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エッセー

2005年5-6月号・其の68 日本が貧しく見えた日

2007年09月05日

「ワタシ、オーストラリアに住むの、コミュニズムからのエスケイプ。コミュニストの国、ワタシ、もう沢山」

たどたどしい英語だった。言っている内に、彼女の目が、見る見る白くふくらむのを感じた時、私は柄にもなく戸惑った。他人に、簡単に言える言葉ではない。

私の横に座った中年の女性。中国人に見えた。挨拶すると、はにかむように会釈を返したその物腰から、中国人ではない、と思った。中国人は、もっとガラガラしている。サイゴンからのシンガポール便。

物思いに沈んでいるような物静かな女性で、シンガポール到着前の機内放送を聞くまで、話し合う切っ掛けが掴めなかった。現地時間の調整がよく聞き取れな かったようで、私が教えてやってから、さしさわりのない話をした。彼女、パースに10年も住んでいるそうだ。サイゴンに住む母親を訪ねての帰りらしい。

シンガポールに到着し、機がゲイトに向かって滑走している時だった。豪州はまア住みやすい国ですから、お母さんも呼んであげれば、と私はまったく無責任な発言をした。
その時、彼女、まっすぐに私を見て、「チチ、ベトナムで死んだ。ハハ、チチ死んだベトナム、離れられない。私、ベトナム逃げた。もう、住めない」

豪州に住む事は、彼女の本意ではなかった。母親の住む母国に心を残しながら、コミュニスト政権に耐えきれず、国を出てしまった彼女の悲しみが、フト見知らぬ他人の私に話している内に、突き上げてきたのだろう。

機はもう、止まっていた。大半の乗客は、下りてしまっていた。
私は聞きたかった。コミュニストが何をしたのか。切っ掛けは何だったのか。そんなに簡単にコミュニスト政権の国を捨てられるのか。矢継ぎ早に聞いた。彼 女、涙を溜めた目で私を見て、何か言いたげに口を動かしたが、「ゴメンナサイ、ワタシ、もう行かねば…」気持ちを決めたようにスラリと立ち上がった。機内 には、もう誰も残っていなかった。

この数年、中国が大きく台頭してきた。豪州の鉄鉱石輸入も、米国を抜いて第一位。中国製物産は、至る所に軒をつらね、品質を誇る日本製品も、コストの安い中国製品に、太刀打ち出来ない状態に追い込まれている。これは戦後の日本経済上昇期を上回る。

豪州とは、自由貿易調停の関係。豪州の目は、日本を離れて中国に熱く注がれている。ケインズが景気の良くなった中国人観光客に塗り潰される日も、そんな に遠くないかも知れない。将来アジアを牛耳るのは、資源と労働力の豊富な中国、と誰もが見るが、一つ問題がある。民が豊かになってくると、どうしても資本 主義が芽生えてくる。これがコミュニズムと、どう対処してゆくか。その内、中国で何かが起こりそうな気がする。

つい最近、中国で、日本ボイコットデモが勃発した、と聞いた。日本の学校教科書の、中国に関する記述が原因という。こんな事でいちゃもん付けてくる方も くる方だが、この背後には、病的な程、自分達の主義に固執する、コミュニストの仕掛人がいるはずだ。腰の弱い日本政府、アタフタした事だろう。それにして もまったく、舐められたものだ。

中国が常に日本を仮想敵国にした軍事教練や教育を行ってきたのは、周知の事実だ。「日本の足ばかり引っ張りやがって、手前ェ達の国の、日本に関する教育は、どうなってンだ」啖呵の一つでも切れる日本の政治家はいなかったのか。まったく、情けない。

日本の教育界にも、事あるごとに国旗や校歌に文句を言い、歴史教育から首相の靖国参拝に至るまで、病的なまでに反対する集団がある。日本の戦後は、百万 を超える同胞の大きな犠牲の上に築かれている。良いとか悪いとか、の問題ではない。日本人として、人間として、国の為に死ななければならなかった人達の魂 を、大切にしなければならないのは、当たり前の事だ。その国の国民が、彼等の国旗を素直に受け入れ、敬意を持って扱わねばならないのは、当然の事だ。

それを無理にこじらせ、何が何でも反対する集団の体質は、主義こそ違え、何かにつけて、戦後60年経った今でも、日本を敵対視するコミュニストの一部 と、同じ臭いのする人間達だ。この人達が何等かの形で力を持っている限り、その国の教育の、まともな成長は期待出来ない。

それにしても、今年の豪州のアンザックフィーバーはどうだ。90年を過ぎた今、トルコのガリポリ上陸作戦現場の慰霊祭に2万を超えるオージーが参加した。これは少し、異常な感じがする。

第二次戦中の日豪の一番の激戦地はニューギニアのココダトレイル。この戦いだけで、1万2千もの日本兵が死んだ。現在豪州に訪れる日本人で、ココダの地 名を知っている者が、何人いるだろう。そういう教育を、我々は受けて来た。ココダの戦闘は、昭和17年の9月10日。今年の9月になると、豪州のナショナ リズムは、また大きく動くのだろうか。

豪州人のイメージ。良く言えば、人がいい、個性がある、親切、ほがらか、等々。悪くとれば、無責任、大雑把、なまけ者、信用出来ない…まアこれは日本人も同じだ。

てんでバラバラ。個人主義の豪州人。しかし、この国民、もし何かが彼等の国に起こった時、異常な程、バッと集団になれる不思議な強さがある。これはまとまっているようで、まったく我関せず主義の強い日本人との、大きな相違に思える。

ガリポリフィーバーの背後にも、仕掛人がいるような気配がする。何の為に、とすぐに勘繰りたがる、日本人的野暮は、この際引っ込めよう。その国の為に犠牲になり、死んでいった人達を思い起こす余裕を持つ事は、大切な事と、素直に受け止めたい。

ガリポリ一色だったテレビ番組のドキュメントの最後のナレーション。…TO FIND PAST IS TO FIND YOURSELF… 心に染みる言葉だ。それを聞いた時、この言葉を堂々と言える豪州の風潮を羨ましくも感じ、同時に、自国の国旗や歴史教育、首相の靖国参拝等にとび上がって 反対する、日本の教育者集団や、事あるごとに過去をほじくり出して日本の足を引っ張るコミュニスト集団の一部が、何とも貧しく思えた事だった。

機内から風のように去った、彼女。空港内でもう一度会った。妻が走り寄って、彼女の肩を抱いた。一人だと思っていたが、何人かの連れがあった。そのまま別れた。

ケインズ便には、4時間以上の待ち時間があった。私は彼女が最後に言いかけた言葉が、気になって仕方なかった。ホンの短い間であったけれど、私は人間同志、心に触れた思いがした。

掲示を見ると、パース便はDウィングだった。私達はCウィング。それだけの縁だった、と思ったけれど、意味のない事かも知れないが、一言、オーイ、豪州でも頑張ってやりやんセ。私の気持を伝えてやりたかった。

「チョイと、店でも見てくらア」
妻を残して立ち上がった。空港は広かった。Dウィングは歩いて10分以上。捜しながら歩いていたとき、パース便の搭乗案内が流れて来た。一足、遅かった。

「彼女に会えたかエ」
心を残して戻って来ると、妻が聞いた。妻は、私が彼女に会いに出たのを感じていたのだろう。「インヤ」と答えて、私はそのまま妻の横に座り込んだ。

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