこつぼ壕があった

5.戦勝と終戦を祝う人々。インペリアルホテルの前にて。ビールを回しているのがわかる(1945年8月)

 

 1941年12月、日本の真珠湾攻撃で幕を開けた太平洋戦争。
1月21日、海を渡ってすぐのニューギニアが攻撃されたことで、日本軍がオーストラリアに上陸するのではないかという現実味を帯びた恐怖が当地区の人々を襲いました。
ブリスベンやシドニーへ避難しようとする人が後を絶たず、学校も閉鎖されて、ケアンズと周辺は闇の中にいるような静けさに。1万5千人いた人口が7000人に減ったと記録されています。
モスマンに爆弾が落とされたり、グリーン島やヤラバーで日本軍の潜水艦が目撃されたり、地雷が発見されたりと、敵国の上陸の恐怖は日増しに強まりました。
マリーバやケアンズの空港からは珊瑚海戦に向けて飛行機が飛び立ち、ケアンズ高原(アサートン高原)は、30万人もの兵士が国中から集められ、連合軍としては最大規模の戦闘訓練所が設置されました。
また、トルガの近くのロッキークリークには6万人が利用した南半球最大の軍事病院があり、 現在は観光スポットでもあるレイクバリーンも、兵士達の軍事病院でした。
ケアンズ高原に病院を置くため、当時ただの山道だったキュランダレンジロードは、ブルドーザー1台、ダイナマイト、そしてシャベルと人力で舗装作業が行われます。(現在、キュランダへ行く途中の見晴し台の名になっているヘンリー・ロスは当時の監督官の名です)
キュランダの学校にはキャンプが張られ、ボトムパブにも医師や歯科医などが勤務していました。
元陸軍のある兵士は、キュランダからマリーバへ、そして帰着後トリニティビーチやヨーキーズノブでの水上飛行機の着陸訓練の後、またキュランダへ戻るといったハードな日々を回想しています。
1945年、広島の原爆投下を受け、日本が降伏宣言したニュースが公式に流れると、ケアンズの町は喜びに沸き返ったそうです。
通りには人々があふれ、隣にいる人と手をつないで徘徊し、心行くまで喜び叫んだ、と当時の新聞に書いてあります。
今年は終戦60周年記念。戦勝記念を祝い、ケアンズ高原には元兵士が国中から集まりました

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