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エッセー

2005年3-4月号・其の67 個性

2007年09月05日

女、卯の花色の管笠の下から、ぬめるような目をして私を見た。猿の子でもでも抱くように、右手に裸同然の赤ん坊をかかえている。言葉は通じなかった。ただ黙って、ガムの入った左手の小箱を、祈るような手付きで何度も私に差し出した。

どう見たって、あまり金を持っていそうもない外国人旅行者達の集まる路地は、私の宿から歩いて数分の距離にあった。ここでは普通の洋食を食わせてくれ た。この数日、米から作るフォー、というメン類等のベトナム人の朝食ばかり食べていた私には、その油っこい朝食は、エラク御馳走に思えた。

百万を優に超すというバイクによるスモッグのせいなのだろうか。一度も青空に会えなかったのに、その朝、ポッカリと、染みるような青空が顔を見せた。サイゴン。

薄汚れたような暗い食堂に座るのがモッタイなくて、ソーセージの入った大盛りスペシャルを注文すると、妻と二人で、路上にあったガタピシするテーブルに座り込んだ。

周囲には、様々な人種がいた。彼等を観察しているだけで、空想豊かになる。物売りも多い。驚くほどの重量を、天秤棒で軽々と運ぶ女達。自転車はもう、小型トラック並だ。一切の兵器類さえも自転車で移動した、ベトナム戦の自転車部隊の名残だろうか。
家にいたら、朝食にソーセージ等、食べることもないのだが、それが妙にウマかった。

そこに座ったわずか小半時の間。次々と物売りがやって来る。小金を持っている日本人は、アタックの対象になるようだ。私は全部、チャンと言葉に出して断 る。物売りと言えども同じ人間。白人達のように、まるでハエを追い払うような仕種は、私には出来ない。

これも又その昔、競ってアジアに植民地政策を押し進め、東洋人を奴隷のようにこき使った白人達のおごりの名残、かも知れない。

「すまネエナア。今、間に合ってるヨ。他に行ってくンナヨ」

少し前、ガキの物売りから、噛みもしないガムを買ったところだった。その女、年の頃は25、6かナ。腰を少しかがめ、私の顔を覗き込むようにして、何度もガムを差し出した。

要らぬ物は、買えぬ。断った。女、まだいる。ぬめるような目に、訴えるような表情がある。こんな目に弱いなア、と思いながら、母親に叱られたガキのように、うつむいて、ソーセージを食べ続けた。

諦めた女が、赤ん坊を揺すり上げながら私に背を向けた時、管笠の下から、流れ出すように垂れた、見事な黒髪が目に入った。ハッとする程、きれいな髪だった。

私の新婚当時、妻は実にきれいな黒髪をしていた。ブラッシングをすると、ツヤが良くなるのヨ、と言って、時間があると、小首をかしげるようにして、ブラシを動かしていたものだ。私も時々、動物が毛づくろいをするように、彼女の黒髪を梳いてやった。

そんな甘さは、もうトックの昔に消えてしまい、妻自身も、長い髪の似合わない年齢なのかも知れないけれど、日本人も含め、東洋人には黒髪がよく似合う、 という私の思いは、今も昔も変わってはいない。そんな事を考えながら、赤ん坊を抱えた女が、管笠の下の黒髪を揺すりながら、人込みの中に消えて行くのを見 送った。

ベトナム女性の民族服をアオザイという。最近では様々の色を使用しているらしいが、元来、白。女性は皆、腰までもある長い黒髪を、無造作に束ねただけのヘアースタイル。

その黒髪が、管笠の下から白いアオザイの背中に流れる様は、思わず見とれてしまう。もう、顔なんか、どうでもいいや、と思ってしまう。その国の風土の中 から、国民の体型に合わせ、環境と生活に適したように生まれてきた民族服。これ以上に美しく、強い個性はない。残念ながらアオザイも、ベトナム女性達か ら、少しづつ姿を消しつつあるそうだ。

洋装がファッショナブルで且つ機能的であるがゆえに、かえって本当の個性、を殺してしまうのに気が付かない。

私の空手道場には、たくさんのオージー達がやってくる。彼等の最初の空手着。まア感心する程、様にならぬ。空手着が体に合い、似合うようになる頃には、 もう有段者のレベルになっている。空手、という武術が少し分かりかけ、東洋の礼儀作法も抵抗なく受け入れ、道場では、黒帯。その内面から滲み出る自信が、 稽古着の何とか似合う雰囲気を創り上げる。

ところが日本人。まったくの初心者でも、空手着が一発で、様、になる。これはもう、着物という文化を発達させ、長年に渡って身に付けてきた民族の、血、 のようなものだ。これが日本人、という個性の源になる。茶髪に白い稽古着は、似合わない。何処かチグハグな感じがして、上滑りに見える。

個性というものは、自分の持ち味を知る事から芽生えてくる。その努力もせず、流行ばかり追う風潮の強い日本人社会だからこそ、没個性の民族、等という貧しい批評を受けてしまう。

外国に住むことは、自分を知り、又自分の国を見詰めなおす、実にいいチャンスを与えてくれる。その切っ掛けは、何処にでもコロがっている、という事だろう。私の道場にやって来て、空手をやってみるのも、イイヨ。

個性、というものに目覚めると、その人の人間性の豊かさ、につながる道が出来る。外国に住むからと言って、外国人になる必要は、まったくない。むしろ、 もっともっと、日本人になってもらいたい。そうなると、日本人として、胸をはって生きてゆける。外地に日本人、としての市民権を得るという事は、こういう 事だ。

ヤレヤレ、又、ジジ臭い事を書いてしまったゼ。

リビケンの編集者、KEIKOとは、10年前に我が家で会った。ケインズへ来る日本人の為に、役に立つ雑誌を発行したい、と言う。ソンナラ、俺の出来ることは協力するヨ、と約束して以来の付き合いだ。

彼女、一見無愛想。知ってくるのに、時間がかかる。以前は、私が親しそうに話しかけても、ナンダ、この糞ジジイ。そんな目付きで私を見ていた。
この最近よく話をするようになり、コロコロと笑うようになった。彼女は、私の言う、いい意味での日本人。私はそんな彼女の個性を気に入っている。ワイン でも飲みながら、取り留めのない話を、ノンビリとしたい、と思うのだが、オジンと合わすのは、シンドイよ。そんな目付きをされるかも知れない、と思うの で、言い出しかねている。何しろ、親子ほど、年が違う。

とにかく、10年間。KEIKO、よく頑張った。おめでとう。私の道場は今年で30周年。お互いのけじめに、乾杯。

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