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エッセー

第二次大戦中のケアンズ

2007年09月10日

1.水陸両用車が訓練を行ったトリニティビーチ。1944年。

2.第一次大戦後にケアンズ、アボット通りで行われた平和行進に参加した日本人と中国人。約20年後にオーストラリアと闘うことになるとはこの時は夢にも思わなかっただろう。

3.ニューギニアで行われた降伏調印式に向かう足立将官。1945年9月13日撮影。

4.Morataiに向けてケアンズを出港する兵士たち。1945年4月12日。

 

 8月の終戦記念日にちなんで、今回はケアンズが第二次大戦中どのような様子だったのかについてお話します。
1939年9月3日、オーストラリアが対ドイツの戦争に突入したというラジオ放送が流れましたが、クイーンズランド州北部の人々が戦争に関して不安を抱き始めたのは、1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃し、翌1月21日にニューギニアに爆弾を落とし始めた頃からでした。
海を渡ってすぐのニューギニアが攻撃されたことで、日本軍がオーストラリアに上陸するのではないかという現実味を帯びた恐怖が人々を襲ったのです。
その恐怖心は、1942年2月15日、日本軍がシンガポールを落とすと一層強くなり、車に家財道具をできるだけ詰め込んでブルースハイウェイを南下、ブリスベンやシドニーへ避難しようとする人が後を絶ちませんでした。ケアンズに持っていた家や土地をたった50パウンドで売ってしまったという記録もあり、パニックぶりがうかがえます。学校も閉鎖され、ケアンズと周辺は闇の中にいるような静けさだったと言います。
その後、木曜島に海軍基地が、ケアンズにもHMASキュランダと呼ばれる基地が置かれました。エッジヒルにあるタンクスは、当時、燃料を溜めておくために造られたものです。
3月までに東南アジアで亡くなったオーストラリア兵士は3万人を超えており、ニューギニアやその隣島から闘争で疲れ果てた兵士や怯えた市民などが、クックタウン、ケアンズ、イニスフェイルに突如、船で押し寄せました。
3月、日本軍がまさにニューギニアのポートモレズビーに上陸するところでしたが、中近東から帰ってきたAIF軍がどんどん到着したことで、人々の不安は少し和らぎます。陸軍キャンプがケアンズやテーブルランドなどに置かれ、ケアンズからはRAAFカタリーナの飛行中隊が活動を開始。兵士はニューギニア戦に備えて訓練を続け、沿岸警備隊に支給品を落下させる飛行機が徘徊、パトロールを続けました。
しかし、3月17日にフィリピンを引き揚げ、太平洋南西に新たな日本軍攻撃基地を作るというルーズベルト米大統領の命を受けたマッカーサー総帥がダーウィンに到着してからは事態が一変。翌月からケアンズ地区にも多くのアメリカ軍兵士がやって来ました。
それまでほとんど使われていなかった鉄道や港がめまぐるしく作動し、道や滑走路を造るためにトラックやトラクターが走り回るように。真珠の採取船までが駆り出され、島々へ物資を運びました。ガルフ地区やケープヨーク半島の牛10万頭を、日本軍が上陸して食べないようにと1600kmも南に運んだという記録もあります。
ケアンズの港は太平洋へ向かう船への重要な物資供給の港でした。マリーバは空軍基地が置かれ、米軍兵2000人が居留していたゴードンベールでは、ホテルを米軍病院に変更したりしました。
5月の珊瑚海戦の後は人々も落ち着き始めます。海戦は引き分けと見なされましたが、とにかく日本軍がオーストラリアに上陸するのを防げたからです。6月の第一週に、日本海軍はミッドウェイ海戦で終焉を迎えました。

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