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エッセー

2003年11-12月号・其の59 子育てよりも親育て

2007年09月05日

娘が生まれた時、妻と話した事がある。赤ん坊はよく泣く。言葉のしゃべれない赤ん坊がよく泣くのは、悲しい とかつらい等という事ではない。ただ単に本能として、親の関心を引く為だ。泣くたびに抱き上げていたのでは、まだ意思のない赤ん坊の本能的な意図に従う事 になる。つまり、赤ん坊というものは、泣く事により親のコントロールを開始しているのだ。泣くたびに飛んで行って抱き上げあやす事は、意思のない赤ん坊の 言いなりになる訳だ。

これだけで終わればいいのだが、これを繰り返す内に赤ん坊の中に一つの意思が育ち始める。泣けば親が構ってくれる。よけいに泣く。そしてこの意思がやが て大きな意思、我がまま、という意思にふくれ上がる。親は精一杯面倒を見ているつもりで、逆に子供に我がまま、親の言う事を聞かぬ、という種子を植え続け ているのではないか。
ヨシ、泣き出したら少なくとも2、3分は、放っておく事にしよう。泣く事は赤ん坊の出来る唯一の全身運動にもなる。

赤ん坊が寝ている間の我々の生活も、特別に静かに等しないで、まったく普段通りにしよう。飲んべエ共も寄って来るは、ガタガタ音も立てる。私は当時フラ メンコをかなり弾いていたので、マラゲーニャ、ファルーカ、ソレアレス等の得意曲をよく弾いた。静かにしすぎると、神経質な子に育つ。
そのせいかどうかは分からないけれど、娘は数ヶ月でほとんど泣かない子になったし、何処でもスヤスヤとよく眠った。

私は38年前、日豪合弁の南洋真珠会社に採用され、大学卒業と同時に豪州最北端の小島、木曜島分場に赴任。1年半を働いて一時帰国した時結婚し、妻帯赴任のテストケースの第一号として、新妻と共に再赴任した。
日本人宿舎と仕事場は木曜島の隣島の金曜島にあった。会社は私達の為に、小さな集落のある木曜島にフラットを捜してくれ、私は毎朝早朝、小舟で仕事場に通った。

クリスマス前のその日。暑かった。妻のお産が迫っていた。木曜島の病院は、金曜島の仕事場から真正面に見える小さな鼻にあった。妻のお産、という個人的な理由で仕事を休まなかった私は、昼休みになるのを待ちかねてスピードボートに飛び乗った。
汚れた仕事着のまま、海風でカーテンの揺れる妻の病室に入ると、もう娘の里味は生まれていた。私は何も言えなかった。言葉の分からない妻は、一人で里味を産んだ。海と空が競い合うように青い日だった。

島では我々二人だけの生活だった。私は仕事を休まず、妻は退院したその日から、産後の痛む体を引きずり、ガランとしたフラットで一日里味の面倒を見た。
娘がヨチヨチとようやく歩き始めた頃、又妻と話した事がある。私達はチョットした事が、子供の性格形成に大きな影響を与えるのではないか、と考えた。
子供はよく転ぶ。転ぶと必ず泣いて、親に頼る。こんな時には心を鬼にして、自力で立ち上がるまで放っておく事にした。立ち上がった時に誉めてやる。親に 頼らず、親に甘えず。悪い事をしたら、叱る。叱るのは私が一手に引き受けた。但し私がどんな叱り方をしても、妻は助け船を出さない事にした。さもないと子 供は必ず甘い親になびく。子供に二面性を持たせない事も大切だと思った。

言葉は親子の間は日本語で通す。言葉はその国に生まれた人間が最初に接する文化だ。日本人でありながら、片言の日本語しか分からなくなったら可愛そうな 事だ。英語は私達がヘタクソな英語を教えるより、自然のまま放っておき、学校へ行くようになったら、正確な発音の正しい英語を自然と身につけるだろう。と 言えば格好がつくが、つまりは、何もしなかった、という事だ。

豪州出発の実にその前日、私の父が急死した。長男の私は残る家族の面倒を見なければならず、給料のほとんどを送金していたので、島では貧乏だった。里味 にオモチャひとつ買った事もなく、服は妻が手縫いの物だった。それでも娘は木曜島の自然の中で、スクスクと大きくなった。まったく手のかからない子になっ た。車もなかったので、何処に行くにも歩かせた。4才位になると、一日中何キロも歩かせても、黙々とついて来た。

9年半島で働き、会社を辞めた。弟や妹を何とか卒業させたので、今度は私の夢を追いたかった。ケインズに下りて来て、空手道場に懸けた。ゼロからのスタート。34才。

娘はケインズの学校に入学した当初、英語で苦しんだようだ。それでも1年も経つと、クラスで一番になった。九才になって、空手の稽古を始め、ハイスクー ルに入る頃には、ジュニアクラスの大切な助手になった。道場から帰ると九時過ぎ。夕食が終わると十時を回る。それから学校のホームワーク。寝るのは毎夜2 時過ぎ。テスト中も道場を休んだ事がない。ハイスクールの六年間、文句ひとつ言わず毎日続けた。
大学は自分で進路を決め、一人でブリスベンに行って入学手続き等全部やってきた。私達親は、入学式にも卒業式にも行かなかった。大学卒業後、一時ゴール ドコーストで働いていたが、その内カンタスに入社し、ケインズに戻って来た。妻が喜んだ。もうそれから十年が過ぎた。

娘が21才になった時、日本人の父親として贈りたい物があった。娘は我が子ながら性格の良い、しっかりした明るい子に育った。豪州人達からも好かれ、信 頼されているという事は、大変な事だ。性格も豪州人らしい反面、今様の若い日本人女性より、はるかに日本人らしい面がある。

伊予松山の郷田刀匠。残念ながら故人になられたが、刀身彫刻では日本でも有数の人。刀匠に前もって短刀を一振り鍛えてもらい、焼き入れ前、日本に行って 私が実際に刀身に粘土を塗り、刃文の形取りをさせてもらった。これを染刃という。そして焼き入れ。その短刀に刀匠は一ヶ月かけて、ジックリと彫り物を入れ てくれた。見事な出来の短刀になった。
娘21才の道場のクリスマスディナーの席、皆の前で娘に手渡した。娘はその時初めて、私にすがってポロポロと泣いた。短刀の中心(なかご)の銘は表に刀匠の名前、裏に、長女里味二十壱才父松本主計之染刃、とある。

親が子供に贈る一番大切な贈り物は、物でも金でも財産でもない。その子の人生をしっかりと渡ってゆける性格の基礎を創ってやる事だと思う。外国において は特に子育ては難しい。それにしても今の世の中、子育てよりもしっかりした親、親育て、の方を先にしなくてはナ。

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