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エッセー

2005年1-2月号・其の66 心の襞(ひだ)

2007年09月05日

家の下側はスコンと落ちた、子供心にも石コロだらけのかなりの急坂になっていた。その坂道を前かがみになって十間も上がると、数段の階段があったように思う。タンタンと階段を踏み、畑の中を突っ切ってグルリと回り込むと、家の入口である広い土間が見えた。

ある時私はその坂道で、上って来る一人のホイト(方言で乞食を意味する)に出会った。男、だったと記憶している。ボロ布を身にまとい着けたそのホイト は、小さかった私の目に、まるで寄せ集めた木の葉を巣の回りに張り付けた、大きな蓑虫のようになった。

坂を上りきった所に小さなお堂があり、そこから広い桑畑の向こうに、神社の本殿があった。ホイトはその夜の宿を、神社の何処かに求めているのに違いなかった。

なぜかその夜の夕食は炊き込み御飯だった事を覚えている。終戦直後の事だ。食料の乏しかった頃だが、母の里である田舎に疎開していたせいだろう。そんなにひもじい思いをした記憶はない。

私はキット、そのホイトの事を母に話したに違いない。母は夕食の御飯をお椀に盛ったか、握り飯にでもしたのだろう。私の手を引いて家を出た。遠いと感じた神社の境内は暗く、人気のないのが恐かった。ホイトの姿はなかった。

坂道を上った所にあるお堂かも知れない、と母を促したのは、私だったような気がする。
案の定、ホイトはそこにいた。

あの食糧難の時代に、母の持参した炊きたての御飯は、何とも有り難い贈り物であったに違いない。ホイトは地面に座り込み、手を合わせて母を伏し拝んだ。 私にはその時の母が何とも誇らしく、母の行為がキラキラと輝いて見えた。私は多分四歳かそこらのガキだったと思う。これが私の最初の母の記憶になった。

昨年、日本へ行った。沖縄戦で散華した薩摩の知覧特攻隊の跡を訪ね、郷里の松山へ入った。松山にはいつも数日余りしかいず、母とユックリ話をする間もな い位だが、母は私の顔を見るだけで、安心しているようだった。この折、ポッと疎開していた母の里、小倉の話になった。宇和県から汽車やバスに乗り、エラく 遠い山の中の里のように記憶していたが、今では高知に抜けるハイウェイにのると、松山から車で2時間足らずで行けるという。

坂道にあった疎開先の家、小さなお堂、母の里の本家と分家、最初の小学校、魚を追ったあの広い広見川。あの当時の小倉の村の光景は、まるで一枚の写真のように、私の脳裏に焼き付いていた。ソウカ、もうあの時から60年近くの歳月が流れたのか。

母の一族は佐竹、といった。小倉の村一帯の大地主で、母は名主の娘として戦後の農地改革で全てを無くすまで、何不自由なく暮らしていたようだ。一族の墓 は明治初年に建てられた本家を目の高さに見る小高い丘の上にあり、あの花は何と言う花なのだろう、ケシの花によく似た大柄の花が咲き乱れていた。広い墓 だった、と記憶しているが、60年ぶりに墓参したこの墓所は、こんなに狭かったのだろうか。墓所から見渡せた本家の建物は、まるで目と鼻の先のような距離 にあり、人手に渡ったその建物は、見る影もない程荒れはてていた。

疎開中に住んでいた家は、スッカリ建て変わっていたが、坂道はそのまま残っていた。なだらかな坂だった。上りきるとお堂がそのまま残っていた。驚いた事 に、神社はすぐその横にあった。子供の頃の距離感というものが、こんなにも大きな差があるものか、と記憶の線を辿りながら再確認した事だった。

60年近くも前、私の最初の母の記憶は、あのお堂からスタートした。私の脳裡には、表情は分からないけれど、あの時、キラキラと輝いていたような母の姿 がある。子供の記憶というものは、スゴいものだと思った。そして私の最初の母の記憶が、そんなにも素晴らしいものであった事を母に感謝する。
子供は親の背を見て育つ。これは本当だ。

ヤレヤレ、今年も何とか無事終わったか、と思った。12月11日、道場のクリスマスパーティ。200名が集まり、盛会だった。
今年の大人のクラスはまアまア、という状態だったが、子供は相当数入門し、それなりの数も脱落していった。

私の道場は来年30周年を迎える。30年も子供を見ていると、子供の質の変化がよく分かる。我がままで集中力が全く無い、線の細い子供が激増している。 こんな子供に空手の技術を指導するだけでなく、規律というものを教え込まねばならないから大変だ。豪州人の道場は子供を誉めまくって指導する。コリャ駄目 だ。能力のないくせに頭ばかりデカイ、糞生意気なガキに育つ反面、プレッシャーには弱い子供になる。

最近大人が子供を怒らなくなった。口で言うだけなら、物事の道理を理解する能力の未発達な子供が聞く訳がない。怒らなければならない時は、本気で怒らな くては駄目だ。道場という場所は、空手というものを楽しみ、汗を流すだけでなく、規律を教え、且つ悪いガキ共は、本気で怒ってやらねばならない所だと信じ ている。悪ガキの尻をヒッパタクのに親の目を気にしたり、止めてしまうのを心配していたら、本当の空手の指導は出来ない。

難しいのは空手の技術、規律のみならず、どうしたら情操面を発達させる事が出来るか、を最近よく考える。相手を殴る、蹴るだけでなく、いかにその技をコ ントロールできるか。上級者は下級の者を助け、面倒を見させる、等々は、確かに尊敬心を育て、且つ情操の発達にも影響を与えるはずだ。

その上に、いかに子供に感動を与えるかが大切になってくる。これには試合に出場させるのがいい。勝って喜ぶのも負けて悔しがるのもよし。その気持ちの積み重ねが大切なのだ。
子供の心に感動を与える対象は、何でもいい。出来るなら母なる自然の中で、季節ごとの花を賞で、空の青さ、星の美しさを悟り、吹く風の中に立たせるのが いい。親の感動はそのまま子供の心の中のヒダに残る。この心のヒダの数が、大人になった時の感受性、好奇心、人への思いやりという人間らしい生き方へとつ ながってくる。

ヤレヤレ、こんな糞難しい事を書くのは、面倒臭い、と思うけれど、人間誰しも年をとってくると、人間らしい生き方というのが分かってくる。分からない人 は、心の貧しい生き方をしてきた人だ。だからこそ私達の年代は、時には言いたいことを胸を張って言わねばならない。これが私達の年代の義務、又次の世代へ の思いやりになる。

60世年振りに母と小倉の村の小さなお堂を見た。もうホイトの出る世ではなくなった。母にその事を話すと「そんなこと、あったかエ?」ネッから覚えてい なかった。まア親というのは、そんなモンだ。サァー、二〇〇五年も頑張るぞ。去り行く二〇〇四年に乾杯!

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